『泣けない子と、隣に座る人』後編
その日の閉店後。
すっかり夜の帳が下りた商店街の片隅。小さな定食屋の裏口で、ミノリは湯気の立つ紙コップのお茶を両手で包み込みながら、雨上がりの少しひんやりとした夜風に当たっていた。
コンクリートの床に、昼間の男の子と同じように少しだけしゃがみ込む。
「はい、今日もお疲れ様。タカシ、途中から半分パニックになってたでしょ」
ガラガラと引き戸を開けて、ゴミ袋を両手に持ったジュンが顔を出した。
「ふふ……そうなんです。『お菓子がダメならYouTubeか!?』って、ずっと独り言を言っていて」
二人は顔を見合わせ、静かな夜の路地に響かないくらいの小さな声で笑った。
ジュンがゴミを集積所に置き、戻ってきて隣の壁に背を預ける。
しばらく、お茶の湯気が揺れるだけの穏やかな沈黙が流れた後、ミノリが紙コップを見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……私、昔は、自分の気持ちを全然喋れない子だったんです」
ジュンは少しだけ驚いたように、前髪の隙間からミノリの横顔を見た。
今のミノリは、誰に対しても柔らかく、おっとりとした優しい言葉で話す。商店街の誰もが、彼女の笑顔に救われていた。でも、昔は違ったのだという。
「自分の意見を言って、その場の空気が壊れちゃうのが、すごく怖くて。親に怒られるのも怖くて……泣くのも、すごく苦手でした。だから、いつも周りの大人にとっての『困らせない子』でいようって、そればかり考えてたんです」
本当は寂しくても、本当は悲しくても、大丈夫なふりをしてニコニコ笑っていた。
「だから……今日のあの子を見た時、なんか、昔の自分を見ているみたいで」
ミノリは小さく笑った。でも、その瞳の奥は、夜の街灯の光を反射して、少しだけ寂しそうに潤んでいた。
「あの子、タカシさんがどれだけ話しかけても、絶対に泣かなかったじゃないですか」
ジュンは静かに、深く頷いた。「うん」
「あれ、強いから泣かないんじゃないんです。自分がここで泣いちゃったら、もっと周りの大人を困らせちゃう、めんどくさい子になっちゃうって……そう思って、必死に我慢してる顔だったんです。だから」
ミノリは紙コップを強く握りしめた。
「だから、ただ、怖かったねって。それだけ言ってあげたかったんです」
夜風が、定食屋の店先に吊るされた藍色の暖簾を、パタパタと優しく揺らした。
ジュンは少しだけ考えるように、雲が流れて星が見え始めた夜空を見上げ、それから、いつも通りの穏やかで低い声で言った。
「でもさ……今のミノリちゃんは、ちゃんと自分の言葉で、誰かを安心させられる大人になってるじゃない」
ミノリは、思いがけない言葉をかけられたように、丸い目をさらに丸くしてジュンを見上げた。
「……そうですかね。私は、ただあの子の隣に座っただけで」
「それが一番難しいんだよ」
ジュンは壁から背を離し、ミノリの頭を優しく、ぽんぽんと一度だけ叩いた。
「大人はみんな、上からアドバイスをしたり、あやすためにモノを釣ったりしたがる。タカシみたいにね。……でも、何も言わずに、ただ同じ目線で隣に座ってくれる人って、人生の中で案外、すごく少ないから」
その言葉に、ミノリは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、少しだけ照れ臭そうに、でも、とても嬉しそうに微笑んだ。
表で思いっきり大声を張り上げて、その圧倒的なエネルギーで世界を強引に明るくするタカシ。
後ろの、誰の目にも留まらない影のような場所から、静かに寄り添い、支えてくれるジュン。
そして、昔は自分の気持ちを押し殺す“困らせない子”だったミノリもまた、この街での日々を通じて、誰かの不安の隣に、そっと座ってあげられる優しい大人になり始めていた。
商店街の夜は、どこまでも静かだった。
雨上がりの、まだ少し濡れたアスファルトが、オレンジ色の街灯をぼんやりと滲むように映し出している。
その優しい光に照らされながら、今日も誰かの「不格好な途中」が、それぞれの家へと、ゆっくりと歩みを進めていくのだった。




