『平気な顔』後編
夜風が、定食屋の薄暗い暖簾を静かに揺らしていた。
裏口のコンクリートの段差。アカネは最初、いつものように自分の足元をごまかそうと言葉を重ねた。
「ほんと、ほんとに平気だってば。ちょっと最近、お店が忙しくて疲れてるだけ。私なんか、昔に比べたら全然……」
でも、ミノリはそれを否定もしないし、「頑張れ」と励ましもしなかった。
ただ、持っていたゴミ袋を自分の足元に置くと、アカネのすぐ隣に、そっと腰を下ろした。
それはかつて、自分が本当にボロボロだった頃に、サトシが黙って隣にいてくれた時の距離感と同じだった。
「無理に元気にならなくていい場所」を、ただそこに静かに作るようにして、ミノリは前を向いたまま座っている。
夜の冷たい空気を何度も肺に送り込みながら、アカネはしばらく立ち尽くしていたが、やがて、糸が切れたように小さく息を吐いて、ミノリの隣にしゃがみ込んだ。
そして、膝を抱えながら、ずっと誰にも言えなかった本音をぽつりと零した。
「……なんかさ」
「また、ちゃんとしてない頃の自分に、戻っちゃいそうで怖いんだよね」
暗闇の中で泣いてばかりだった、あの頃の自分。
誰かに縋り付いて、重荷になって、優しさを搾取しなきゃ立っていられなかった、あの最低な自分。
あの暗い泥の中に引きずり戻されるのが怖くて、今度は逆に、“ちゃんとしてる側のお姉さん”を必死に演じ続けていた。そうしていなければ、自分の輪郭を保てないような気がしていた。
「私……また誰かの重荷に、なっちゃってないかな。重くなってないかな」
ぽつりと漏れたその言葉は、薄皮一枚で塞がっていた、昔の傷口そのものだった。
するとミノリは、隣で静かにそれを聞き終えると、少しだけ困ったように笑って、アカネの顔をじっと見つめた。
「重いんじゃなくて」
「……アカネさん、一人で持ちすぎなんです」
アカネはハッとして、息を呑んだまま言葉を失った。
その瞬間、自分がずっと、「誰にも迷惑をかけないように」「もう二度と心配されないように」と、すべての荷物を一人で抱え込み、両手を塞いだまま必死に走り続けていたことに、初めて気付かされた。
かつては、アカネがミノリの小さな不安や、押し潰されそうな夜に寄り添っていた。
でも今夜は、全く逆だった。
“傷ついた人の痛み”が分かるアカネ。
“傷つかないように我慢している人の気配”が分かるミノリ。
同じ優しさを持っていても、それぞれが見つけられる痛みの種類は、少しだけ違っていた。どちらが強いとか、どちらが大人だとか、そんなものは関係なかった。
「……帰ろっか」
アカネが少しだけ軽い声を出すと、ミノリは「はい」と嬉しそうに頷いた。
その帰り道、二人は静まり返った夜の商店街を、ゆっくりと並んで歩いた。
向かう先は、あの古びた木造アパート。
ギィ、と軋む古い引き戸を開けると、廊下の奥からは、アカネにとって今や一番安心する、嗅ぎ慣れたラッキーストライクの煙草の匂いが薄く漂ってくる。
部屋の奥では、サトシが相変わらず気だるそうに座椅子に腰掛けて煙草を燻らせており、その横ではジュンが「おかえり」と、漫画を読んだまま片手を少しだけ上げた。
誰かを支える側の人間だって、時々はちゃんと疲れる。
優しい人間であればあるほど、誰にも言えずに静かに壊れかける。
だからこそ、この不器用な街では。
“支える人”になったアカネを、また別の誰かが、そっと後ろから支えている。
夜の商店街にぽつぽつと漏れる、白熱灯のあたたかい橙色の光は、今夜も、そんな不格好なまま寄り添い合う人たちの帰る場所を、静かに、優しく照らし続けていた。




