12 闇より呼び戻す声
義経が抱えるものは、戦だけではありませんでした。
静は、これまで知らずにいられたこと、そして、知らないふりをしてきたことの重さに、はじめて向き合うことになります。
義経が京都にいたのは十日ほどで、すぐに捕虜を伴って鎌倉へ発った。一か月ほどで京都に戻ってきた義経は、疲れはてているように見えた。口数が少なくなり、物思いに沈む時間が長くなっていた。それは単に、戦が終わってしまった物足りなさとも思えなかった。
しかし義経は、悩みを決して静には打ち明けなかった。そして、静も、強いて訊こうとはしなかった。
「静といるときが一番心が安まる」
以前と同じように義経は言ったが、悩み事に心が支配されているのは明らかだった。その悩みがなんなのか、静には分からないし、自分にできることはおそらくないだろう。
けれど、何もしてあげられないにしても、義経が何を悩んでいるのかくらいは知りたいとは、思っていた。
静は、庭に花を摘みに出ていた。
義経は、相変わらず物思いに沈んでいるし、その原因を誰に訊けばいいのかもわからない。せめて、花でも飾って義経の心を慰めたい。そんなことで、義経の心が晴れるとは思えなかったが、今の静にはそれくらいしか考えつかなかったのだ。
その時、静は庭に一人の若者がいることに気づいた。
「あの人は……」
静は思い出した。
義経が鎌倉に発つ前に、一度だけ、静の小館に来たことがある。「月影」という名だと、義経に紹介された。壇ノ浦の戦のあとに、義経の郎等に加わったという。
静は、こっそりと月影の様子をうかがった。
本当に美しい若者だった。
背は、義経より少し高いくらい。外の郎等たちよりは低いが、ほっそりとした立ち姿は美しい。長い黒髪を、高く結い上げ、それが風になびくにまかせている姿は、花雪歌劇団の男役を思い出させる。
「白皙の美少年」というのは、こういう人のことを言うのだろうと静は思った。どこかはかなげなところがあり、それが「月影」という名にふさわしいものに思えた。
『あの人に、訊いてみようか?』
静は、突然そう思った。
義経の周りにいる郎等たちは、根はいい人たちばかりなのだろうが、一癖も二癖もある強面の者ばかりで、静には話しかけづらかった。しかも、今までほとんど話をしていない。今さら……という気がする。
だが、この人なら、義経の郎等になったばかりだから、その気遣いはない。
最初に会ったときにも感じたことだが、月影には、どこか七重に似た面影があり、初めて会ったような気がしなかった。
『思いきって、訊いてみよう』
静はそう決心し、月影に近づいた。
「静さま……」
静が声をかける前に、月影の方が気づいたようだった。
「花を摘んでらしたのですか」
月影は、静の手にした花を見て微笑んだ。その笑顔が、ますます七重を思い出させ、静を勇気づけた。
「教えていただきたいことがあるのです」
静は、単刀直入に言った。
「何でしょう?」
月影は居住まいを正した。
「義経さまは、何をあんなにお悩みなのでしょう?」
「ご存じないのですか?」
月影は、本当に驚いたようだった。
それは、当然だろう。義経は、毎晩静の小館で過ごしている。それなのに、その静が何も知らないとは、誰も考えつかないはずだ。
「何故、直接、御大将にお尋ねにならないのです?」
「義経さまは、『静は、戦や政事のことは知らないでいい』と、いつもおっしゃっています。『静といるときくらい、めんどうなことは忘れていたい』と。ですから、今までは何も訊きませんでしたし、知りたいとも思っていませんでした」
「どうして、今回は知りたいとお思いになったのです?」
「今回のご様子は、普通ではありません。あんなに苦しんでいらっしゃるのは、ただごとではない気がして……」
「わかりました。お話ししましょう」
月影は、そう言うと池を囲んでいる庭石の一つに腰を下ろした。長い話になるのだろうと、静も察して、月影の隣に座った。
「義経さまは、お兄さまの頼朝さまに勘当されてしまったのです」
月影は、そう説明してくれた。
「勘当……何故?」
