『泣けない子と、隣に座る人』前編
ポツポツと雨が降り始めた、夕暮れ時の商店街。
スーパーでの買い出しを終え、両手にパンパンのポリ袋を下げて歩いていたタカシは、アーケードの薄暗い端っこで、ふと足を止めた。
コンクリートの段差に、小学校低学年くらいの男の子がぽつんと一人、小さく膝を抱えてしゃがみ込んでいた。ランドセルのカバーは雨に濡れて光り、スニーカーの先は泥だらけ。それなのに、その子は泣くでもなく、ただじっと地面の一点を見つめていた。
「お、おい!? 迷子か!? 大丈夫か!?」
タカシは持っていた買い物袋を地面に放り出し、大慌てでその子の前に屈み込んだ。当然のように、タカシの脳内では「全力の迷子保護ミッション」が開始される。
「お家どこだ!? 名前言えるか!? どこから来た!?」
しかし、男の子はビクッと小さく肩を震わせると、タカシの問いかけに小さく首を振るだけで、固く口を閉ざしたまま全く喋ろうとしない。
タカシは焦った。子供の扱いなんて野生の勘しか持ち合わせていない。
「あ、待ってろ! ジュース飲むか!? ほら、ぶどう味!」
自販機に走って炭酸ジュースを買い、手渡そうとする。――男の子は首を振る。
「じゃあこれ! お菓子! チョコあるぞチョコ!」
ポケットのグミを差し出す。――男の子はさらに身を縮める。
タカシは必死だった。白目を剥いて変顔をしてみせ、スマホを取り出して流行りのゲーム動画を見せ、最終手段として「ほら、肩車してやろうか!?」と大きな背中を向けた。
だが、その熱量のすべてが綺麗に空回っていた。男の子の表情はどんどん強張り、心を閉ざしていく。
「えぇ!? なんでだよ!? 俺、こんなに頑張ってんのに!!」
タカシが頭を抱えて叫ぶ声を、商店街の通りすがりの人々も「相変わらず騒がしいねぇ」と苦笑いしながら遠巻きに見守っていた。そこへ、傘を差したミノリが、いつもの穏やかな足取りで通りかかった。
「タカシさん、大きな声を出したら驚いちゃいますよ」
ミノリは騒がず、慌てず、ただ自分の傘をたたんで壁に立てかけると、長いスカートの裾が汚れるのも気にせず、男の子の少しだけ隣、拳一つ分開けた絶妙な距離の地面へ、静かに腰を下ろした。
タカシのように上から覗き込むんじゃない。男の子と全く同じ、小さな目線。
ミノリは男の子の横顔をじっと見つめ、それから、そっと語りかけるように声をかけた。
「……お母さんと、喧嘩しちゃったの?」
男の子は最初、ピクリとも動かなかった。タカシが息を呑んで見守る中、長い、静かな時間が流れる。
雨がアーケードの屋根を叩く音が優しく響く中、しばらくして、男の子の小さな、今にも消えそうな声がこぼれた。
「……おこられるから、かえりたくない」
タカシは、あっと目を見開いた。自分があれだけ必死にジュースを買い、変顔をし、汗をかいて話しかけてもビチリとも動かなかった男の子の心が、ミノリの静かな一言で、確かに動いたのだ。
ミノリはそれ以上、何も聞かなかった。ただ、柔らかく、包み込むように笑った。
「そっか。……怖かったね」
それだけだった。
頑張って家に帰ろうね、なんて無理に励まさない。お母さんも心配してるよ、なんて正論で元気づけようともしない。ただ、男の子の胸の中にある“怖かった”という冷たい気持ちを、そのまま、絶対に否定しなかった。
張り詰めていた糸が切れたように、男の子はぽつりぽつりと、小さな声で話し始めた。
学校のテストの点がすごく悪かったこと。それをお母さんに見せたら、すごく怒られたこと。ごめんなさいが言えなくて、そのまま家を飛び出して、帰るタイミングが分からなくなっちゃったこと。
隣で聞いていたタカシは、つい自分の子供時代の感覚で「なんだよ、そんなことで家出すんなよぉ〜! 俺なんか毎日――」と言いかけて、ガシッとミノリにローファーの先で静かに足を踏まれた。
「痛っ!?」
「タカシさん。今、それ言わないでください」
ミノリは前を向いたまま、ジロリと冷たい目でタカシを牽制した。
結局、そのあとすぐに、半狂乱になって商店街を探し回っていた母親が、アーケードの向こうから走ってきた。
「――翔太!!」
「あ、お母さん……」
母親にギューッと折れそうなほど強く抱きしめられた瞬間、タカシの前であれだけ頑なに表情を変えず、一滴の涙も見せなかった男の子が、初めて「うわあああん!」と堰を切ったように声を上げて泣き出した。
母親に手を引かれ、何度も頭を下げながら帰っていく親子の後ろ姿を、タカシは放り出したポリ袋を拾い上げながら、ぽかんと呟いた。
「……ミノリちゃん、すげぇな。魔法みたいじゃん」
ミノリはどこか困ったように、小さく眉を下げて笑った。
「すごくなんて、ないですよ。ただ……」
ミノリは、雨が上がり、夕焼けの赤色が混じり始めた遠い空の向こうを、静かに見つめた。
「なんとなく、あの子の気持ちが、分かっただけです」




