8話前編:『半分くらいは、面白そうだから放っておいた』
夕暮れ間近。商店街の端にある小さな惣菜屋の店先で、アカネは揚げたてのコロッケをバットに並べていた。パチパチと油の爆ぜる心地よい音と、ソースの香ばしい匂いが午後の柔らかな空気に満ちていく。
その平和な静寂を木っ端微塵にぶち破ったのは、遠くから響いてきた、地鳴りのような男の咆哮だった。
「うおおお、おおお、おおおおおおお!!!」
何事かと思ってアカネがガタッと顔を上げる。
すると、商店街の入り口から、凄まじい形相で全力疾走してくる大男の姿が見えた。タカシだ。スウェットの裾を派手になびかせ、地面を蹴る重低音がここまで響いてきそうな勢いである。
そして次の瞬間、アカネはさらに目を丸くした。
タカシのすぐ後ろから、これまた凄まじい気迫で、全身黒ずくめの見知らぬ男が猛然と追いかけてくるのが見えたからだ。
「待てって!! 兄ちゃん!! 話を聞けえええ!!」
「嫌だああああ!! 来んじゃねぇえええええ!!」
二人は周囲の看板をガタガタと揺らすほどの風圧を残しながら、商店街のメイン通りを一直線に横断していった。
アカネはトングでコロッケを挟んだまま、完全に凝固した。
「……え? 何、何あれ」
ぽつりと呟いた彼女の横を、逃げる大男と追う男の泥臭い絶叫だけが、駅前の方向へと激しくフェードアウトしていった。
それから数分後。
何が起きたのか全く分からない商店街は、お祭り騒ぎのような妙な盛り上がりを見せていた。あちこちの店先から野次馬たちが身を乗り出している。
「おい、今の見たか? タカシの奴、ついにどっかのヤクザのガサ入れでも喰らったか?」
八百屋の親父がエプロンで手を拭きながら、不謹慎そうに笑う。
「いやいや、あの逃げ方は借金取りでしょ。あの子、またなんか変な車パーツでも分割で買ったんじゃないの?」
クリーニング屋のババアも口を挟む。
「いや、俺は新興宗教のハードな勧誘だと思うね。あの追う方の目のマジさは本物だ。魂かかってたぞ」
「でも、逃げてるのがあのタカシだからなぁ……。どうせ自業自得な気がしてならねぇよ」
誰も事情を知らない。知る由もない。
ただ、『タカシが涙目で必死に逃げている』、そして『追う男も、何が何でも捕まえるという執念で必死に追っている』という、あまりにも絵面が強すぎる事実だけが、商店街の大人たちの退屈な午後の脳みそを激しく刺激していた。
そこへ、首にクタクタのタオルを巻いたサトシが、あくびをしながら気怠そうに歩いてやってきた。
「おい、外がやけに騒がしいな。来てけろの源蔵大将がまた客とハジけてんのか?」
「あ、サトシさん!」
アカネは慌てて、さっき目撃した「全力の追跡劇」を身振り手振りを交えて説明した。
サトシは二人が消えていった駅前の方向をじっと見つめ、ポケットから煙草を取り出して咥えた。
「……たぶん、ただの誤解だな」
「えっ!? 見てもいないのに分かるんですか!?」
アカネが驚いて聞き返すと、サトシは静かにライターの火を点け、紫煙をふぅっと吐き出しながら淡々と言った。
「本気で命を狙われて追われてる奴は、あんな遮二無二真っ直ぐ走らない。普通の人間なら障害物を利用するか、もっと視界の悪い裏路地に潜り込む。あいつらの走りは、ただの綺麗な直線レースだ。殺気じゃなくて覇気のぶつかり合いだな」
「どんな判断基準ですか。元プロの逃走犯みたいな物騒なこと言わないでください」
夕方。オレンジ色の鮮やかな夕日が沈み、商店街のアーケードに長い影が差し込む頃、ようやく街に静けさが戻ってきた。
駅前の広場の方を遠目に探ると、そこには両膝に手を突いて、ベロを出した犬のように肩で激しく息をしているタカシの姿があった。
その目の前には、小さな子どもを連れた若い母親が立っている。タカシが震える手で小さな革財布を手渡すと、その母親は何度も何度も頭を下げ、涙ぐみながらお礼を言っていた。
「あ、なんか解決したみたいですね」
惣菜屋の前からその様子を見ていたアカネが、ホッとしたように胸に手を当てて息を吐いた。
隣で壁に背を預けていたサトシは、携帯灰皿にトントンと灰を落としながら、小さく鼻で笑った。
「最初から、そんなこったろうと思ったよ」
「えー? 本当ですか? 絶対嘘だ」
アカネがジト目で睨みつけると、サトシは再び白い煙を空へ逃がしながらニヤリと笑った。
「いや。半分くらいは、この後何が起きるか面白そうだから放っておいた」
「……サトシさん、本当に最低です」
アカネは盛大に呆れて、冷めかけたコロッケをプラスチックパックに詰め直した。あの必死なチェイスの裏に、どれほどくだらないボタンの掛け違いがあったのか、この時の彼女はまだ、想像すらしていなかった。




