『ユウキと、始めてのワンマン』後編
時間を少しだけ、ワンマンライブの一週間前へと巻き戻す。
商店街の古いアパート。サトシの部屋の前に、ユウキは珍しくガチガチに緊張した顔で立っていた。
扉が開き、サトシが気怠そうに顔を出すと、ユウキは懐から一枚の紙切れを差し出した。
「サトシさん」
「ん?」
「……これ。来てください」
サトシは、ユウキの差し出してきたワンマンライブのチケットを見た。それから、ユウキの必死な目をじっと見つめた。
「嫌」
一秒の迷いもない、完全なる即答だった。
「なんでですか!?」
「人多い。疲れる」
「たった三十人のキャパですよ!?」
「三十人は、多い」
「嘘でしょ!?」
ユウキは頭を抱えたが、サトシは「じゃ」とそのまま扉を閉めようとする。
「あ、あの! 受付にチケット預けておきますから! 気が向いたらでいいんで!」
閉まるドアの隙間に向かって、ユウキはそれだけを叫ぶのが精一杯だった。
そして、当日。
開演時間を過ぎても、受付に預けられたサトシの分のチケットは、誰も引き取りに現れないまま、ぽつんと残されていた。
サトシは来なかった。ユウキも、薄々そうなるだろうと分かっていた。
だが、ライブが終盤に差し掛かった頃。
『ジ・エッジ』のフロアの最後方。関係者以外は立ち入らないような、照明の一番届かない暗い壁際に、フードを深く被った男が、いつの間にか静かに立っていた。
サトシだった。
サトシは誰にも声をかけない。タカシのように手を振りもしない。拍手すらしない。ただ、ポケットに手を突っ込んだまま、ステージの上のユウキをじっと見つめていた。
半年前、駅前で今にも折れそうな顔をして歌っていた青年。
「もう無理だ」と、世界の全てを諦めかけていた青年。
今は、違う。
客席は少ない。誰もが知る大成功とは程遠い。それでも、あの日、暗闇の中で立ち尽くしていた頃より、ユウキはずっと遠くまで歩いてきていた。
ステージの上で、ユウキが最後のMCを始める。
『変な人に会ったんですよ。俺の歌が好きだって言ってくれて……』
サトシは、フードの奥で苦笑した。どう考えてもタカシのことだ。
最前列を見れば、案の定、タカシがバスタオルで顔を覆うようにして大号泣している。
サトシは小さく、本当に小さく笑った。
「あいつ……」
タカシは、誰かを救おうなんて高尚なことは考えていない。ただ、自分の好きなものを、恥ずかしげもなく「好きだ」と大声で言っているだけ。それだけだ。
でも、その計算のなさと、底抜けの真っ直ぐさだからこそ、綺麗事の通じない人間の心の奥底にまで届く。
ライブが終了し、客席の明かりが灯ると同時に、サトシは誰に気付かれるよりも早く、足早にライブハウスの出口へと向かった。
しかし、階段を上がって外の路地に出た瞬間。
「サトシさん!!」
背後から、息を切らした声が響いた。振り返ると、ギターケースを背負ったユウキが、楽屋からそのまま飛び出してきたような姿で立っていた。完全に、見つかった。
サトシは面倒くさそうに、露骨に眉をしかめる。
「……何。帰るとこ」
「来てたじゃないですか! 一番後ろにいたの、見えましたよ!」
「見間違い」
「見間違いなわけないでしょ! 感想、感想くださいよ!」
ユウキは犬のように目を輝かせて詰め寄ってくる。
サトシはポケットに両手を突っ込んだまま、数秒の間、夜の冷たい空気を吸い込んだ。そして、いつも通りの低い声で、短く答えた。
「良かったんじゃない」
「え、それだけですか!?」
「……十分でしょ」
サトシがそれだけ言って背を向けると、ユウキは「相変わらず素っ気ないなぁ」と呆れたように笑った。でも、その表情は、タカシに褒められた時とはまた違う、どこか心の底から救われたような、深い安心感に満ちていた。
帰り道。商店街へと続く街灯の下を、サトシは一人で歩いていた。
ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
半年。
ただの売れないバンドマンだったガキが、一人になって、ソロのアーティストになった。
何一つ、問題は解決していない。売れてもいないし、食えてもいない。夢なんて、まだ雲を掴むように遠い場所にある。
それでも。あいつは音楽を辞めなかった。
サトシは紫煙を夜空へとくゆらせ、小さく呟いた。
「まあ……続いてるなら、それでいいか」
表で大騒ぎしながら、本能のままに人を支えるタカシ。
裏で誰にも気づかれない位置から、その歩みをただ静かに見守るサトシ。
その両方の、歪で、温かい「愛し方」に背中を押されながら。
ユウキは今日もまた、自分の名前が書かれたギターを抱えて、新しい歌を紡ぎ始めていた。




