『名前がないから、途中のままで』後編
その日の夜。
アキラは自室の学習机に向かったまま、蛍光灯の下で真っ白なスケッチブックをじっと睨みつけていた。
シャープペンシルを握る。紙に線を引く。……けれど、何かが気に入らなくて、すぐに消しゴムでゴシゴシと激しく擦る。また描く。また、手が止まる。
「……ダメだ」
カランとペンを放り出し、アキラはそのまま後ろのベッドへ仰向けに倒れ込んだ。
天井を見つめる頭の中では、さっき駅前のロータリーで聞いたユウキのあの少し掠れた歌声が、妙に鮮明に残って離れなかった。
『歌わないと、自分が薄くなるから』
「……知らないよ、そんなの」
アキラは自分の胸の上に腕を乗せ、天井に向かって小さく呟いた。
けれど、その言葉を完全に否定しきることはできなかった。アキラだって、狂ったようにスケッチブックに鉛筆を走らせている時だけは、自分の「輪郭」がちゃんとこの世界に存在していると実感できるからだ。
学校の勉強のためでもない。将来の進路の役に立つわけでもない。誰かに見せて、上手だねと評価されるわけでもない。
それでも、描きたい。
でも。そんなものに一体何の意味があるのかと大人に聞かれると、急に答えに詰まって、自分がひどく無駄なことをしているような気がしてくるのだ。
枕元でスマホがブーッと短く震えた。画面を見ると、母親からのメッセージだった。
『夕飯、冷蔵庫に入ってるからレンジで温めて食べなさい』
昼間、あれだけ顔を真っ赤にして大喧嘩したというのに、やけに普通で、いつも通りの短い文面だった。
アキラは画面の文字をじっと見つめた後、小さく、今度は少しだけ軽い息を吐き出した。
それから、ベッドから起き上がると、机の上のスケッチブックをもう一度開いた。今度は消しゴムを使わなかった。下手くそでも、歪でも、とりあえず今の自分が思うままの線を、静かに引き続けた。
数日後の放課後。
アキラはコンビニの袋を片手に下げ、夕方の商店街を歩いていた。古道具屋『トレイル』の前を通りかかった、その時だ。
「お、アキラちゃん! ヤッホー!」
案の定、鼓膜に優しくないいつもの騒音が飛んできた。
店の前には、相変わらず暇そうなスウェット姿のタカシ。そしてその横には、ギターケースを大切そうに抱えたユウキが苦笑いしながら立っていた。奥の作業台では、店主の西部が何も言わずに、古い真鍮製のランタンをドライバーで静かに分解している。
「……何なんですか、また来てたんですか」
「また来てるんだよ」
ユウキが肩をすくめて笑う。
「タカシさんがさ、俺が飯食ってないって言ったら、勝手にここの奥のキッチンでカレー作り始めちゃって……」
「だってユウキ兄ちゃん、ガリガリじゃん! ちゃんと飯食わなきゃ良い声出ねぇぞ!」
「親かよ」
相変わらずうるさくて、境界線のないバカバカしいやり取り。でも、灰色の霧に包まれそうになるアキラにとっては、なんだか少しだけ、心の底から安心できる光景だった。
アキラは店先を見回し、それからユウキへ視線を戻した。
「……今日、歌わないんですか」
「ん?」
「駅前。弾き語り」
ユウキは一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに目元を緩めた。
「行くよ。夜の七時くらいから、いつものロータリーで」
「ふーん。そうですか」
アキラは全く興味がなさそうな顔をして、無愛想に頷く。
だが、その様子を作業台からじっと見ていた西部が、手を止めずにぼそりと呟いた。
「聴きに行く顔だな」
「行きません!!」
アキラは顔を真っ赤にして即答した。
その見事な様式美に、隣のタカシが「ギャハハ!」と頭を抱えて大爆笑する。
「分かりやすっ!! アキラちゃん完全にユウキ兄ちゃんのファンじゃん!!」
「うるさい! バカタカシ! 違います!!」
アキラは真っ赤な顔のまま、手に持っていたコンビニの袋をブンブンと武器のように振り回した。
ユウキはそんな二人の騒がしいやり取りを特等席で見ながら、どこか救われたように、穏やかに笑っていた。
少し前まで、自分は「夢」だとか「表現」だとか、そういう大層な言葉を語れる側の人間じゃないと、現実に打ちのめされて諦めかけていた。
