『間に合うから走れ』後編
時計の針を、ほんの三十分前へと巻き戻す。
駅前へ向かう路線バスの車内。
カズマと後輩のレンは、一番後ろの席に座って気怠そうに揺られていた。
車内は、独特の重苦しい空気に包まれていた。
真ん中あたりの席で、真っ赤な顔をした泥酔状態のサラリーマンが、通学途中の女子高生にしつこく絡んでいたからだ。
「おい、ちょっと話聞けよお。最近のガキは愛想がねぇなあ、オイ」
女子高生は怯え、小さくなって震えている。
前の席の乗客たちは、全員がスマホをいじるフリをして、関わりたくないという顔で視線を逸らしていた。
バックミラー越しの運転手も、困り果てた声を出す。
「お客さん、他の方の迷惑になりますから、やめてください……」
「うるせぇ! 金払って乗ってんだよ!」
静まり返る車内。見て見ぬふりをする大人たち。
一番後ろの席で、その様子をじっと見つめていたカズマの眉間に、深い皺が寄る。
「チッ」
カズマは短く舌打ちをすると、何も言わずにシートから勢いよく立ち上がった。
「カズマさん、マズいっす、やめて――」というレンの静止の声を完全に無視して、カズマは酔っ払いの真後ろまでドカドカと歩み寄り、その分厚い手を男の肩にドスンと置いた。
「おい、クソジジイ」
「あ? なんだテメェ――」
「ガキ混ぜんなって言ってんだよ、コラ」
そこからは、文字通りの大惨事だった。
逆上して殴りかかってきた酔っ払いと、完全に地雷を踏み抜かれて大激怒したカズマ。
「カズマさん! 暴力はダメっす!」と間に入って羽交い締めにするレン。
「ひえええ! 警察呼びます! 警察呼びますからぁ!」と半泣きで車内アナウンスを入れる運転手。
乗客たちは悲鳴を上げて席を移動し、バスは道路の途中で緊急停車。
やがてパトカーのサイレンが響き渡り、警察官が数人、車内に押し寄せてきた。
「おい、お前ら全員警察署まで来い!」
「あ? 俺は被害者だろ、そこのジジイがガキに絡んでたから――」
「いいから降りなさい!」
警察の現場検証、酔っ払いの身柄確保、術無き目撃者としてのカズマとレンの事情聴取。
すったもんだの末に、ようやく「行っていいよ」と解放された時、バスの運行ダイヤは、本来の時刻から【きっちり十五分】の大遅延を起こしていた。
「ったく、最悪っすよカズマさん……。なんすかこれ……」
レンが服の襟を直しながら、ガタガタと再び走り出したバスの座席でため息をつく。
カズマは「チッ、あのジジイのツラ、マジでムカついたわ」と、まだ不格好に顔をしかめ、不機嫌そうに窓の外を睨みつけていた。
だが、二人はまだ知らなかった。
このカズマの突発的な怒りが起こした「十五分の遅延」というドミノが、今、まさに駅前で人生の瀬戸際に立たされていた、一人の女の子の未来へと繋がっていくことを。
数日後。
商店街の自販機の前で、タカシが相変わらず自慢げにアカネに語っていた。
「ほらな、アカネ! あの時、俺が『走れ!』って言わなかったら、あの子は受験に落ちてたんだぞ。俺の野生の勘ってやつ? マジで神がかってただろ!」
「いや、未だに意味が分からないんですけど……。なんであのタイミングでバスが遅れて、しかも都合よく止まってくれたんですか? 奇跡にしても出来すぎてますよ」
アカネが腕を組んで首を傾げている。
その様子を、数メートル離れた場所で、納品用の段ボールを運んでいたレンが、たまたま耳にしていた。
レンの脳裏に、あの日の車内の大乱闘と、警察に絞られた記憶が鮮みがえる。
あの日、カズマさんがキレてバスが遅れた時間は、確かに十五分。あの女の子が乗ってきたのは、まさにその遅延したバスだ。
点と点が一瞬で繋がり、レンの口から、乾いた笑いが漏れた。
(……いや、マジで奇跡でも野生の勘でもなくて、ただの偶然じゃねぇか、この人……)
タカシは何も知らないまま「ガハハ! 日頃の行いだな!」と笑っている。
カズマも何も知らないまま、今日もどこかで不機嫌そうにタバコを吸っている。
アカネも、ただの奇跡だと思っている。
レンは少しだけ、冬の白い空を見上げた。
受験生の子は、無事に助かった。
カズマさんは、ムカつくジジイをどついてスッキリした。
目の前の兄ちゃんは、勘違いでめちゃくちゃ調子に乗っている。
(……誰も、損してねぇか)
レンは小さく肩をすくめると、段ボールを持ち直して歩き出した。
「まぁ、いっか」
誰も英雄じゃない。誰も計算していない。
けれど、それぞれの不器用な生き方が勝手に噛み合って、結果的に誰かの明日が救われる。
そんな名もなき奇跡を乗せて、この街の『エデン』の上には、今日もただ静かに、いつもと変わらない空が広がっていた。




