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「ちゃんとしなきゃ」と息を止めているあなたを、100%全肯定する深夜アパートの話  作者: チャラン・ポラン


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『油まみれの正義』後編

夜の『山口診療所』は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

院長である山口綾子は、四十代後半の女医だ。小柄で、街の誰もが「穏やかな先生」と評するが、その実、この界隈で彼女ほど肝の据わった人間はいない。夜中に泥酔して暴れる大男を正面から怒鳴りつけるのも、面倒なヤクザに笑顔で説教して追い返すのも、彼女にとっては日常茶飯事だった。


最後のカルテを整理し終えた頃、待合室の引き戸が慌ただしく開いた。

入ってきたのは、母親に半ば強引に連れられた高校一年のユウトだった。

「あら、ユウトくん。どうしたの?」


見ると、右の膝にかなり大きな擦り傷を作っている。チャリを探している最中に派手に転んだのだろう、泥と血が混じって痛々しい。

「はい、ここに座って。傷、見せてね」


白衣のポケットからピンセットと脱脂綿を取り出し、綾子は診察台のユウトと視線を合わせた。

「痛いのを我慢するの、この部屋では禁止ね」


ユウトは頑なに口を閉ざしたまま、自分の膝をじっと見つめていた。消毒液を含ませた綿をあてると、一瞬だけ身体を強張らせたが、すぐに無理な笑顔を作って見せる。

「……怖かった?」

綾子が静かに尋ねると、ユウトは反射的に首を横に振った。

「別に。自転車、戻ってきたし」

「ふぅん」


綾子は手際よく包帯を巻きながら、あえてユウトの顔を見ず、夜の診察室に溶け込ませるようにポツリと言った。

「最近、多いのよね」

その声だけ、少しだけ冷えていた。

「大事なものを壊されたり汚されたりしても、“この程度で傷つく自分が悪いんだ”って思い込んで、強がっちゃう子」


それは、子供の心を軽んじる大人や環境への、医師としての静かな憤りだった。

「外側の傷はこうして私が治せるけどさ。大事な物って、壊された時……“物”より先に、自分の“気持ち”が傷つくんだよ。だから、痛くて当然なの」


その一言が、少年の胸の奥の一番柔らかい場所に触れたのが分かった。

ユウトの身体が、今度は痛みのせいではなく、小さく震え始める。次の瞬間、彼の目から堰を切ったように大粒の涙が溢れ出してきた。



「……あれ、おじいちゃんの、形見だったんです……」

「うん」

「すっごくボロかったけど……ずっと、大事にしてたのに……」

「うん」

「なのに俺、あいつらに何も言えなくて……守れなくて……っ」


ユウトは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

綾子は静かに椅子を引き、その涙を急かすこともなく、ただ隣で耳を傾けていた。

否定もしない、安易な励ましもしない。ただ、「傷が痛かったね」という、すべてを受け入れるような眼差しでそこに寄り添う。これこそが、彼女がこの街でずっと守り続けてきた『傷の消毒』のやり方だった。


ユウトは涙を拭いながら、しゃくりあげた。

「……でも、大将が。来てけろの大将が、めちゃくちゃ本気で、あいつらに怒ってくれて……」

「源ちゃんがね」

「あんなボロいチャリのために、店まで閉めて……。なんか、それを見てたら……俺、自分で思ってたよりも、あの自転車が本当に、本当に大事だったんだなって、分かって……」


少年の言葉を聞きながら、綾子はふっと目元を和げて小さく笑った。

「誰かが自分の代わりに本気で怒ってくれるとね、人間、自分の痛みを、ちゃんと“痛い”って認めて泣ける時があるのよ。源ちゃんは、そういうところが、本当にずるい男ね」


身を挺して強引に現実をこじ開ける源蔵の「男気」。そして、それによって表に出てきた痛みを、そっと受け止めて消毒する綾子の「寄り添い」。この二つの大人の形が揃って初めて、この街の子供たちの心は救われるのだと、綾子は改めて思う。



診察を終え、少しすっきりした顔になったユウトを連れて、綾子が診療所の外に出ると。

街灯の下、夜の肌寒い空気の中で、腕組みをした源蔵が不機嫌そうな顔で立っていた。タオルの代わりに、肩には年季の入ったライダースジャケットを引っかけている。


「よぉ。ガキ、生きてるか」

「……大将」


綾子は呆れたように腰に手を当て、いつもの調子で声をかけた。

「源ちゃん。診療所の前でメンチ切って、患者さん怖がらせるのやめてくれる?」

「切ってねぇよ!! 見守ってんだよボケ!!」

「はいはい、お疲れ様。ユウトくんの心、ちゃんと消毒しといたから」


二人の漫才のようなやり取りに、ユウトが思わず、さっきまでの涙を忘れて吹き出す。その様子を見て、綾子の胸にも静かな安心が広がった。


すると源蔵はふん、と鼻を鳴らし、自分の横にあった自転車を、ぶっきらぼうにユウトの方へと押し出した。

泥だらけだった車体は綺麗に拭き上げられ、ひしゃげていた前カゴは叩いて平らに直されている。そればかりか、錆びついていた銀色のベルの横には、ピカピカの新しいライトまで取り付けられていた。


「ほら。……油、差しといた。ブレーキのワイヤーも緩んでたから締めといたぞ」

「え……」


ユウトが目を丸くする。源蔵は視線を合わせないよう、そっぽを向いたまま、タバコを咥えてボソッと言った。

「大事なモンはな。戻ってきた時、ちゃんと直して綺麗にしてやんねぇと……可哀想だろ」


綾子は、そんな油まみれの男の広い背中を見つめながら、静かに目を細めた。

豪快で乱暴で、口を開けば悪態ばかり。けれど、この街の誰よりも他人の“痛み”に敏感な男。


自分の代わりに本気で怒り狂って、大切なものの価値を証明してくれる源蔵の「代弁」。

強がる少年の心の防壁をそっと解き、隠された傷を最初に見つけ出す綾子の「発見」。


サトシの古いアパートにある『静寂のエデン』が、迷子を静かに匿い、ただ息を整えさせる場所なら。

源蔵大将や自分たちのいるこの商店街は、傷ついた者を怒気とぬくもりで強引に立ち上がらせる、もう一つの『賑やかなエデン』だ。


どちらが正しいわけでもない。

時に静かに傷を癒やし、時に激しく心を揺さぶる。その多様な大人の在り方、無数の「守り方」があるからこそ、この街のエデンは、どんな小さなSOSも見落とさずにすくい上げることができる。


「気をつけて帰るのよ、ユウトくん」

「はい! 大将、綾子先生、ありがとうございました!」


新しくなったライトで夜道を照らしながら、祖父の自転車とともに力強く漕ぎ出していくユウトの背中。

綾子は、その小さくなっていく光を、隣の不器用な大男とともに、いつまでも愛おしそうに見守り続けるのだった。

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