『消えない傷』前編
ケンカの翌朝。アパートの六畳間に、気まずいほどの陽光が差し込んでいた。
一応、二人は同じ部屋にいる。リョウは不器用ながらも頭を下げて謝ったし、ユイもそれを受け入れた。いつも通りの日常に戻った――はずだった。
けれど、部屋を満たす空気はどこか奇妙に歪んでいた。
「……お皿、俺が洗うよ。ユイは座ってて」
「あ、ありがとう、リョウ。じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」
妙に優しい。妙に気を遣い合っている。本来なら「おはよー」「そこ退いて」の一言で済むはずの距離感なのに、互いの輪郭に触れるのを恐れるように、一歩引いた会話しかできない。昨夜、お互いを“壊しかけた記憶”が、消えない傷跡のように残っている。
リョウは、ユイの視線が自分のわずかな挙動を追っていることに気づいていた。
(ユイは怯えてる。俺がまた、あの夜みたいに突然キレて、消えてしまうんじゃないかって)
ユイの顔色を窺うたび、リョウ自身の胸にも「またあいつを傷つけるかもしれない」という恐怖が募っていく。
「また壊れないように」とお互いが相手を怖がっている偽物の優しさは、少しずつ二人の呼吸を奪い、家の中は息が詰まるほどの苦しさで満ちていった。
そんな状態が数日続いたある夜、ついに限界が訪れる。
夕食後、リョウが必要以上に甲斐甲斐しく片付けをこなしていると、ユイが小さく震える声で言った。
「……もう、やめてよ。そんな風に、腫れ物みたいに優しくされる方が苦しい」
その言葉に、ここ数日張り詰めていたリョウの糸が、音を立てて弾け飛んだ。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!!」
声を荒らげるリョウに、ユイの肩がビクッと跳ねる。その反応を見て、リョウは絶望的な気持ちのまま、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「俺だって普通にしたいよ! でも、分かんねぇんだよ……! 俺、またお前を傷つけるかもしれねぇじゃん。あの夜みたいに、お前を泣かせるのが……怖くてたまんねぇんだよ!」
リョウは飛び出さなかった。代わりに、拳を握りしめて震えながら、初めて情けないほどの「本音」を吐き出した。部屋には重苦しい沈黙だけが残された。
頭を冷やすために夜の街へ出たリョウは、あてもなく歩くうちに、自販機の灯りの前でコンビニ袋を下げた大男――タカシに遭遇した。
「お、兄ちゃん。今回は夜逃げじゃなくて散歩か?」
タカシはガハハと笑いながらリョウの肩を叩いたが、リョウの暗い表情を見て、すぐに察したように自販機の温かい缶コーヒーを握らせてきた。
「……タカシさん。俺、もうあいつと、どう接していいか分かんないっす。優しくすればするほど空気が壊れていく」
ポツリと零したリョウの言葉に、タカシは珍しく笑うのをやめ、静かに夜空を見上げた。
「俺さ。昔、ミサキと大ゲンカして本気で泣かせた後……一ヶ月くらい、めちゃくちゃ“良い彼氏ごっこ”してたことあるんだわ」
「え……タカシさんが?」
「おう。家事も全部やって、怒りもしねぇで、ミサキの言うこと何でも聞いてさ。完璧な男になってやった。そしたらミサキ、なんて言ったと思う? 『不気味だから前のゴリラに戻れ』ってさ」
タカシは自嘲気味に頭をボリボリと掻いた。
「腫れ物みたいに扱う優しさってのはな、相手に『お前は壊れやすい弱虫だ』って言い続けてるのと同じなんだよ。相手を信用してねぇから、自分がまた失敗するのが怖いから、優しさでガードを固めてるだけだ。俺も、大失敗してようやく気づいたんだけどな」
リョウは缶コーヒーを握りしめたまま、立ち尽くしていた。いつも豪快で完璧に見える大男の過去の失敗が、リョウの頑なな視界を、少しずつ変えようとしていた。




