9話後編:『今夜はもう閉院なんだから、ただの「山口綾子」に戻ればいい』
夜の九時前。
すっかり雨のあがった商店街は、濡れたアスファルトが街灯の光を鈍く反射させ、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
山口診療所の明かりが落された診察室で、綾子先生は一人、パソコンの画面に向かってカルテの整理をしていた。
カチカチ、というマウスのクリック音だけが、狭い部屋に虚しく響く。
「……はぁ」
画面から目を離し、背もたれに深く体重を預ける。眼鏡を外して目頭を強く押さえると、ズシリとした重い疲労感が波のように押し寄せてきた。
今日、サトシとタカシが連れてきた女子高生、ヒトミのことを思い出す。
あの子は、きっと限界だった。だけど、周囲に心配をかけまいと、自分の殻に閉じこもって、ギリギリまで「大丈夫」というお面を被り続けていた。
世の中には、ああやって助けを求めるのが致命的に下手くそな人間が、ごまんといる。
正式には、そんな人間を診る側の自分はどうだろう、と綾子先生は思う。
日々、押し寄せる患者たちの不安を受け止め、時には理不尽なクレームを頭を下げて流し、個人経営の診療所の数字に頭を悩ませる。年齢的な体力不安も、日を追うごとに増していく。
「先生」という肩書きを背負って、もう何年になるだろう。
街の頼れるお医者さん。強くて、優しくて、いつでも冷静な大人。
でも、その白衣を脱いだ下にある、ただの一人の人間としての弱音は、一体どこへ吐きだせばいいのか。
気がつけば、自分もまた、あの女子高生と同じように「助けて」の言い方を忘れてしまった、大人側の迷子だった。
トントン、と静まり返った診療所のガラス戸が叩かれたのは、まさにその時だった。
「ん? 救急かしら……」
綾子先生が慌てて受付へ向かい、鍵を開けて押し戸を引く。
そこには、昼間とは打って変わって、傘もささずに夜風に吹かれて立つタカシの姿があった。
「夜分遅くにすんませーん! 綾子先生!」
「ちょっと、タカシくん!? もう閉院よ? それにまたそんな汗だくで……」
「いや、違うんすよ! サトシさんの奴、ここに傘忘れたってアパートでうるさくて! ついでに俺、さっきのボウズに絵本読んだあと、自分のスマホここに置き忘れたっぽくて!」
タカシは頭を掻きながら、大して悪びれもせずに待合室のソファへと勝手に入ってきた。
その後ろから、呆れたような顔をしたサトシが、ひょっこりと顔を出す。
「すみません、綾子先生。コイツ、俺の傘をダシにして、自分がスマホ忘れた言い訳を作ってここに来ただけです」
「言い方ァ!! 俺はサトシさんの優しさに免じてだな!」
「俺はお前に頼んでない」
静かだった診療所の待合室が、二人が入ってきた瞬間に、まるでお祭りの後のような、妙に明るくて騒がしい空気に一瞬で塗り替えられていく。
タカシは受付のカウンターの上で自分のスマホを見つけると、「あったー!」と文字通り犬のように喜んだ。
綾子先生は、そんな二人を呆れたように見つめながらも、胸の奥の澱が、彼らの発する熱量で少しずつ溶かされていくような不思議な感覚を覚えていた。
サトシは、他人の心の機微に誰よりも早く気づき、そこにそっと、誰も傷つかないような綺麗な「逃げ道」を作る。
タカシは、相手の事情なんてお構いなしに、その圧倒的なバカ正直さで、頑固に閉ざされた心の「突破口」を強引にこじ開けてしまう。
方向は、まるで真逆。
だけど、この二人が並んで歩いているだけで、この冷たい街のなかで、誰かが一人ぼっちで孤立することができなくなるのだ。
「ふぅ……。あなたたちを見てると、本当に調子が狂うわね」
綾子先生は受付の椅子に腰掛け、ふっと肩の力を抜いた。いつもなら患者に見せるはずのない、少しだけ弱った大人の顔が、どうしてだかこの二人を前にすると自然に出てしまう。
「先生ってね、どれだけ弱ってても、絶対に“弱る側”の人間にはなれないのよ」
ぽろりと、口から溢れた本音だった。
言ってから、「大人が子供相手に何を言っているのか」と綾子先生は自嘲気味に笑った。
タカシは、その言葉の重さに一瞬だけ言葉を詰まらせ、どう声をかけていいか分からず、大きな身体を縮めてオロオロとサトシの顔を見た。
しかし、サトシはいつものように、ポケットに手を突っ込んだまま、軽薄そうに小さく笑った。
「じゃあ、今日は患者側やればいいじゃないですか」
「え? 何それ」
「診察される側、ですよ。白衣着て座ってるから先生にならなきゃいけないんでしょ。今夜はもう閉院んだから、ただの『山口綾子』に戻ればいい」
サトシの言葉に、綾子先生はハッとしたように目を見開いた。
「そうそう! 先生だって飯食うし腹も減るでしょ! よっしゃ、俺がとびきり美味いもん奢りますから、今から行きましょう!」
タカシが待合室の電気のスイッチをパチパチと消しながら、半ば強引に綾子先生の背中を押した。
「ちょっと、タカシくん、引っ張らないでよ……! 私はまだ片付けが……」
「片付けなんて明日でいいっすよ! ほら、サトシさんも行くぞ!」
深夜の商店街の片隅。
赤にじんだネオンが濡れた路面に美しく映る、ラーメン屋『来てけろ』の暖簾を三人がくぐる。
「へい、いらっしゃい!」
威勢のいい声を出したのは、厨房で腕まくりをして働く、あのバンドマンのユウキだった。夢と生活を両立させるために、彼は今、この街の夜の底で必死に汗を流して働いている。男はタカシの顔を見るなり、「あ、タカシさん! こないだはどーも!」と嬉そうに白い歯を見せた。
湯気の立ち込めるカウンターの端。
綾子先生の前には、並々とスープが注がれた温かいラーメンが置かれた。
「ほら先生、食って食って! 食えば大抵の悩みは消えますから!」
タカシが豪快にチャーシューを口に放り込み、サトシが「お前と一緒にすんな」とレンゲでスープをすする。
綾子先生は、フーフーと息を吹きかけながら、麺をすする。
温かいスープが五臓六腑にしみ渡り、冷え切っていた身体の芯が、じわじわと解けていくのが分かった。
「……ふふ。美味しいわね、本当に」
気がつけば、綾子先生の顔からは「街の立派な医者」としての強張った表情は消えていた。ただの、少しお疲れ気味な、でもどこにでもいる優しい一人の女性の笑顔が、そこにはあった。
何をするわけでもない。ただ、騒がしい二人の男の子の隣で、温かいラーメンを食べているだけ。
だけど、それだけで、張り詰めていた心の糸が、心地よく緩んでいく。
外へ出ると、夜風はすっかり心地よい涼しさに変わっていた。
街の「エデン」は、誰かを大袈裟に救うための大層な場所なんかじゃない。
助けてって言うのが下手くそな人間が。
弱音を吐く場所のない頑固な大人が。
ほんのちょっとだけ、一人ぼっちでいなくて済む場所。
そんな優しい余波が、雨上がりの商店街の隅々へと、静かに、静かに広がっていた。




