『名前がないから、途中のままで』前編
日曜の夕暮れ時。オレンジ色から深い群青色へと移り変わる空の下、駅前ロータリーを、セーラー服姿のアキラはイヤホンを両耳に深く突っ込んだまま、不機嫌そうに歩いていた。
塾帰りだった。自己採点した模試の結果は微妙。それだけでも滅入るのに、家に帰れば母親には「スマホばっかり見てるから成績が落ちるのよ」と小言を言われ、学校の三者面談では担任に「もっと真面目に将来の進路を考えなさい」と急かされた。
考えていないわけじゃない。むしろ、考えすぎて頭の中がパンクしそうになっているのだ。
高校。大学。就職。大人たちは誰も彼もが未来の話をさも簡単なことのように口にするけれど、アキラにとっては、それはすべて自分の行く手を阻む「ぼんやりした灰色の霧」みたいにしか見えなかった。
「……はぁ」
口から重い深いため息が溢れた、その時だった。
ジャラン。
駅前の喧騒を強引に縫い留めるように、一本のアコースティックギターの乾いた音が響いた。
アキラは反射的に顔をしかめる。もともと駅前の弾き語りというやつが、猛烈に苦手だった。なんというか、「夢を追って泥臭く生きてます」というあの特有の空気感が、妙に痛々しくて、見ているこっちが気まずくなるからだ。
けれど。
『――帰れない夜に 名前を落としても』
アンプを通して響いたそのワンフレーズの歌詞だけが、不意に、イヤホンのデジタルな遮音を突き破ってアキラの胸のド真ん中に刺さった。
アキラは思わず、その場に足を止めていた。
ロータリーの隅。街灯の光に照らされ、古びたアンプの前でギターを抱えて歌っている青年がいた。少し掠れた、ハスキーな声。けれど、無駄に声を張り上げるような格好つけた歌い方ではなかった。
足元に広げられたギターケースの中には、入ったばかりの小銭が数枚、寂しく転がっているだけ。
その青年――ユウキは、通り過ぎる群衆の誰かに媚びるような目を一切していなかった。ただ、自分の中にあるドロドロとした何かを、どうにかしてこの世界に吐き出すみたいに必死に歌っていた。
気づけばアキラは、スマホを操作して音楽を止め、耳からイヤホンを外していた。
ジャラーン……と余韻を残して、曲が終わる。
夕食時の駅前、通り過ぎる会社員や学生たちは、ほとんど足を止めない。ほんの数人がパラパラと小さな拍手をして、すぐに去っていく。ユウキはギターを抱えたまま小さく頭を下げると、足元に置いたペットボトルの水を一口飲んだ。
その時、アキラの口から、ほとんど無意識に言葉がこぼれ落ちていた。
「……その曲」
「ん?」
ユウキが顔を上げる。アキラはハッと我に返り、自分が初対面のストリートミュージシャンに声をかけてしまったことに急激な気まずさを覚えた。でも、ここで無言で逃げ出すのも余計に変な気がして、視線をそっぽに向けたまま、ぶっきらぼうに言葉を続けた。
「歌詞、なんか……ズルいです」
「ズルい?」
ユウキはきょとんとして目を丸くした。
「なんか、何でも“分かってます”風というか。だって大人って、すぐ“未来はどうにかなる”とか“頑張れば夢は叶う”とか無責任に言うじゃないですか。でも、実際どうなるかなんて誰にも分かんないし。そういう綺麗な励まし方、なんか無責任で大嫌いなんです」
アキラは駅前の無機質なタイルを睨みつけながら吐き捨てた。
ユウキはペットボトルを握ったまま、しばらくの間、静かにアキラの横顔を見つめていた。それから、肩の力を抜くように小さく笑った。
「俺も大嫌いだよ」
「……え?」
「頑張れば絶対叶う、なんてさ。そんな無責任なこと、俺だって思ってない」
