『誰かが混ぜた』後編
まだ、この街にアパートを構えるサトシも、その隣にいるジュンも誰もいなかった頃。
十四歳の中学生だったカズマは、今よりもずっと線が細く、ずっと弱かった。
夜の駅前。街灯の薄暗い光の下で、カズマは地元の不良高校生たち、四、五人に完全に囲まれていた。
胸ぐらを掴まれ、足蹴にされ、ポケットの中身を全部ぶちまけられる。
「おい、財布出せよ。あとそこのコンビニでタバコ買ってこい、早くしろよガキ」
怖かった。心臓が壊れそうになるくらい、本当に怖かった。
周囲には、大人がたくさんいた。コンビニから出てくる客、仕事帰りのサラリーマン、足早に通り過ぎていく通行人。
みんな、間違いなくこっちを見ていた。中学生の子供が、大男たちに囲まれて脅されているその光景を、確かに視界に入れていた。
確実に見えているはずなのに、誰も来なかった。
全員が、見て見ぬふりをして、関わりたくないという顔で視線を逸らし、通り過ぎていった。
世界の中で、自分だけが完全に切り離されたような、あの冷たい絶望の匂いを、カズマは今でも鮮明に覚えている。
その時だった。
ガガガ、と激しいマフラーの音を立てて、一台の古びた軽トラックが歩道近くに急ブレーキを踏んで止まった。
運転席のドアが乱暴に開き、降りてきたのは、まだ三十代半ばだった若き日の源蔵だった。
まだラーメン屋を始める前、市場の泥にまみれて働いていた頃の、今よりもずっとギラギラとした目をしていた頃の源蔵だ。
源蔵は、高校生たちの前にドカドカと歩み寄ると、首の骨を鳴らして一言だけ低く吐き捨てた。
「おい。何やってんだ、テメェら」
その圧倒的な体躯と、本物の「戦ってきた男」の気迫に、高校生たちは一瞬で顔を引つらせた。互いに顔を見合わせると、「チッ、行くぞ」と捨て台詞を残し、蜘蛛の子を散らすように夜の闇へと逃げていった。
一人残されたカズマは、アスファルトの上に座り込んだまま、ガタガタと震えていた。
源蔵は、そんなカズマの肩を抱くわけでも、優しい言葉で慰めるわけでもなかった。ただ、地面に散らばったカズマの財布を足蹴にしながら、ぶっきらぼうに言い放った。
「用がねぇなら、さっさと家に帰れ。ガキが夜中にほっつき歩いてんじゃねぇよ」
それだけ言って、源蔵は再び軽トラに乗り込み、去っていった。
大人は全員、見てるだけだった。でも、あの狂った親父一人だけが、動いた。
現在。商店街の裏路地。
レンは自動販売機の陰で、偶然その会話を耳にしていた。カズマがレンに聞かせようとして話したわけじゃない。ただ、買い出しの合間に、源蔵とカズマが二人で煙草を吸いながら、ぼそりと溢した言葉だった。
「お前、まだあの時のこと覚えてんのか。しつこい奴だな」
源蔵が、赤くなった煙草の先端を灰皿にこすりつけながら鼻で笑う。
「忘れるかよ」
カズマは壁に背を預け、苦い煙を夜空へと吐き出した。
「別に、オヤジに恩を着せるつもりなんてねぇ」
「感謝もしてねぇし」
「してねぇのかよ」
「してねぇ」
源蔵は鼻で笑った。
「じゃあ何だ」
少しの沈黙。路地裏に、夜の冷たい風が通り抜ける。
カズマは手元にある煙草の小さな火を、じっと見つめていた。
「……あの日な」
「?」
「俺が一番ムカついたの、高校生じゃねぇんだよ」
源蔵は何も言わず、黙って煙を吐き出した。
カズマは灰を落とし、ただ一言、低く吐き捨てた。
「見てた大人」
それだけだった。
高尚な正義感でも、誰かのための優しさでもない。ただ、あの日自分を見て見ぬふりした「見てた大人」と同じダセェ真似を、目の前のヤカラがしていた。それが、自分の昔の傷に触れて、ただ猛烈にムカついた。それだけ。
源蔵はそれを聞いて、フン、と小さく鼻で笑った。
「相変わらずガキだな、テメェは」
「うるせぇよ、クソジジイ」
二人の短いやり取りと、混ざり合う白い煙を、少し離れた場所からレンはじっと見つめていた。
そこでようやく、昼間のカズマの「地雷」の正体が分かった。
先輩は、決して優しくない。
今でも口は悪いし、すぐに手が出るし、商店街の鼻つまみ者だ。
でも。自分が昔、傷ついて、誰にも助けてもらえなかったあの痛みだけは、今でも絶対に許せないから、だから身体が勝手に動く。ただ、それだけ。
その、どこまでも自分勝手で、どこまでも不器用な男のルールが。
レンの目には、商店街のどんな大人の綺麗な言葉よりも、少しだけ格好良く見えた。




