『家族と、天気』前編
夕暮れ時の商店街。路面に落ちる影が長く伸びる中、セーラー服姿のアキラは、古道具屋『トレイル』の店先に置かれた木製のベンチへ、どさりと力なく腰を下ろした。
帰りたくなかった。理由はいたって単純だ。
また、母親と喧嘩をした。
今になって振り返れば、本当にくだらないことだった。洗濯物の畳み方だとか、進路の書類の出し方だとか、数分の門限の遅れだとか。どちらが先に声を荒らげたか、どちらが悪いかなんて、もうどうでもよかった。ただ今は、あの狭い家の中で母親と顔を合わせること自体が、耐え難く息苦しかった。
「……最悪」
アキラはベンチの上で膝を抱え、制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめた。秋の空は低く、どんよりとした灰色に曇っている。今にも冷たい雨が降り出しそうだった。
その時、店の奥からギィ……と床板を軋ませる音と共に、一人の男が現れた。
頭には黒いハット。丸眼鏡の奥の目は眠たげで、口元と顎には綺麗に整えられた髭。色落ちしたタフなデニムに、着古されたウエスタンシャツの袖をまくり、足元は履き込まれたエンジニアブーツ。
この寂れた日本の商店街において、そこだけが完全にアメリカの「西部」だった。
西部は、ベンチに丸まっているアキラに声をかける風でもなかった。ただ、店の前の自販機で買った温かい缶コーヒーを一本、アキラのすぐ隣へカツンと置いた。
「……ありがとうございます」
アキラが膝に顔を埋めたまま小さく頭を下げると、西部は無言で一度だけハットのつばを触り、頷いた。
それから、地獄のような沈黙が始まった。
五分。十分。十五分。
西部は店先に持ち出したオイル臭い作業台で、大戦モデルらしき古い木製のラジオをドライバーで黙々と分解している。アキラはただ、隣の缶コーヒーから立ち上る僅かな湯気と、曇り空を交互に見つめている。
会話はない。気まずい。異常に気まずい。
立ち止まることには慣れているアキラだったが、この無骨な大男の放つ圧倒的な無言の圧には、とうとう耐えられなくなった。
「……あの、何か言ってくださいよ」
顔を上げたアキラが、すがるように、あるいは少し尖った声で言った。
西部はドライバーを回す手をぴたりと止めた。丸眼鏡の奥の目を少しだけ細め、何かを思案するように数秒の沈黙を置く。
そして、ぼそりと言った。
「何を」
「何でもいいです。この状況、気まずすぎます」
「そうか」
また沈黙。アキラは思わず両手で頭を抱えた。
「だから! そういう『そうか』じゃなくて、普通こういう時は、家出の理由を聞くとか、親の味方するとか、あるじゃないですか!」
西部はようやくラジオの基盤から顔を上げた。渋い髭の口元をわずかに歪め、どんよりとした曇り空を見上げる。
そして、低くハスキーな声で、こう呟いた。
「家族は、天気みたいなもんだ」
「……は?」
アキラはあからさまに眉をひそめた。このおじさんは何を言っているんだという目が、西部に向けられる。
しかし、西部は気に留める様子もなく、空を見つめたまま言葉を区切って続けた。
「晴れの日もある」
「……」
「雨の日もある」
「……」
「嵐もある」
「……」
「それだけだ」
「いや、意味分かんないですけど!?」
アキラは思わずベンチから立ち上がった。期待した大人のアドバイスとは、あまりにもかけ離れていた。
「晴れの日だけが欲しいと言っても、それは無理だ」
西部は再び作業台のラジオへと視線を落とし、淡々と作業を再開する。
「雨の日があるから、帰る理由もできる」
アキラは言葉を失い、口を半開きにしたまま固まった。
全然納得はいっていない。意味だって半分も分からない。
けれど、西部の言った最後の言葉だけが、胸の奥の、一番トゲトゲしていた部分にチクリと引っかかった。
帰りたくない。顔を見たくない。
でも、本当にこのまま夜になって、あの家に自分の居場所がなくなってしまってもいいのか。それは、違う気がする。
雨が降ってきたら、傘を持っていない自分は、あの家に逃げ込むしかない。それは「帰ってあげた」という、不器用なプライドを守るための、これ以上ない言い訳になるのではないか。
西部はもうラジオのネジに集中しており、これ以上言葉を重ねる気はないようだった。話は終わり、ということらしい。
アキラは不満そうな顔を隠さないまま、スクールバッグを持ち直して立ち上がった。
「……やっぱり、意味分かんない人ですね」
「そうか」
「帰ります。缶コーヒー、ごちそうさまでした」
「そうか」
「普通、もっと『お母さんも心配してるぞ』とか言いません?」
「言った」
「言ってないです!」
アキラは呆れたように小さいため息をついた。けれど、店にやってきた時よりも、その足取りはほんの少しだけ軽くなっていた。
アキラが商店街の通りへと踏み出したその瞬間、灰色の空から、ぽつりと冷たい雨粒が彼女の額に落ちてきた。




