『油まみれの正義』前編
放課後。商店街の外れにあるラーメン屋『来てけろ』は、いつものように部活帰りの高校生たちでごった返し、熱気と湯気で白く霞んでいた。
「大盛り三つ!!」
「レンゲ下げろレンゲ!! 突っ立ってんじゃねぇ!!」
「お前らチャーシュー奪い合ってんじゃねぇよボケ!!」
怒鳴り声みたいな接客なのに、なぜか店内の高校生たちはみんな嬉しそうに笑っている。
店主の源蔵は、首に油まみれのタオルを引っかけた、巨大でガラの悪い男だった。丸刈りの頭に、太い血管が浮き出た丸太のような腕。顔つきは完全にそっちの筋の人間だ。
けれど、この界隈では妙に慕われていた。
理由は単純で、“変なところでちゃんとしてる”からだ。
誰より先に店前の通りを竹箒で掃くし、雪の日は誰より早く起きて近所の分まで道を掻く。夜中に酔っ払いがベンチで寝ていれば、舌打ちしながら店用の毛布をガサツにかけてやるような男だった。
ただし、性格は間違いなく最悪だった。
「店の前にゴミ捨てる奴ァ、地獄行きだボケ!!」
そう怒鳴り散らした五分後には、近くの放置自転車のカゴにそのゴミをすべて詰め込み、「ざまぁみろクソガキ、持って帰れ!!」と腹を抱えて笑っている。
高校生たちは、ラーメンをすすりながら「あの人、本当に良い人なのか悪い人なのか分かんねぇな」といつも首を傾げていた。
ある雨の日。
『来てけろ』の常連である高校一年のユウトが、濡れた制服のまま、青ざめた顔で店の引き戸をあけた。
「大将……!! 自転車、盗まれた……っ」
店内が水を打ったようにざわつく。
その自転車は、去年亡くなった祖父から譲られた古い自転車だった。塗装は剥げ、あちこちガタがきていたが、ユウトにとっては世界に一台しかない大切な形見だった。
「駅前に停めてたら、無くなってて……」
泣きそうな顔で俯くユウトに、周りの高校生たちは「すぐ警察行けよ」「でも駅前だろ? もうバラされて売られてんじゃね?」と口々に言う。
源蔵はカウンターの中で、黙って煙草を灰皿に揉み消した。
「……色は?」
「え?」
「チャリの色だよ!!」
「く、黒です」
「特徴は」
「前カゴがちょっと曲がってて……ベルが、銀色で……」
源蔵は無言で、油の染みたエプロンをバサリと脱ぎ捨てた。
「店閉める」
「は!? 大将、今から夕方の営業ピークっすよ!?」
バイトの大学生がギョッとして叫ぶが、源蔵はニヤリと凶悪に笑った。
「ガキ一人泣いてんのに、ラーメン作ってられっかボケ。来てけろの意地見せっぞ、行くぞ!!」
そこから始まったのは、商店街を巻き込んだ大捜索だった。
源蔵が外に飛び出して雨の中で怒鳴り散らすと、八百屋の親父も、クリーニング屋のババアも、新聞屋も、配達途中の宅配の兄ちゃんまでが色めき立った。
「おいコラ!! 河川敷見たか!!」
「そっちの裏路地探せ!!」
「ガキども!! コンビニの前片っ端から見てこい!!」
半分ヤクザみたいな剣幕なのに、誰一人として嫌な顔をせず、雨の中へ散っていく。その街全体の圧倒的な「男気」の熱量に背中を押され、ユウト自身も、涙を拭って必死に走り始めた。
夜。街灯もまばらな商店街外れの空き地で、それは見つかった。
地元のタチの悪い高校生数人が、面白半分で乗り回し、そのまま泥の中に放り捨てていたのだ。
カゴはさらにひしゃげ、チェーンは外れて泥まみれ。変わり果てた祖父の自転車を前に、ユウトはショックで言葉を失った。不良たちは「あ、これお前の? わりぃわりぃ、ちょっと借りただけ」とヘラヘラ笑っている。
その瞬間、空気が爆発した。
源蔵が猛然と突進し、主犯格の胸ぐらを引き絞るように掴み上げると、そのまま空き地のコンクリート壁に背中から叩きつけた。
「がはっ……!?」
「お前さぁ……」
低すぎる、地を這うような声だった。源蔵の目が、冷酷な獣のそれに変わっている。
「もしこれがテメェの親父の形見でも、“わりぃ”で済ますのか?」
不良が恐怖で顔を引きつらせながらも、何か言い返しかけた――その瞬間。
ドォン!!!
不良の耳元の壁に、源蔵の巨大な拳が叩きつけられた。コンクリートが削れる鈍い轟音が夜を裂く。
「答えろ」
圧倒的な威圧。不良たちは声も出せず、ただ涙目で首を何度も横に振ることしかできなかった。源蔵がゴミを捨てるように手を離すと、不良たちは蜘蛛の子を散らすように夜闇へと逃げていった。
不良たちの足音が遠ざかると、源蔵は「……クソ痛ぇなチキショウ!!」と自分の拳を掴んで顔をしかめた。
「あー、絶対明日、警察から電話くるわこれ。めんどくせぇ……」
格好つけきれない生々しい悪態。けれど、その泥臭さがユウトの心を不思議と軽くした。
源蔵はふぅと荒い息を吐き、泥だらけの地面に無言で膝をついた。そして、自分の油まみれの手で、外れた自転車のチェーンを乱暴に掴んだ。
「……ったく。最近のクソガキは、チャリの直し方も知らねぇ。おいユウト、突っ立ってんじゃねぇよ。手伝え」
さっきまで一線を超えそうだった大男が、泥だらけになりながら無言でチェーンをはめ直していく。ユウトはその巨大な背中を、ただ言葉もなく見つめていた。




