『消えない傷』後編
リョウがタカシと話していたあの夜。
残されたユイは、アカネに連れられてサトシのボロアパートの一室にいた。
けれど、今回は以前のように泣き崩れてはいない。ジュンが淹れてくれた温かいお茶の湯気を、ただじっと見つめていた。
「……謝ってもらって、仲直りしたはずなんです。でも、前みたいに笑い合えない。元に戻れないんです」
ユイの消え入りそうな呟きに、サトシはいつものように煙草に火をつけ、静かに紫煙をくゆらせた。
「そりゃそうだよ。一回、壊れたんだから」
サトシの身も蓋もない言葉に、ユイは息を呑んで顔を上げた。サトシは静かな目で、ユイを見つめ直す。
「一回ヒビが入った器はね、どれだけ綺麗にくっつけても新品には戻らない。だから、前と全く同じ“元通り”を目指そうとするから苦しくなるんだ」
「じゃあ、私たちはもうダメなんですか……?」
「違うよ。――“作り直す”しかないんだよ」
サトシは穏やかに続けた。
「傷があることをお互いに受け入れて、その傷ごと、前とは違う新しい関係を二人で一から作り直すんだ。壊れる前より、ちょっとだけ不格好で、でもちょっとだけ頑丈なやつをね」
サトシのアパートを包む深い静寂が、ユイの心を驚くほど軽くしていった。元通りにならなくていい。その事実が、彼女の一歩引いていた心を優しく解放していく。
午前四時過ぎ。夜明け前の青い光が街を包む頃、アパートの階段の下で、リョウとユイは鉢合わせた。
別々の場所で、別々の男たちから「不器用な答え」を受け取ってきた二人の間に、一瞬、いつもの気まずい沈黙が流れる。
でも今回は、二人とも目を逸らさなかった。
リョウがゆっくりと歩み寄り、先に口を開いた。
「……ユイ。俺、前みたいに上手くやれる自信ねぇわ。また怒らせるかもしれないし、傷つけるかもしれない。完璧な優しい男には、きっとなれない」
正直すぎるリョウの告白に、ユイもまた、まっすぐリョウの目を見つめて返した。
「私も。リョウがちょっと動くだけで、またビクビクしちゃうかもしれない。前みたいに、100%リョウを信用するなんて、すぐには無理」
お互いの弱さと恐怖を突きつけ合う、最悪の会話。
けれど、数秒の沈黙の後――ユイの口元から、ふっと小さく、悪戯っぽい笑みが溢れた。
「じゃあさ。……下手なまま、やる?」
その言葉に、リョウは一瞬呆気にとられ、それから泣きそうな顔で、クシャリと笑った。
「……おう。下手くそなまま、一からやろう」
その瞬間、ここ数日二人を縛り付けていた透明な呪縛が、綺麗に消え去った。二人の肩から、すとんと力が抜ける。
サトシのボロアパートから始まった、この街の『エデン』。
そこは、傷のない綺麗な人間が集まる場所ではない。一度壊れてしまった迷子たちが、その傷跡を隠さずに生きていいと許される聖域だ。
その温かいスピリットは、今やサトシのハコを飛び出し、タカシの不器用なお節介を経て、リョウとユイの間にもしっかりと伝播していた。
完璧な恋人じゃなくていい。また壊れるかもしれないし、お互いに傷の痛みに怯える夜もあるかもしれない。
それでも、その不格好な傷跡さえも二人の歴史として抱えながら、もう一度、新しい関係を作り直していけばいい。
部屋へと続く階段を上る二人の背中には、もう「偽物の優しさ」はなかった。
新しく作り直される二人のエデンに、夜明けの光が、静かに、けれど等しく降り注いでいた。




