『ユウキと、四十五歳の未来』後編
ユウキがギターケースの重みに耐えるようにして帰っていった後。
古道具屋の店先には、ただ静かで、どこか寂しい夜だけが残されていた。
西部は、残ったラジオのネジをゆっくりと締めていく。
カツ、カツ、と乾いた足音が近づき、作業台の端に寄りかかった。サトシだった。いつの間にかそこにいて、手元で煙草に火をつけている。
「今の、全部聞こえてた」
「盗み聞きか。趣味が悪いな」
「遮るものが何もない店の前だしね」
サトシは紫煙を細く吐き出した。
「で」
サトシは夜空を見上げる。
「本当のところ、どうなの。あいつが四十五歳になっても売れてなかったら?」
西部は工具を片付ける手を少しだけ止め、何かを遠くを測るような目をした。
「……別に、いいんじゃないか」
ぽつりと言った。
サトシは小さく笑う。
「本人には、そう言わなかったね」
「あいつが聞いてることが、違ったからな」
「どう違うの」
西部はペンチやドライバーを古い木箱へと収めながら、静かに答えた。
「ユウキは、自分が本当に売れるかどうかを聞いてるんじゃない。売れなかった時の自分を、自分で許せるかどうかを怯えて聞いてるんだ」
サトシは何も言わず、煙草を咥えたまま西部の横顔を見つめた。
「人間、自分が思ってるより長く生きる」
西部の声は、どこか遠い過去をなぞるように低かった。
「夢が叶う奴もいる。叶わない奴もいる。途中で、全く違う形に変わる奴もいる。……俺みたいにな」
西部は、ウエスタンシャツの胸ポケットから、何年も使い込まれて色あせ、端が擦り切れたウニの革財布を取り出した。
開いたりはしない。中身を見たりもしない。ただ、大きな指先で、愛おしそうにその表面を一度だけ優しく撫でた。
「若い頃はな、サトシ。人生ってのは、どこかでパッと明快な答えを出すものだと思ってた」
「今は?」
「ただ、続けるものだと思ってる」
夜風がまた一つ、商店街の街灯を揺らした。影が路面で長く揺れる。
三十年という時間を、この街で、この不器用な格好のまま生き延びてきた男の言葉には、それ以上の説明を拒むような静かな重みがあった。
翌週の夕暮れ。駅前のロータリー。
ユウキは冷たい風に吹かれながら、アコースティックギターを抱えて歌っていた。
足を止めている客は、わずか四人。足元のケースに投げ込まれた投げ銭は、千円札が一枚と、小銭がちょっと。大成功には程遠い、いつも通りの厳しい現実。
それでも、ユウキは声を張り上げて歌っていた。あの日、西部さんに「今日の歌が雑になる」と言われた言葉が、頭の片隅に焼き付いていたからだ。今、この瞬間のためだけに、ユウキは弦を弾いた。
歌い終え、ジャランと最後の残響が駅前の雑踏に消えた時。
遠くの、赤信号で止まっている横断歩道の向こう側に、人混みの中でも一目でわかる「黒いハット」が見えた。
西部だった。
相変わらず、拍手も合図もしない。ただそこに立ち尽くし、ユウキの一曲を静かに聞いていたようだった。
やがて信号が青になる。西部は周囲のサラリーマンたちに混ざって、そのままこちらへ向かって歩き出した。ユウキのすぐ横を通り過ぎる。
去り際。西部は振り返りもせず、前を見据えたまま、ぼそりと呟いた。
「二十年前より、上手いな」
ユウキは呆然として、ギターを持ったまま固まった。
「……何言ってるんですか。俺、二十年前なんてまだギター始めてもいませんよ。子供です」
西部は歩みを止めず、ただハットのつばを指先で軽くクイッと上げた。
「だろ」
「……?」
「二十年後も、同じだ」
それだけ言って、西部は夜の雑踏の中へと消えていった。
ユウキはしばらくの間、その無骨な後ろ姿を呆然と見送っていた。
二十年後のことなんて、やっぱり何も分からない。
売れるかもしれない。大失敗して、全てを失うかもしれない。
でも。少なくとも『今日』の自分は、昨日より、そしてさっきよりも、少しだけ良い歌を歌えた。それだけは、誰に否定されようと確かだった。
冷たい夜風が、ユウキの頬を叩く。
ユウキは、少しだけ誇らしそうに小さく笑うと、ギターのストラップを肩にかけ直した。
「……よし、もう一曲やるか」
誰のためでもない。まだ見ぬ未来の自分のためでもない。
今、ここで息をして、歌っている自分のために。
駅前の灯りの下で、ユウキの新しい歌が、力強く静かに始まった。




