『アカネと、終電』後編
日付が変わって、午前三時。
アカネは、泣き疲れて歩くのもやっとの女の子の肩を支えながら、静まり返った商店街の路地を進み、久しぶりにサトシのアパートの前に立っていた。
昔、自分が完全に壊れてしまった夜に、連れてこられたのと全く同じ場所。
ギィ、と軋む古い引き戸を開けると、廊下の奥から微かに漂ってくる、アカネにとって嗅ぎ慣れたラッキーストライクの煙草の匂い。そして、部屋をセピア色に染める薄暗い白熱灯の照明。
部屋の主であるサトシは、夜中に突然現れた二人を見ても、嫌な顔一つしなかった。事情を全部言葉で聞かなくても、女の子の濡れた睫毛と、アカネの切実な目を見ただけで、すべてを察したようだった。
「あの、すみません……私が、全部悪かったんです。私が重かったから……」
狭い部屋の畳の上で、女の子は小さく丸まりながら、自分を責める言葉を何度も何度も繰り返した。
それを聞いたアカネは、胸の奥から溢れる感情を抑えきれず、珍しく少し強い口調になって遮った。
「違うよ! あなたは悪くない。悪いのは、そんな風にあなたの気持ちを踏みにじった――」
けれど、そこから先の言葉が上手く続かなかった。
目の前の女の子の姿に、かつての自分の古傷がズキズキと疼いてしまい、急に喉の奥が詰まって呼吸が苦しくなってしまったのだ。
そんな、必死に涙を堪えて立ち尽くすアカネの姿を、座椅子に深く腰掛けたサトシが静かに見つめていた。
サトシは口に咥えていた煙草を灰皿の縁に置くと、いつも通りの低い、落ち着いた声で、ぽつりと言った。
「アカネちゃん。……ちゃんと、大人になったね」
「……え?」
アカネは驚いて、濡れた目でサトシを振り返った。
「昔のお前はさ、自分が傷ついてるってことを認めるだけで精一杯だったじゃん。自分の殻に閉じこもって、雨の中でガタガタ震えてるだけでさ」
サトシは灰皿から立ち上る紫煙を眺めながら、言葉を続ける。
「でも、今夜のお前は、自分と同じ傷を負って潰れそうになってる女の子を見て、放っておけなかった。……それさ、ただ傷つけられただけの人には出来ないんだよ。『救われた側』の経験を持ってる人間にしか、できないことだから」
```
アカネは、ハッと息を呑んで言葉を失った。
```
自分は今まで、ずっと誰かに支えられ、守られるだけの、未熟で不完全な存在だと思い込んでいた。でも、そうじゃなかった。あの痛みを通り抜けて、誰かに救ってもらった経験があるからこそ、今、目の前のこの子の痛みが、世界中の誰よりも理解できるのだ。
自分がいつの間にか“救われるだけの側”を卒業していたことに、アカネは今夜、初めて気づかされた。
それから一時間ほど経ち、張り詰めていた緊張が解けたのか、女の子はサトシのベッドの上で、小さな寝息を立てて深い眠りに落ちていた。
アカネは、彼女の肩までそっと古い毛布をかけ直してあげると、ふう、と小さく安堵のため息を吐いた。
「……あの日の私も、こんな感じだったのかな」
眠る女の子の横顔を見つめながら、アカネが隣のサトシに小さく呟く。
サトシは窓の外で降り続く雨を見つめながら、いつものけだるげな目元を少しだけ緩めて笑った。
「いや。お前はもっと酷かったぞ」
「えぇ……っ、嘘、そんなことないです!」
「ずっと『すみません、すみません』って、壊れたスピーカーみたいに泣きながら謝ってた。あそこまでいくと、むしろホラーだったね」
「もう! 最低です、何で今それ言うんですか!」
アカネは恥ずかしさのあまり真っ赤になって、両手で自分の顔を覆い隠した。その様子を見て、サトシは満足そうにくつくつと静かに笑い、再び新しいラッキーストライクに火をつけ、煙を細く燻らせた。
窓の外では、依然として雨が静かに街を濡らし続けている。
けれど。あの頃、アカネの世界のすべてを押し潰そうとしていた、あの冷たくて「壊れるような雨」とは、もう違っていた。
誰がどこで傷ついても、誰がどれだけ声を上げて泣いてもいい。
その涙も、弱さも、全部を暗闇の中でそっと匿って、静かに守ってくれる――
この街に降る雨は、今夜もどこまでも優しかった。




