『閉店五分前の平行線』後編
時計の針を、ほんの二十分前へと巻き戻す。
商店街の裏路地。ラーメン屋『来てけろ』の源蔵大将は、出前用の岡持ちを小脇に抱え、カツカツと夜道を歩いていた。
その途中、ケーキ屋『ブレ・ドール』の前を通りかかった時のことだ。
ガラスの前に、セーラー服を着たガキが、まるで地縛霊のように張り付いているのが目に入った。
五分後。源蔵が別の路地から出前を終えて戻ってきても、そのガキはまだ同じ場所にいた。
十分後。空になった岡持ちを片手に通りかかっても、やっぱりまだいる。
源蔵は通りの向かい、自販機の陰からその様子をじっと睨みつけ、忌々しそうに頭を掻いた。
「チッ……万引きでもする気か、あのガキ」
十五分後。源蔵が見張っていると、ガキはまだ財布を開け閉めしながら突っ立っている。
「なんなんだあいつは。足が地面から生えてんのか」
源蔵が本気で不審がり、いよいよ声をかけようと足を踏み出した、その時だった。
「おい、何やってんの?」
スウェット姿のタカシが、ひょっこりと現れた。
そこからは、商店街のド真ん中で、響き渡るような大声の押し問答が始まった。
「いいから買え!」
「足りないって言ってるじゃないですか!」
「知らない人からお金なんて借りません!」
「俺だって怖いわ!」
タカシのデカい声のおかげで、ガキが「母親の誕生日にケーキを買いたいけれど、二百二十円足りなくて立ち往生している」という全貌が、筒抜けになって通りに響き渡る。
外の騒がしさに気づいたケーキ屋の店主が、店の裏口のドアを少しだけ開けて、顔を覗かせた。
すぐ近くの自販機の陰にいた源蔵は、腕を組んだまま、アゴで「さっさと安くしてやりゃあいいだろ」と店主に小声で合図を送る。
だが、裏口のドアに手をかけた店主は、困ったように首を横に振った。
「ダメですよ、源蔵さん。あの子、さっきからずっとプライドと戦ってるんです。『足りないから安くしてあげる』なんて言ったら、恥ずかしくて絶対に買わずに逃げちゃいますよ」
「チッ、めんどくせぇなガキは」
源蔵が吐き捨てる。
「そうですね。本当にめんどくさい」
店主は苦笑いしながら一度ドアを閉めると、厨房の机の上で、イチゴの完璧なホールケーキの箱を少しだけ揺らした。ほんのわずか、イチゴをスライドさせる。
「これさ、形が崩れてるんだよね。だから二百二十円引き」
傷つくのが怖くて立ち止まっていたガキに、これ以上ない「言い訳」を用意して、店主は表の扉を開けた。
現在。
アキラは、手に入れたケーキの箱を落とさないよう、胸にぎゅっと抱きしめて、夜の商店街を走って帰っていく。その小さな背中は、朝の喧嘩のことなんてすっかり忘れたように、どこか必死で、温かかった。
源蔵は、自販機の陰でタバコに火をつけ、その背中を静かに見送っていた。
隣では、ケーキ屋の店主が「やれやれ」とシャッターを下ろしている。
アキラの後ろ姿のさらに後ろでは、なぜか自分が奇跡を起こしたかのような、最高に誇らしげな顔をして「ガハハ!」と笑っているタカシの姿があった。アカネに「タカシさんは何もしてない」と怒鳴られても、本人はどこ吹く風だ。
源蔵は、紫煙を夜空へとくゆらせながら、鼻で小さく笑った。
「……めんどくせぇのは、大人もか」
ガキは、プライドが邪魔をして一歩も動けない。
大人は、そのプライドを傷つけないために、わざわざケーキの形を崩してまでお膳立てをする。
諸悪の根源のようなバカは、何もしていないのに自分の手柄にして調子に乗っている。
誰も英雄じゃない。誰も特別な計算をしていない。
ただ、立ち止まってしまう不器用なガキを、この街の「めんどくさい大人たち」が、それぞれの距離感でそっと見守り、最後の一歩だけを優しく押し出す。
そんな名前のつかない温もりの連鎖を乗せて、エデンの商店街には、今夜も少しだけお節介で、心地よい夜風が吹き抜けていた。




