『箱庭の外』前編
夜十時過ぎ。出張帰りの新幹線を降りた駅のホームは、家路を急ぐ人々で溢れていた。
大手企業の役員を務めるミノリの父親――茂は、疲れを見せない隙のないスーツ姿で、部下の田中を連れて歩いていた。
茂は「ちゃんとしている側」の人間だった。
弱みは見せない。人に迷惑をかけない。どんな窮地でも助けを借りず、自力で解決する。それが大人としての、組織の長としての正解だと信じて疑わなかった。
その時だった。隣を歩いていた田中が、突如として足を止めた。
「……ぁ、はっ、……っく」
見ると、田中の顔面は土気色になり、喉を掻きむしるようにして激しく呼吸を乱している。パニック発作。
周囲がざわつき、人々が遠巻きに足を止める。
(冷静に対応しなければ。役員として、恥ずかしくない振る舞いを)
茂はそう思うほど、身体が石のように硬直した。救急車を呼ぶべきか、駅員を呼ぶべきか、それともまずは落ち着かせるべきか。頭の中の「正論」が渋滞し、指一本動かせなくなる。完璧であろうとするプライドが、彼から初動の自由を奪っていた。
「おいおいおい!! 大丈夫かよ、兄ちゃん!!」
その沈黙をぶち破ったのは、およそこの場にそぐわない、コンビニ袋を下げたスウェット姿の大男だった。タカシだ。
タカシは茂の躊躇などお構いなしに、倒れ込んだ田中の横に膝をついた。
「おいおじさん、ぼーっとしてんじゃねぇよ!! 救急車!! 早く!!」
「……っ、分かっている。素人が口を出すな、私は冷静に状況を――」
茂がそこまで言いかけて、タカシの顔を凝視した。タカシもまた、おにぎりを掴んだまま動きを止める。
「あ。あん時の、圧がすげぇおじさん……!」
「お前は……あの夜のコンビニの……!」
だが、タカシは一瞬で意識を目の前の田中へと戻した。
「あー、話は後っす!! 今はこの兄ちゃん!!」
タカシは即座に自分のスマホで119番を叩きながら、茂へ矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「水!! そこの自販機で水買ってこい!! あと、そこのみんな!! 離れて、空気通してやって!!」
理屈抜きの行動。タカシは周囲の目も、自分の格好も、何一つ気にしていない。ただ「目の前の人間が苦しそう」という一点だけで動いていた。茂が戸惑いながら買ってきた水を奪い取ると、タカシは田中の背中を大きな手で、リズムを刻むようにさすり始めた。
「大丈夫っすよ、兄ちゃん。俺がいっから!! 死にゃしねぇよ、ゆっくり、ゆっくり吐け!!」
しばらくして。駅員と救急隊が到着し、田中がストレッチャーで運ばれていく。
ようやく静寂を取り戻したホームで、茂は乱れたネクタイを整えようとしたが、指先がまだ小さく震えていた。
「……失礼した。部下が迷惑をかけた。君の迅速な対応には、感謝する」
茂は最大限の「礼儀」で頭を下げた。だがタカシは、鼻の頭をボリボリと掻きながら、呆れたように笑った。
「おじさんさ。……“ちゃんとしなきゃ”って顔、しすぎんだよ」
茂が息を呑む。
「そんな顔して隣にいられたら、苦しい奴は余計に息ができなくなるぞ。俺はいつもそうしてるけどさ、ミサキが怒ってるときに俺が『冷静になれ』なんて言ったら、火に油を注ぐだけっすもん。……まずは一緒にパニくって、一緒に汗かいてやんねぇと」
その言葉は、かつてミノリを追い詰めていた自分自身へ向けられた刃のようだった。
ちゃんとしなさい。迷惑をかけるな。弱音を吐くな。
自分がミノリに与えていたのは「愛情」という名の、息の仕方を忘れさせる「呪縛」だったのではないか。
タカシは「じゃ、焼きそば冷めるんで!!」と、またがさつにコンビニ袋を揺らして去っていく。
不格好で、がさつで、けれど圧倒的に熱い親切。
茂は立ち尽した。自分が守ってきた「正しさ」よりも、あの男の「男気」の方が、ずっと誰かの命を救っていたことに気づかされて。
不格好に、でも圧倒的な感情の熱量で誰かの壁を打ち破る、タカシの熱気。その熱は、茂の頑なな胸の奥を、初めて強引に突き崩したのだった。




