『夜逃げ未遂』前編
深夜一時、地方都市のバスターミナルは、切り落とされたように静まり返っていた。
ベンチの端で、ユウジはボストンバッグを両手で強く抱え込み、小さく震えていた。
つい数時間前、彼は二年間耐え続けたブラック企業のオフィスで、上司に退職届を叩きつけた。いや、叩きつけたというよりは、握りつぶされる寸前の心臓を必死に守るように、机の上に置いて逃げ出してきたのだ。
連日の徹夜、怒号、人格を否定される言葉の暴力。
限界だった。今すぐこの街から消えなければ、自分が自分でなくなってしまう。そう思って、夜行バスのチケットを握りしめていた。
けれど、胸の奥を焼くのは解放感ではなかった。
(俺は、ただ逃げただけだ。あんな奴らに、一言も言い返せずに)
辞めたかったんじゃない。ただ、誰かに「助けて」と言えなかっただけ。行くあてのない夜逃げのバスを待つユウジの顔は、世界から完全に閉め出された迷子のそれだった。
「うおっ、暗ぇ!! 人生終わりみたいな顔してんな、兄ちゃん!!」
静寂をぶち破って響いたのは、深夜のターミナルにはあまりに不釣り合いな、馬鹿みたいに明るい声だった。
驚いて顔を上げると、そこにはスウェット姿で、手にはなぜか缶コーヒーの詰まったレジ袋を下げた大男が立っていた。タカシだ。
「な、なんですか、あなた……」
怯えて後ずさるユウジの手首を、タカシはガシッと掴んだ。その手のひらが、異常なほどに熱い。
「いや、なんかお前、今にもバスの前に飛び込みそうなオーラ出てっからさ。ほら、コーヒー飲めよ」
「放ってください……! 俺は、もうこの街にいられないんだ。会社を辞めて、全部放り出して、逃げるしかないんだよ……!」
泣き出しそうな声をあげるユウジを、タカシはぽかんとした顔で見つめ、それからガハハと豪快に笑い飛ばした。
「なんだ、会社辞めただけじゃん!!」
「……だけ、って……! お前に何が分かるんだ!」
「分かるよ。俺なんか仕事長続きしねぇし、ミサキによく怒られてるもん。いいか兄ちゃん、会社なんてただのハコだろ? 逃げるのは全然悪くねぇ。でもさ――」
タカシは急に真面目な顔になり、ユウジの目をまっすぐに見据えた。
「“自分”まで捨てて逃げるなよ。お前、あのクソ上司に、自分のホントの気持ち一つも言えてねぇんだろ? 胃の中にドロドロしたもん残したまま逃げたら、どこに行ってもずっと苦しいままだぞ」
ユウジは息を呑んだ。タカシの言葉は、彼が一番目を背けたかった「悔しさ」のド真ん中を貫いていた。
「じゃ、決まりな」
タカシはユウジのボストンバッグをひったくるように持つと、ニカッと笑った。
「夜が明けたらさ、その荷物持って、お前を潰した奴のところに最後の本音、言いに行こうぜ。俺がついてってやるからよ!」




