9話前編:『「ごめんなさい」じゃなくて、「ありがとう」』
バケツをひっくり返したような、唐突な夕方の豪雨だった。
古い商店街のアーケードは、トタンの屋根を激しく叩く雨音で満たされ、すれ違う人々は誰もが肩をすくめて足早に通り過ぎていく。
「いやマジでバグだろこの雨! 傘の意味ねえって!」
タカシは両腕に溢れんばかりのスーパーの袋を抱え、濡れた前髪を激しく振り払った。袋の中からは、ネギの頭や特売の肉のパックが覗いている。サトシのアパートでの飯の買い出し帰りだった。
「お前が余計なもんまでカゴに入れるから遅くなったんだろ」
サトシは呆れたように小さくため息をつき、一本のビニール傘をタカシの頭上へ傾けながら、ポケットに手を突っ込んで並んで歩いていた。
その時、タカシの視線がアーケードの切れ目、シャッターの下りた時計屋の隅でピタリと止まった。
「……おいサトシさん。あの子、ヤバくね?」
タカシの指さす先、地べたに直接座り込むようにして、制服姿の女子高生が小さく丸まっていた。
長い黒髪も、ネイビーのブレザーも、激しい雨の跳ね返りでびしょ濡れになっている。何より、青白い顔をして、苦しそうにぎゅっと目を瞑っていた。
「……熱ある顔してるな」
サトシが呟く。その言葉が終わるより早く、タカシの身体は弾かれたように動いていた。
「おい! 大張夫か!? 意識あるか!? 救急車か!? 家どこだよ!」
タカシは腕の買い物袋を地面にドサッと放り出し、距離感ゼロで女子高生の目の前にしゃがみ込んだ。あまりの勢いとデカい声に、女子高生はビクッと肩を震わせ、怯えた瞳でタカシを見上げる。
「ちょ、タカシ、お前は一回黙れ」
後ろから追いついたサトシが、自然な動作でタカシの襟元を掴んで後ろに押し退けた。そして、女子高生の目線に合わせるように、ゆっくりとその場に腰を落とす。
「ごめんね、コイツうるさくて。体調悪いの? どこか痛む?」
低く、落ち着いたサトシの声に、女子高生の強張っていた肩からわずかに力が抜けた。彼女は小さく唇を震わせながら、消え入りそうな声で答えた。
「……ひとみ、です。ちょっと……目眩がして……」
雨宿りを兼ねて、サトシは自分の上着をヒトミの肩にかけ、タカシが荷物をごっそり抱え直す。近くにある商店街の古い診療所へ移動する道すがら、ヒトミはぽつりぽつりと、申し訳なさそうに事情を話してくれた。
ヒトミは母子家庭で、母親は夜勤の看護師。学校では周囲と馴染めず、少し孤立気味だった。今日は昼から保健室で休んでいたが、母親に「余計な心配をかけたくない」という一心で、無理をして早退届を出したのだという。しかし、帰る途中でこの豪雨に遭い、極度の貧血と発熱で動けなくなってしまった。
「なんだよそれ! 迷惑かけりゃいいだろ別に! そういう時くらい誰かに頼れよ!」
横を歩くタカシが、我慢できずに熱い声を上げる。真っ直ぐで、優しいけれど、今のヒトミには少しだけその熱量が重かった。ヒトミはまた「すみません……」と俯いてしまう。
「あ、気にしなくていいよ」
サトシが歩きながら、ヒトミを安心させるようにふっと笑った。
「この人ね、誰かに頼られると自分がヒーローになったみたいで喜ぶタイプだから。今ちょっとイベント発生してテンション上がってるだけ。だから、お代はタカシの自己満足で支払い完了」
「言い方ァ!! 俺は純粋な善意で動いてんだよサトシさん!」
ギャーギャーと騒ぐタカシの姿に、ヒトミの凍りついていた顔にほんの少しだけ、おかしそうな緩みが生まれた。サトシは相手が「助けられて申し訳ない」という罪悪感を持たないように、絶妙にその場の空気を軽く、平らに整えていく。
「ほら、着いたぞ」
サトシが古びた押し戸を開ける。そこは、文字が半分剥げかけた『山口診療所』の待合室だった。
「あら、サトシ。今日は大型犬も一緒なの?」
受付の奥から顔を出したのは、白衣を羽織った綾子先生だった。髪を後ろで無造作にまとめ、疲れた大人を何人も診てきたような、酸いも甘いも噛み分けた大人の目をしている。
サトシとは昔からの顔なじみのようだが、隣のタカシを見るのは初めてのようだった。
