『ほどけない癖』後編
アカネは、昼間に商店街でミサキのあの「知らない女」を見る横顔を見た瞬間に、すべてを察していた。
(あ……この人、今めちゃくちゃ苦しいんだ)
ユイとタカシが、昔の思い出話を楽しそうに交わして笑うたび、ミサキの形の良い眉がほんの少しだけぴくりと動く。鋭い視線が、二人の距離を何度もなぞるように追う。
でも、彼女のプライドが邪魔をするから、絶対にその会話の中に自分から口を挟しようとはしない。
その、必死に平静を装いながら、内側で黒い感情の嵐に耐えている感じが、かつての自分の姿にあまりにもそっくりだった。
「相手に、重い女だって思われたくない」
「これ以上、誰かに醜く依存したくない」
「嫌われたくない、嫌われたくない」
頭の中でそうやって呪文のように唱えながら、でも本当の本当は、ただ、大好きな人が自分の手の届かないところへ行ってしまうのが、置いていかれるのが、死ぬほど怖いのだ。
アカネはその感情の、喉の奥が焼けるような痛みを、誰よりもよく知っていた。嫌というほど、身に染みて。
夜。アパートの外階段。
少し湿った夜風が吹き抜ける鉄製の段差に、ミサキは一人で腰掛け、細い指先で挟んだ煙草を吸っていた。先端の小さな赤火が、暗闇の中で寂しげに明滅している。
「カン」と、静かな夜の空気の中で缶コーヒーがぶつかる音がして、アカネが二本の温かい缶を両手に持ったまま、当然のようにミサキの隣へと腰を下ろした。
ミサキは紫煙を吐き出しながら、冷ややかな目を向けた。
「……何よ」
「いや、なんか夜風が寒いなーと思って。これ、飲みます?」
「相変わらず気遣いが下手くそね、アンタは」
口では毒づきながらも、ミサキは差し出された缶コーヒーを拒まずに受け取った。手のひらに広がる、じんわりとした確かな熱。
しばらくの間、遠くを通る車の走行音だけが響く、静かな沈黙が流れた。
やがて、アカネが自分の缶を見つめたまま、ぽつりと静かに言った。
「……なんか、昔の私みたいだなって思って、見てました」
ミサキの綺麗な眉が、ぴくりと不快そうに跳ね上がる。
「アンタと一緒にする気?」
「あはは、すみません」アカネは自嘲気味に、どこか懐かしむように苦笑いした。
「でも、私もさー、昔めちゃくちゃ怖かったんですよ。相手に嫌われるのが。重いって思われるのが。……だから, 嫌われないように必死に物分かりのいい『いい子』の振りをやって。でも結局、心の奥にある寂しさが破裂して、勝手に一人で苦しくなってさ。で、最後は勝手にボロボロに壊れるっていう」
ミサキは、手元の煙草の灰をトントンと落としながら、ふっと鼻で小さく笑った。
「なによそれ。……最高に面倒臭い女ね」
「でしょ?」 自分でも本当にそう思います」
二人で、夜の暗闇に向かって少しだけ声を潜めて笑った。
ただそれだけのことで、ミサキの肩の力が、ほんの少しだけ楽になったような気がした。
「でもさ……」
ミサキが、煙草の煙の向こう側にある、星の見えない夜空を見上げながら、掠れた声で呟いた。
「怖いもんは、怖いの一言に尽きるのよ。……その人が、自分の手の届かないところへ行っちゃうのも、いつかいなくなるのも」
アカネは、隣でその横顔を見つめながら、静かに、深く頷いた。
「うん。……分かるよ。めちゃくちゃ分かります」
冷たい風が、アパートの錆びた手すりを鳴らして吹き抜けていく。
薄い壁の向こう、四畳半の部屋の窓からは、「おいおいマジかよー!」というタカシの、いつも通りの馬鹿みたいに大きくて濁りのない笑い声が、微かに漏れ聞こえていた。
その声を遠くに聞きながら、アカネは一語一語を確かめるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「でもね、ミサキちゃん。それってさ、“重い”んじゃなくて、それだけタカシくんのことが、ちゃんと大事だから怖いんだと思うんだよね」
ミサキは、ハッとしたように少しだけ目を伏せ、長い睫毛を揺らした。
その言葉は、かつて、誰にも言えずに暗闇の中でガタガタ震えていた頃の、アカネ自身が世界中の誰からでもいいから欲しかった、救いの言葉そのものだった。
誰かを心の底から大切にすると、人間は同時に、もの凄く怖くなる。
失うのが恐ろしい。置いていかれるのが怖い。だから、胸が苦しくなって不格好に足掻いてしまう。
それは、決して醜いことでも、恥ずべき依存でもない。ただの、純粋な愛着の裏返しだ。
アカネは、あの頃の自分へは決して届けることができなかったその優しい言葉を、今度は、隣で震えているミサキのてのひらへ、そっと手渡していた。
「おーーーい! 二人とも、外で何してんだよ! 部屋の中入らないと寒いぞーーー!」
階段の下から、窓をガラッと開けたタカシの、空気を読まない馬鹿みたいな大声が夜空へと飛んでくる。
ミサキはそれを見た瞬間、堪えきれなくなったように、ふっと小さく吹き出した。
「……ほんっとに、うるさい犬ね、あいつは」
笑いながら立ち上がり、缶コーヒーを片手に部屋へ戻ろうとする。
けれど、ミサキはふと足を止め、温かい明かりが漏れる窓の向こうを、もう一度だけ静かに見つめた。
部屋の奥から響くタカシの突き抜けた笑い声を聞きながら、胸の奥では、やっぱりまだ少しだけ「怖い」と思ってしまう自分がいる。明日になれば、また些細なことであの暗い濁りが喉の奥まで競り上がってくるかもしれない。そんなものは、そう簡単に消えてはくれない。
でも。
(この“怖い”を、もう昔みたいに、アンタの前で隠さなくていい気がした)
完全に克服できたわけじゃない。ほどけない癖を抱えたまま、それでも。
ミサキは煙草の吸殻を携帯灰皿へ放り込むと、夜風に冷やされた体を小さくすくめて、明かりの灯る部屋へと歩き出した。




