『夜逃げ未遂』後編
同時間帯。サトシのアパートの古びた引き戸が、急に開いた。
ジュンに連れられて入ってきたのは、涙で顔をグシャグシャにした若い女性――ナナだった。今にも崩れ落ちそうな足取りで、部屋の畳にへたり込む。
「お兄ちゃんが、置き手紙を置いて消えちゃったんです……! スマホも繋がらなくて……。仕事が辛いって言ってたから、もしかして、死ぬつもりなんじゃ……!」
初対面のサトシを前に、過呼吸気味に訴えるナナ。ジュンは心配そうにその背中をさすり、サトシはいつものように煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせた。その落ち着いた佇まいに、ナナの激しいパニックが、波が引くように少しずつ静まっていく。
「本当に死ぬ人間はね、もっと静かだよ」
サトシは穏やかに、けれど確信を込めて言った。
「荷物をまとめて、手紙を残して、必死に動いている。それはね、死ぬためじゃないよ。多分、“もう無理だ”って叫ぶ代わりに、身体が勝手に消えることを選んだんだ。生きるために逃げたんだよ、お兄さんは」
「生きる、ため……?」
ナナは溢れる涙を拭いもせず、サトシの言葉を反芻した。
勝手に消えて、家族に心配をかけて、なんて無責任な兄なんだと責める気持ちが、この部屋の空気によって優しくほどけていく。
(お兄ちゃん、そんなに苦しかったんだ……。誰も味方がいないと思って、一人で抱え込んでたんだ)
サトシのいるこの古いアパートは、かつてタカシや他の住民たちも行き着いた、この街の最初の逃げ場所であり、静かな聖域――『エデン』だった。
今、その灯りのもとで、初対面のナナもまた、凍りついた心を少しずつ溶かしていた。
夜が明け、遮光カーテンの隙から柔らかな朝の光が差し込む頃、ナナのスマホが震えた。
画面に表示されたのは、待ち続けた「兄」の名前。
ナナが震える手で通話ボタンを押すと、受話器の向こうから、疲れ果ててはいるけれど、どこかスッキリとしたユウジの声が聞こえてきた。
『――あ、ナナ? ごめん、心配かけた。俺、大丈夫だから。会社、ちゃんと辞めてきたから』
「お兄ちゃん……! 今どこにいるの!?」
『いや、なんかスウェット着たでかい人に引っ張られてて……今、駅の近く』
「私、今……ジュンさんのところの、えぇっと、サトシさんっていう人のお部屋にいる!」
それを横で聞いていたタカシが、電話の向こうで『あぁ!? サトシのハコにいるんか! じゃあすぐそこじゃん、行くぞ兄ちゃん!』と大声を出すのが聞こえた。
数分後。アパートの階段を、ドタドタと騒がしく上る足音が響いた。
「おーい! 生還したぞー!!」
引き戸が勢いよく開き、現れたのはタカシ。そしてその背後には、ボロボロになりながらも、どこか憑き物が落ちたような顔をしたユウジが立っていた。
ユウジは朝一番、タカシを後ろに立たせて、会社の上司の元へ行ったのだ。
『俺はあんたの奴隷じゃない。二度と、他人の人生をあんな風に踏みにじるな』
大声で、けれど震える声で、生まれて初めて自分の本音を叩きつけてきた。その胸にはもう、行き場のないドロドロした塊は残っていなかった。
「お兄ちゃん……!!」
ナナが立ち上がる。ユウジは「ナナ、本当にごめ――」と言いかけたその瞬間。
**バチィン!!**
部屋の中に、乾いた音が響いた。ナナがユウジの頬を、思いきりビンタしたのだ。
「勝手に消えんなバカッ!! 死んだかと思ったじゃん!! 辛いなら辛いって、私に言いなさいよ!!」
ナナはユウジの胸ぐらをつかみ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
ユウジの目からも、一気に涙があふれ出た。
「ごめん……ごめん、ナナ……。俺、生きてて良かった……っ」
二人はお互いを抱きしめ合い、声を詰まらせて泣き続けた。
その様子を、サトシとジュンはいつものように静かに見守っている。
サトシが作ったアパートという小さな『エデン』。
そこで救われたタカシのような住民たちが、今度は街の中で不器用にお節介を焼き、また新たな迷子を救い上げて、このアパートへと連れ帰ってくる。サトシから始まった優しい逃げ場所の連鎖が、巡り巡って、この街全体の温かい空気を作っているのだ。
ただ一人、タカシだけがレジ袋を掲げて大はしゃぎしていた。
「おお!! 大団円!! 生還ENDじゃん!! よっしゃ、朝飯にしようぜ、コンビニでおにぎり大量に買ってきたからよ!!」
窓の外からは、いつもの街の、いつもの朝の喧騒が聞こえてくる。
晴れ渡った青空の下、また一つ、サトシから始まったエデンの灯りは、迷子になった住民を優しく、そして力強くすくい上げたのだった。