あまりにも自然で、飾り気のない返答だった。ユウキはアコースティックギターの弦を優しく爪弾きながら、夜の帳が下りたロータリーを見渡した。
「見ての通り、今だって全然売れてないし。ライブが終わった後は、あそこのコンビニで半額シールが貼られた弁当買って、ワンルームの部屋で一人で食うのが日常だしね」
「……夢、ないですね」
「ないよ。全然ない」
ユウキはケラケラと少年みたいに笑った。
「でもさ。夢って、“叶うからやる”とか、そういう計算だけじゃない気もするんだよな」
アキラは少しだけ眉をひそめた。
「……結局、それも綺麗事じゃないですか」
「うん。俺もそう思う。自分で言っててめちゃくちゃ綺麗事だなって思うよ」
「じゃあ……じゃあ、なんでそんな生活なのに続けてるんですか」
ユウキは少しだけ考え込むように夜空を仰ぎ、それから自分の腕の中にあるギターのボディをポン、と軽く叩いた。
「歌わないと、なんか、自分が薄くなって消えちゃいそうだから」
アキラは息を呑み、黙り込んだ。
その感覚だけは、言葉にできないほど、今の自分に痛いほど分かってしまったからだ。
誰にも言っていないけれど。アキラも時々、深夜に自室の机で、一人でノートに絵を描く。別に将来イラストレーターになりたいわけでもない。自分の描いたものをSNSにアップする勇気なんて逆立ちしてもない。
でも、何も描かないまま、学校と塾の往復だけで日々が過ぎていくと、自分の輪郭がどんどん透明になって、この世界からぼやけていってしまうような恐怖があるのだ。
ユウキはそんなアキラの重い沈黙を見て、少しだけ困ったように眉を下げて笑った。
「……あ、なんかごめん。全然知らない高校生捕まえて、変な話しちゃったな」
「別に」
アキラは照れ隠しにふいっとそっぽを向く。
「でも……ちょっとだけ、分かります」
その、二人の間に流れた静かな空気を、次の瞬間。
「兄ちゃーーーん!!!!」
駅前に、鼓膜を突き破るような最悪の大声が響き渡った。
アキラがビクッと肩を跳ね上がらせる。人混みの向こうから、両手いっぱいにパンパンに詰まったスーパーのポリ袋を抱えたタカシが、ドカドカと全力で走ってきていた。
「今日めちゃくちゃ声出てたじゃん!! 改札の方まで聞こえたぞ!! やば!!」
「うわ、来た……」
ユウキが心底げんなりした顔で一歩引く。タカシはそこで初めて、アキラが隣に立っていることに気づき、「お?」と大きく目を丸くした。
「何、アキラちゃんも聴いてたの!? なぁ!? ユウキ兄ちゃんの歌、最高だろ!?」
「声がデカい、近いです……」
「特に今日の新曲ヤバくなかった!? 俺、サビのところでマジで鳥肌立ったんだけど!! ほら見てよ!!」
「分かった、分かったから近い近いタカシさん!」
ユウキが苦笑しながら、グイグイ距離を詰めてくるタカシの顔面を押し返す。
そのあまりにも騒がしく、いつも通りのバカバカしいやり取りを見て、アキラは思わず「ぷっ」と声を上げて吹き出してしまった。
さっきまで胸の奥を重く覆っていた進路だの何だのの灰色の霧が、タカシの大声によって、木端微塵に吹き飛ばされていく。
ユウキはそんなアキラの笑顔を見て、優しく小さく笑った。
「ほらね。未来のことはさっぱり分かんないけど」
ジャラン、と軽くギターのコードを鳴らす。
「今日、ちょっとだけ誰かに届いたなら。まあ、明日も歌を続ける理由にはなるよ」
駅前の少し冷たい夜風が、三人の間をすうっと吹き抜けた。
アキラは少しだけ照れ臭そうに視線を逸らし、制服のポケットに手を突っ込みながら、小さく、消え入りそうな声で呟いた。
「……次の曲も、聴いてっていいですか」
ユウキは、今夜一番の温かい声で笑った。
「もちろん。特等席で聴いてって」