「誰が大型犬ですか! 人間です、タカシです!」
「はいはい、元気ね。……そっちの子は?」
綾子先生の目が、瞬時に医師のものに変わる。サトシが「駅前で倒れてて」と告げると、綾子先生はヒトミの額に優しく手を当てた。
「ずいぶん無理しちゃったわね。奥のベッド、空いてるから。サトシ、その子を支えて連れてって」
診察室の奥へとヒトミが消えていく。残された待合室で、サトシは備え付けの雑誌を静かにめくり始めた。
一方のタカシは、ベンチに座って落ち着きなく足を貧乏ゆすりさせていたが、ふと、隣の席で母親の診察を待っていた4歳くらいの男の子と目が合った。
「……なんだ、ボウズ。やるか?」
タカシが不器用に顔をしかめて見せると、男の子はキャッキャと声を上げて喜び、タカシの膝に絵本を押し付けてきた。
「あー、読むの? 俺、字ぃ読むの苦手なんだけどな。『むかしむかし、あるところに……』」
気がつけば、待合室にはタカシの妙に感情のこもった絵本の読み聞かせが響き、男の子の母親や受付の看護師も、その微笑ましい光景に思わず口元を緩めていた。初めて来た場所のはずなのに、タカシの持つ妙に境界線のない空気が、殺風景な診療所の待合室をリビングルームのような温かさに塗り替え、サトシがそれを静かに見守っている。
しばらくして、綾子先生が診察室から出てきた。
「ただの風邪気味と、ひどい疲労ね。点滴打って休ませてるわ」
綾子先生はサトシの隣に腰掛け、小さくため息をついた。
「でもあの子、身体じゃなくて、心が限界近かったわね。誰も頼れないって顔してた」
「……みたいですね」
サトシは静かに窓の外の雨を見つめた。「助けてって言うの、下手くそな奴っていますから」
1時間後。
山口診療所の扉が激しく開き、肩を大きく上下させた女性が飛び込んできた。ヒトミの母親だった。仕事を無理やり抜けてきたのだろう、まだ職場のナース服のままだった。
「ひとみ! ひとみは……っ!」
ベッドから起き上がったヒトミの姿を見るなり、母親は駆け寄り、その細い肩を抱きしめた。
「ごめなさい、ごめんなさい……お母さん、夜勤だからって、あなたに無理させて……っ。お騒がせして、本当にご迷惑をおかけしました……っ」
母親はサトシたちや綾子先生に向かって、何度も何度も必死に頭を下げた。「迷惑」という言葉を盾にして、自分たちの殻にまた閉じこもろうとするように。
だが、その母親の背中を見つめていたヒトミの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
「……お母さん」
「ひとみ……?」
「ごめんなさい、じゃなくて……」
ヒトミはサトシと、絵本を握りしめたままのタカシの顔を順番に見て、それから母親の服をぎゅっと握り直した。
「……雨の中、迎えに来てくれて、ありがとう」
いつもなら「迷惑かけてごめんなさい」と引きこもってしまう少女が、初めて、自分の弱さを受け入れてくれた母親に「ありがとう」と言えた瞬間だった。
母親はハッとしたように目を見張り、それから、今度は本当に嬉そうに娘を強く抱きしめた。
「……うん。お家に帰ろうね、ひとみ」
夜の8時。
雨は少しずつ小降りになり、商店街の屋根を叩く音も静かになっていた。
買い出しの袋を再び両手に下げたタカシが、アスファルトの水たまりを蹴りながら歩く。
「いやー、マジで心配したわぁ……。でも、お母さん来てくれて良かったな!」
「お前が一番騒がしくて、あの子の心拍数上げてたけどな」
「なんだよそれ! 俺はいつだって命がけの全力投球んだよ!」
二人のいつもの口喧嘩が、夜の商店街に響いては消えていく。
山口診療所の入り口。
看板の電気を消した綾子先生は、静かに遠ざかっていく二人の背中を、ただじっと見つめていた。
サトシの、誰の心にもスッと逃げ道を作るような静かな佇まい。
タカシの、どんな頑固な心の壁もこじ開けてしまうような不格好な熱量。
「……あの子たち、本当に困った二人組ね」
綾子先生は小さく笑い、静かに押し戸を閉めた。