でも、今は違う。
上手く言葉にできなくても。迷いながら、不安に震えながらでも。
今日、この街の誰かが自分の歌を聴いて、ほんの少しだけ胸の中に何かを持ち帰ってくれる。
それだけで、今日を生きる理由にも、明日歌う理由にも、十分すぎるほど十分だった。
夜。駅前ロータリー。
ユウキの少し掠れた歌声が、冷たい夜の雑踏の隙間を縫って、家路を急ぐ人々の背中に響いていた。
そのステージ代わりの路上から、少し離れた場所。自動販売機の淡い光の影に隠れるようにして、セーラー服の上にカーディガンを羽織ったアキラが立っていた。
完全に来ていた。だが、真正面まで近づいて「聴きにきました」と言うのは猛烈に悔しいので、絶妙に距離を取って壁に背を預けている。
ユウキは歌いながら、すぐにその自販機の影の姿に気づいた。
けれど、あえて大げさに手を振ったりはしなかった。ただ、ギターのストロークがほんの少しだけ優しくなり、歌声のトーンが柔らかくなった。
最後の曲が終わり、パラパラと小さな拍手が起こる。
アキラはそっと視線を逸らしたまま、自販機のボタンを押して、温かい缶のミルクティーを買った。冷えた両手に、缶の熱がじんわりと伝わる。
「まだ、名前ないんだろ」
すぐ横から、低く重みのある声がした。
「ひゃいっ!?」
アキラは変な声を上げてビクッと肩を震わせた。慌てて隣を見ると、いつの間にか黒いハットを被った丸眼鏡の男――西部が立っていた。夜風に、綺麗に整えられた顎髭が微かに揺れている。
「……な、何がですか」
アキラが缶を握りしめて警戒する。
西部は駅前でギターを片付け始めているユウキの姿を静かに見つめながら、ぼそりと言った。
「お前が、夜中に机で描いてるものだ」
アキラは限界まで目を見開いた。誰にも言っていない、母親すら知らないはずの秘密だった。
「な、なんで……知って」
「顔に出てる」
「そんな分かりやすいですか!?」
「若いからな。嘘が下手だ」
西部は持っていた缶コーヒーを一口すすり、ハットのつばを少しだけ押し上げた。
「名前のない時期が、人生の中で一番長い」
「……」
「夢も。才能も。自分の本当に好きなものも。最初から立派な名前がついてるわけじゃない」
ロータリーを、少し強めのみぞれ混じりの夜風が吹き抜ける。遠くで、ユウキがギターケースのチャックを閉める音が静かに響いていた。
「だから、焦って都合のいい名前を付けるな」
西部は前を見据えたまま、諭すように言葉を紡ぐ。
「途中のものは、途中のまま、不格好に抱えてればいい。天気と同じで、そのうち変わる」
アキラは、何も言えなくなった。
まだ自分が何者なのか分からない。将来、何になりたいのかも分からない。自分の描いている絵に、どんな価値があるのかもさっぱり分からない。
でも。分からないままでも、この「途中」のままで、今はただ抱きしめて走ればいいのかもしれない。西部のぶっきらぼうな言葉が、アキラの心をじんわりと温めていた。
その瞬間。
「アキラちゃーーーん!!!!」
ロータリーの向こうから、やっぱり世界一空気を読まない大爆音が響いた。タカシだった。
「やっぱ来てんじゃーーーあん!!!! 隠れても無駄だぞ!!!」
「来てない!!! 私はたまたま自販機に用があっただけです!!!」
「いるじゃん!!! がっつり聴いてたじゃん!!!」
「うるさい!!! 黙れバカタカシ!!!」
ステージの片付けを終えたユウキが、その様子を見てステージの真ん中でお腹を抱えてケラケラと笑い、西部が「やれやれ」と小さく肩をすくめる。
駅前の夜は、相変わらず頭が痛くなるほど騒がしかった。
未来なんて、誰にも分からない。
夢が叶うかも分からないし、明日雨が降るかも分からない。
それでも。
不器用に歌う人間がいて。迷いながら描こうとする人間がいて。それを全力で笑い飛ばすバカがいて。
この、名前のつかない不格好な「途中の時間」こそが、きっと今の自分たちのすべてなのだ。
アキラは温かいミルクティーを両手でぎゅっと握りしめながら、タカシに向かって怒鳴りつつも、ほんの少しだけ、前を向いて幸せそうに笑った。




