6話後編:『私は、最初のドミノをちょっとだけ指で倒しただけ――深夜、ジュンの乗った軽自動車が夜を走る理由』
時計の針を、その日の昼下がりへと数時間巻き戻す。
まだ夜の静寂が訪れる前の『山口診療所』に、マナの母親が体調管理の薬を受け取りにきていた。
彼女は診察室で、ぽつりとお医者さんである綾子先生に、本当に申し訳なさそうに胸の内を漏らしたのだ。
「今日、マナの十歳の誕生日なんですけど……どうしても外せない夜勤が入っちゃって。あの子、『平気だよ、お姉ちゃんだもん』って笑うから、余計に親として切なくて……」
母親が診療所の引き戸を出て行った直後、綾子先生はすぐに白衣からスマホを取り出し、ジュンへ一通のメッセージを送った。
『今日マナちゃん誕生日みたい。お母さん夜勤だって』
メッセージを読んだジュンは、即座に動いた。
彼女がしたことは、ただその「事実」を、商店街の不器用な大人たちのライングループに、ぽんと落としただけだった。
まず、源蔵大将のスマホへ。
『大将、マナちゃん今日誕生日らしいよ』
画面を見た大将は、「はぁ? ガキの誕生日ぃ? 忙しい時になにが誕生日だコラ」と厨房で盛大に舌打ちをしながらも、スマホを放り出すなり独断で巨大なタッパーを取り出し、切り分けたばかりの特製チャーシューをこれでもかと詰め込み始めていた。
次に、惣菜屋のアカネへ。
『アカネ、今日ちょっとマナちゃん見てあげて』
それだけで全ての意図を察したアカネは、「じゃあ買い物付き合って」と、放課後の商店街を一人で歩くマナの手を優しく引いた。
最後に、タカシへ。
『タカシ、今商店街いる?』
『いるぞ。コロッケ食ってる』と即答してきたタカシに、ジュンが『今日マナちゃんの誕生日なんだって』とだけ伝えると、彼は「マジかよ!」と勝手にパニックになり、持っていたコロッケを口に放り込んで、自分の財布を握りしめコンビニのケーキ棚へと猛ダッシュしていった。
さらにジュンは、アパートの壁に掛けられた車のキーを取った。
夜、マナの母親の勤務先である隣町の施設の前には、ジュンの乗った軽自動車が静かにハザードランプを点滅させて停まっていた。
仕事を終え、ボロボロになりながら駅へ急ごうと走る母親の前に、ジュンは車の窓をすっと下げて声をかけた。
「マナちゃんのお母さん、乗って。今から走れば、ギリギリ誕生日会に間に合うから」
「え……? ジュンさん、どうして……」
「いいから、早く。シートベルト締めてね」
アパートの前で母親を降ろし、二人が街灯の下で抱き合う姿を遠くの車内から見届けた後、ジュンはゆっくりとアパートの階段を上がった。
引き戸を開けると、部屋のソファでは、サトシがいつも通り煙草を燻らせながら、静かに彼女の帰りを待っていた。
「全部仕組んだのか?」
サトシが携帯灰皿にトントンと灰を落とし、この街の優しい大騒ぎを見守る側として、ぶっきらぼうに尋ねる。
ジュンはトレンチコートを脱ぎ、壁のハンガーに掛けながら、ふふっと悪戯っぽく笑って首を横に振った。
「違うよ。私は、最初のドミノをちょっとだけ指で倒しただけ」
彼女は愛おしそうに、窓の外の賑やかな広場の灯りを見つめる。
「みんな、マナちゃんのためなら、言われなくても勝手に張り切る人たちだから」
その時、ジュンのスマホがポケットの中で静かに震えた。
画面を開くと、アカネから一通の写真が届いていた。
そこには、少し角の潰れた不格好なコンビニのホールケーキを前に、涙目で、でもこれ以上ないくらい幸せそうに笑う十歳のマナと、その隣でマナをきつく抱きしめて優しく微笑む母親の姿が写っていた。背景には、なぜかドヤ顔でピースしているタカシと、腕組みをしてそっぽを向いている大将の巨体も写り込んでいる。
ジュンは画面を見つめたまま、少しだけ目を細め、ぽつりと呟いた。
「……こういうので、いいんだよね」
サトシは何も言わなかった。ただ、ジュンのその少し誇らしげな、そして少しだけホッとしたような横顔を見つめながら、静かに、深く煙を吐き出した。
サトシのいるこの古いアパートだけでなく。
「ガキの誕生日」と悪態をつきながら勝手に極厚の肉を詰めた大将の厨房も、ただ情報をもらっただけで勝手にケーキを買いに走ったタカシの足跡も、そっと甘い飴玉を添える綾子の手も。
ジュンが倒した最初の小さなドミノは、商店街の至る所に隠されていた優しさを呼び覚まし、一つの大きな形へと変わっていく。
誰かが寂しさに震えそうな夜、街全体が、その子を包み込むための一つの温かな居場所になる。それこそが、この街の人々が知らず知らずのうちに作り上げている、もう一つの『エデン』の姿だった。
アパートの窓から漏れる二つの影の灯りが、今夜も街の片隅を、静かに、温かく満たしていた。




