8話後編 :『まさかの二周目突入!? 商店街を揺るがす泥沼チェイス』
ミサキは、エコバッグを片手にスーパーからの帰り道だった。
商店街手前の交差点で、買い忘れたものがないかを考えながら、ぼんやりと赤信号を待っていた、その時である。
向こうの角から、猛烈な風圧を巻き起こしながらこちらへ向かって爆走してくる見慣れた巨体があった。タカシだ。
「あ、タカシ――」
声をかけようとしたミサキの視線に、タカシの必死すぎる――まるでこの世の終わりを見ているかのような形相が飛び込んでくる。タカシはミサキの姿を認めると、すれ違いざまに喉を千切らんばかりに絶叫した。
「ミサキ!!! 逃げろお前も巻き込まれるぞ!!!」
「えっ!? は? 何に――」
「いいから走れええええ!!!」
何からだよ、と言いかけるよりも早く、タカシは大型トラックのような風を置き去りにして通り過ぎていった。
呆然とするミサキの視界に、すぐ後ろから迫るもう一つの影が映る。全身黒ずくめの、およそ堅気には見えない鋭い眼光の男だ。
「待てって言ってんだろ兄ちゃん!! 止まれ!!」
「だから嫌だって言ってんだろ!! 警察呼ぶぞコラアア!!」
その男もまた、路傍に佇むミサキのことなど目にも入らない様子で、タカシの背中だけをロックオンして猛スピードで通り過ぎていった。
赤信号の交差点に、大根を一本突き出させたエコバッグを持ってぽつんと一人取り残されたミサキは、ゆっくりと天を仰いだ。
「……何だったの、今の。バカなの?」
それから十分後。
ミサキが商店街の中に入ると、案の定、あちこちの店先で主婦層や親父たちが井戸端会議を開いていた。噂の尾ひれは、街を駆け巡るうちに恐ろしいスピードで肥大化していた。
「聞いたか? タカシの奴、闇バイトの裏切り者として国際組織のトップヒットマンに追われてるらしいぞ」
「いや、あれは絶対高利貸しだよ。あいつの腕時計、急にゴツいのに変わってたし」
「私は昔手酷く振った元カノの生霊か何かかと思ったわ。ほら、あの追う方の形相、怨念が籠もってたじゃない?」
映画の見すぎのような国際犯罪組織説やオカルト説まで飛び出す始末に、ミサキは額を押さえて盛大な溜め息をついた。
「はぁ……。みんな勝手なことばっかり言って。どうせタカシのことだから、絶対にくだらない理由でしょ。お腹空いたから早く帰ろ……」
ミサキが歩き出そうとした、まさにその時だった。
再び、遠くのアーケードの奥から、聞き覚えのあるドタドタという凄まじい足音と怒鳴り声が天井に木霊した。
「だから一回話を聞けってえええ!!」
「聞いたら俺の人生が終わるんだよクソったれえええ!!」
「嘘でしょ……」
ミサキが引き攣った顔で振り返ると、タカシと黒ずくめの男が、まさかの『二周目』に突入して商店街を再び猛然と横切っていった。タカシの体力だけは無駄に無尽蔵にあるせいで、チェイスは完全に泥沼化しているようだった。
夜。すっかり街が静まり返り、全ての事件(?)が解決した後。
タカシの部屋のコタツで、ミサキは魂が抜けたように疲れ果てているタカシから、事の真相を聞かされていた。
「……つまり、何?」
ミサキはズキズキと痛むこめかみを指で押さえながら、確認するように言った。
「おう」とタカシが小さくなって頷く。
「タカシが、落とし物の財布を拾って、困ってるお母さんのために持ち主を探し回ってたら」
「おう」
「その前に財布を拾ってた黒ずくめの半ぐれ風の人が、『子どものいる女の人の財布だから、俺みたいな奴からじゃなくて、間接的にでも綺麗に返してくれ』って、タカシに託そうとして声をかけてきた?」
「おう。でもあの顔だぞ? 完全にカツアゲか、あるいはヤバい薬の裏取引の現場だと思ったんだよ」
「で、タカシが勝手に犯罪者だと思い込んで全力で逃げて、向こうは向こうで『なんで逃げるんだよ!』って意地になって追いかけて、30分間この街を爆走してたの?」
「おう。……俺も今、コタツに入って冷静になって思い返すと、なんであんなに走ったのか全然分かんねぇ」
部屋に、凍りつくような深い沈黙が流れた。
ミサキはゆっくりと天井を見上げ、深く、深ーく溜め込んでいた息を吐き出した。
「……バカじゃないの?」
「……俺も今、心底そう思ってる」
「私の人生の中で、一番意味の分からない事件なんだけど」
「俺が一番分かってねぇよ。明日、絶対に両足が筋肉痛だわ」
タカシが情けない顔で太い太ももをさするのを見ていたら、ミサキの胸の奥から、じわじわと何かが込み上げてきた。
最初は小さな鼻笑いだった。それが次第に抑えきれなくなり、ついにはクッションに顔を埋めて、お腹を抱えて床を叩きながら笑い転げた。
「アハハハハ! 二周目! あんたたち、あの狭い商店街を二周も全力で駆け抜けてたのよ!? バカすぎる!」
「うるせぇな! 向こうの目つき、マジで網膜に焼き付くくらいヤバかったんだって! ……ぶはっ、いや、でも確かに、あの直線のチェイスは我ながらシュールだったな……」
釣られたようにタカシもクシャリと破顔し、二人のバカげた笑い声が夜の部屋に響き渡った。
結局その日、商店街の歴史記録には「感動の財布返却劇」ではなく、「タカシ大追跡ミステリー」として、末代までの語り草になることが決定した。
その頃。
駅前で無事に財布を受け取った母親は、自分の小さな財布ひとつのために、商店街の不器用な男たちが30分かけて命がけの壮大な大騒ぎを演じていたことなど、もちろん知る由もなかった。




