『ほどけない癖』前編
その女は、穏やかな陽の光がアーケードの隙間から届く昼下がりの商店街に、あまりにも自然に、そして突発的に現れた。
「えっ、……タカシ!?」
惣菜屋の並びにある八百屋の前。大根やキャベツの詰まった買い物袋を両手に提げて歩いていたタカシが、その声に弾かれたようにぱっと大きな顔を上げた。
「あれ!? ユイじゃん!! うおー、お前、久しぶりすぎるだろ!!」
次の瞬間には、二人の周りだけ時間が数年ほど巻き戻ったかのような、あまりにも自然で、遠慮のない距離感が出来上がっていた。
というか、実際に二人は昔からの気心の知れた友達だったのだ。
ユイは、タカシがこの街に来る前、まだ何者でもなかった貧乏学生時代に住んでいたボロアパートの近所にいた女の子だった。お金がなくてひもじかった頃、一つのカップ焼きそばを律儀に半分こにして分け合ったり、夜中に誰もいない静かな公園のベンチで、将来のくだらない夢を朝まで語り合ったりしていた仲らしい。
「相変わらずデカっ! 縦にも横にもさらに伸びたんじゃない?」
「お前こそ、ちびっ子のままで全然変わってねぇなー!」
ガハハと豪快に笑い合いながら、バシバシとお互いの背中を叩き合っている。
その様子を、数メートルほど離れた惣菜屋『おおはし』の軒先から、ミサキは冷え切った無表情のままじっと見つめていた。
「……誰、あれ」
隣で揚げ物のパックを整理していたアカネが、あどけない調子で「あー、なんかタカシくんの昔の地元の友達らしいですよ。さっき偶然会って、アパートに連れてくって言ってました」と呑気に答える。
だが、その声はもう、ミサキの耳には半分も届いていなかった。
ミサキの胸の奥では、すでにあの、どうしようもなく不快で、ドロドロとした嫌な感覚が静かに始まりを告げていた。
近い。二人の距離が、あまりにも。自分の知らないタカシの顔が、そこにはあった。
夜。いつもの古い木造アパートの一室。
ユイは「わー、懐かしい! この部屋、まだ生きてたんだ!」と言いながら、当然のような顔をして畳の上に上がり込んでいた。
「失礼だな!? ちゃんと俺の城として現役バリバリだよ!」
「何が城よ。タカシ, 昔ここで安物の土鍋を盛大に焦がしてさ、部屋中煙だらけにして泣いてたよね?」
「ぶっ――! それ言うなって!! ミサキたちの前で昔の黒歴史を掘り返すな!」
狭い四畳半で、ゲラゲラと楽しそうに笑い声を響かせている二人。
ミサキは、そんな喧騒から背を向けるようにして薄暗い台所に立ち、無言のまままな板の上の野菜に包丁を入れていた。トントン、と刻む音が、自分の心音のように妙に速く、硬く響く。
別に、二人が恋人同士とか、そういう関係じゃないことくらいは分かっている。タカシがユイに対して、そういう異性としての特別な目をこれっぽっちも向けていないことも、その野生動物みたいな純粋さを見れば痛いほど伝わってくる。
物理的な距離のことではない。その頭の“分かる”とは全く別の場所で、ミサキの胸の奥は、じわじわと黒く濁った絵の具を溶かしたように淀んでいく。
自分の知らない時間。自分の知らない過去。自分の前では決して見せない、昔の仲間だけに向けるタカシの、どこか幼い笑顔。
それが、どうしようもなく、震えるほど怖かった。
「……ミサキちゃん?」
後ろから、心配そうな顔をしたアカネがそっと声を掛ける。
ミサキはハッとして、自分が息を止めていたことに気づいた。見下ろせば、包丁を握る指先が白くなるほど、異常なまでの力が入っている。
「あ……ごめん。なんでもない」
「……本当に大丈夫?」
「大丈夫」
反射みたいに言葉を返して、その瞬間、ミサキは自分の内側にある最悪な「正体」に気づいてしまった。
――ああ、これ。昔と、まったく同じだ。
かつて、サトシが自分の知らない他の誰かに向けて優しく笑うたび。サトシが自分の手の届かない、暗くて深い場所へ行ってしまうたび。
自分だけがその世界に置いていかれるような気がして、胸が締め付けられ、息ができなくなっていた、あの狂おしいほどの執着。
「……最悪」
ミサキは、包丁を置いて小さく呟いた。
もう二度と、あんな醜い風にはなりたくなかったのに。あの暗い泥から、タカシが引っ張り上げてくれたはずだったのに。
夜もすっかり更けて、終電間際にユイが「じゃあねー!」と嵐のように帰っていったあと。
タカシは、部屋の中を支配していた微妙な空気に一ミリも気づかない顔をして、コンビニで買ってきた安いプリンをスプーンで突ついていた。
「いやー、マジで懐かしかったな! あいつ、相変わらず口が悪くてさ」
ミサキは、畳の上に座り込んだまま、しばらくの間じっと沈黙を守っていた。けれど、やがて抑えきれなくなった感情が、ぽつりと乾いた声になって口からこぼれた。
「……楽しかった?」
「え?」
「昔の友達と会えて、そんなに楽しかった?」
タカシはプリンを口に運ぼうとしたスプーンを、ピタリと止めた。
「うん? まぁ、そりゃ、久しぶりだったしな」
その、悪気のない無邪気な返事だけで、ミサキの胸の奥がギチギチと音を立てて痛んだ。
嫌だ。本当に嫌だ、この感じ。
誰か一人に盲目的に執着して、その人の世界の全部になりたくて、でも決してなれなくて、勝手に一人で苦しくなって、最後は自分で自分を壊していく、あの最悪な癖。
ミサキは、膝の上で握りしめた拳を震わせ、俯いたまま掠れた声で呟いた。
「……私さ」
「また、重くなってない?」
部屋の空気が、急にシンと静まり返る。
タカシは、本当に意味が分からないという風に、眉を八の字にしてきょとんとした。
「え?」
「いや、だから……っ」
顔を上げられない。声が、どうしても細かく震えてしまう。
「アンタがさ、私の知らない誰かと、あんなに楽しそうにしてるのを見ると……なんか、私だけ置いていかれるような気がして。このままアンタに嫌われるんじゃないかって、怖くて……。でもさ、こんなのただの私の我慢のなさだし、重いだけじゃん。だから、自分が嫌なの」
そこまで一気に吐き出して、ミサキはハッと息を呑んだ。
自分は今、必死になって“依存したくない”と、心の底でギリギリの綱渡りをしながら踏ん張っていたのだ。
サトシの時みたいに、誰か一人の世界へ底なしに沈み込んで、周りが見えなくなるような真似はしたくない。でも。
怖いものは、どうしても怖いのだ。
すると。タカシは数秒の間、頭を抱えて本気で難しそうな顔をして悩んでいたが、やがて、これ以上ないほど困ったような、でもどこか優しい顔をして言った。
「……えっとさ。それって、ミサキが重いっていうよりさ」
「……」
「なんかお前、めちゃくちゃ怖がってね?」
その言葉に、ミサキは弾かれたように目を見開いた。
何で行き過ぎた真似をするんだと責めるでもなく。そんなことでいちいち嫉妬するなと呆れるでもなく。
タカシはただ、「あぁ、お前は今、すごく怖いんだな」と、その恐怖の事実だけを真っ直ぐに受け止めて、理解してくれた。
その、理屈を挟まない単純な言葉の温かさに、ミサキの胸の奥を硬く縛りつけていた結び目が、ほんの少しだけ、音を立てて緩んでいくのが分かった。




