7話後編:『ヤカラの後輩、自販機の隙間で黒い財布を拾う』
タカシが駅前で叫び声を上げる数分前。
駅裏の自販機の隙間で、ヤカラの後輩のレンはぽつんと落ちていた黒いレザーの財布を見つけていた。
「先輩、見てくださいよこれ。ラッキーじゃん、結構入ってますよ」
後輩がヘラヘラ笑いながら札を抜き取ろうとした瞬間、先輩ヤカラのカズマが横からその手をパシィンと叩き、財布をひったくった。
「バカ、待て。中身見ろ」
中に入っていたのは、数枚の千円札と、何枚もの小さな子供の診察券。そして、キャラクターもののシールが貼られた、くしゃくしゃの家族写真だった。
一目でわかる。決して裕福ではないけれど、必死に子供を育てている若い母親の財布だ。
先輩ヤカラの脳裏に、かつて自分たちのために必死に頭を下げてくれた、自分の母親の姿が嫌でもダブってしまった。
「……チッ。返すぞ、これ」
「えー!? マジすか先輩、いいんすか?」
「お前な、こんなのネコババしたら一生寝覚めが悪ぃだろ。……でも、今さら俺らが警察に届けたら、お前が自販機の前で財布弄ってた防犯カメラの映像で、余計な疑いかけられるかもしんねえ」
警察に行けば、自分たちの見た目のせいで根掘り葉掘り訊かれ、最悪、後輩に要らん前科がつくリスクすらある。
ヤカラの頭で考え抜いた結果、導き出した結論は一つだった。
――匿名で、でも確実に、今すぐ持ち主に返す。
「どうすりゃいいんすか?」
「誰か、絶対に金をネコババしねえ、お節介なバカに託すしか……」
そう呟きながら路地裏を出た瞬間、正面から「財布ーっ!」と大声を上げながら、必死の形相でゴミ箱の裏を漁っている男が見えた。
いつぞや、夜の街で自分たちに向かって不格好に正義感を振りかざしてきた、あのクソ熱苦しいバカ兄ちゃん――タカシだった。
「あッ! おい、お前!」
カズマが財布を掲げて声をかけた、まさにその瞬間だった。
タカシは「悪い! 今取り込み中だからまた後でな!」と叫ぶなり、脱兎のごとく逃げ出した。
「は!? あいつ何勘違いして逃げてんだよ! 待てコラ! 逃げんな!」
ヤカラたちにしてみれば、ただ財布を渡したいだけだった。
しかし、タカシの逃げ足は尋常じゃなかった。商店街のアーケードをすり抜け、自転車置き場を跳び越え、本気で命の危機を感じているかのような爆走を見せる。
「おい待てって! 話を聞け!」
「話すことなんかねえわ!」
前を走るタカシが必死に叫ぶ。
「いや、大ありだわ!」とカズマは心の中でツッコミを入れながら、意地になって追いかけた。ここで見失ったら、あの財布は永遠に持ち主に返らない。
商店街を抜け、住宅街の細い路地へ。タカシが曲がった先を見て、カズマは「あ、終わった」と思った。そこは、高いコンクリート壁に阻まれた逃げ場のない袋小路だった。
タカシが勢いよく振り返り、壁に背を貼ってガチガチにファイティングポーズを構える。悲壮感漂う顔をしていた。
(どんだけビビってんだよ、この兄ちゃん……)
カズマはドカドカと荒い足取りで距離を詰め、タカシの目の前でピタリと足を止めた。
タカシがギュッと目を瞑り、殴られるのを覚悟して奥歯を噛み締める。
カズマは呆れたように大きなため息を突き、ポケットから黒いレザーの財布を取り出した。
「殴りに来たんじゃねえよ、バカ。……ほらよ」
ぽい、とタカシの胸元に財布を放り投げる。
「え……?」
財布をキャッチしたタカシが、信じられないものを見るような目で目を開けた。
「さっき後輩がそこらへんで拾ったんだよ。中に子供の診察券とか入っててさ、持ち主が困ってんだろ。警察に届けると色々と面倒だから、街中で一番お節介そうなオマエに託そうと思ったら……勝手に逃げやがって。おかげで死ぬほど走らされたわ」
カズマが頭をガシガシと掻きながら文句を言うと、タカシは財布を開け、中身を確認して、言葉を失ったように固まった。
「お前ら……わざわざこれを届けるために、俺を追いかけて……」
「勘違いすんなよ。俺らはただ、寝覚めが悪いのが嫌だっただけだ。……おいレン、帰るぞ」
「うっす。お疲れ様でしたー」
カズマはフイッと顔を背け、後輩の首を引っ張って路地裏の闇へと戻っていこうとする。
その時、後ろからタカシの、バカみたいにデカくて熱い声が響いた。
「ありがとな!! お前ら、マジでサンキューな!!」
「うるせえ、さっさと行け!」
カズマは振り返りもせず、片手を気だるげに上げてヒラヒラと振った。
ガラは悪いし、人助けなんてキャラじゃない。だけど、自分たちの不器用なやり方で、ひとつの家族を救えたかもしれないと思うと、胸の奥が少しだけスーッとした。
「先輩、ウチらちょっと格好良かったすね」
「バカ言え、足パンパンだわ。ジュース奢れ」
夕暮れの街に、二人の低い笑い声が溶けていく。
その直後、背後から駅前へと向かって今日一番の爆走を始めるタカシの足音が、遠くで力強く響き渡った。
時計の針は5時55分。駅前広場のベンチで泣いていた母親の元へ、泥だらけのタカシが滑り込み、無事に黒い財布が手渡される。
「俺が見つけたわけじゃなくてさ、街のヤカラに、すげえ格好いい奴らがいてさ」と鼻を掻くタカシ。
サトシへの憧れから始まったタカシのエデンは、本人さえ気づかないうちに、この街の隅々へと広がり、静かに浸透していく。