「理由はいくつもあります。頼朝さまに断りなく、法皇さまから位をいただいたこと。戦のときに、軍奉行の梶原景時どのに逆らったこと。平氏の捕虜に親切すぎたこと」
「ずいぶんと、難しい状態のようですね」
月影はわかりやすく話してくれているつもりなのだろうが、静には今一つぴんとこなかった。
「理由は、いろいろあるように見えて、実はひとつだけなのかもしれません」
「ひとつ?」
「頼朝さまは、義経さまの力をおそれている」
「おそれている? 弟の義経さまを?」
「そう思います」
兄弟なのに、いったい、何を恐れることがあるのだろう? そんな疑問が顔に浮かんでいたのか、月影は詳しく話してくれた。
「義経さまは、稀に見る戦の天才です。その上、法皇さまや、京の公家たちにも評判がよい。その義経さまが、法皇さまを味方につけて、頼朝さまに反旗を翻せば……。鎌倉は危機に陥ります」
「ご兄弟で争うなんて……」
「めずらしいことではありません。今から三十年ほど前の保元の乱では、平氏も源氏も、親、兄弟までが敵味方に別れて戦ったのですから」
「……義経さまは、頼朝さまと戦うおつもりなのでしょうか?」
静の声は、震えていた。義経は、戦に生きる人。相手が実の兄でも、戦場に向かいたいと思うのだろうか?
「そんなお気持ちはないでしょう。ですから、今回も、頼朝さまにお会いできるように、いろいろと手をつくされたのです。それなのに、頼朝さまは会っても下さらなかった。御大将は、鎌倉に入ることさえ許していただけなかったのです」
「お気の毒に……」
静は、義経の心を思って胸が痛んだ。だが、その一方で、どこかほっとする気持ちもあった。
義経の悩みが「戦をしたい!」という思いなら、静には何もできない。けれども、それが、兄の誤解を解きたいというだけなら――。
「どうもありがとうございました。よく、わかりました」
静は庭石から立ち上がり、ていねいに頭を下げた。
「申しわけありませんが、私があなたに尋ねたことは、義経さまにはおっしゃらないでいて下さいますか?」
「心得ております」
月影は、立ち上がり、言った。
「私のような者でよければ、いつでもお声をおかけ下さい」
「ありがとうございます」
静はもう一度頭を下げ、小館に戻っていった。
静は、月影から聞いたことを義経には言わなかった。
義経自身が話したくなるまで待とう、と思っていた。一生話してくれないのなら、それでもよかった。自分が何も知らないことが、義経の心の安らぎになるのなら、知らないふりを演じ続けようと思った。
だが、頼朝の疑いは一向に晴れなかったらしい。
その心労から義経は食欲をなくし、日に日にやつれていった。
ある夜、静は義経のうなされる声で目がさめた。義経は、悪い夢でも見ているらしく、よく聞き取れないうわごとを言っていた。
額に玉のような汗をかいていたので、静はそれを拭こうとした。手を伸ばしてみて、そこが、燃えるように熱いことに気がついた。
「義経さま!」
静は叫んだが、義経の反応は、まるでなかった。
『お医者さまに見てもらわなくては……』
静は、身の回りの世話をするためにいる少女を起こした。
「すぐに、本館に行って、誰か御郎等に来てもらってちょうだい」
少女は、ねぼけまなこをこすりながら、不安げに、
「どなたをお呼びすればいいのでしょう?」
と訊いた。
「誰でも……」
と言いかけて、静は思いなおした。
「月影という人がいるから、その方に来てもらって」
少女が本館に向かうと、静はすぐに義経の側に戻った。
全身ひどい汗だったので、着物を替え、汗を拭いた。それだけのことをしても、義経は眠ったままで、いっこうに意識は戻ってこなかった。
月影は、すぐにやってきた。一目見て、義経の様子を察したのか、静に、
「医師を手配してきます」
と言い残して、本館に走っていった。
医師を呼ぶのは他の者にまかせたらしく、すぐに月影は戻ってきた。
「いつから?」
月影は言葉少なに訊いた。
「おやすみになる前は、特にお変わりはなかったのですが……」
静は唇をかみしめた。
義経の頬は落ち、腕もすっかり細くなってしまっている。鎌倉から戻ってからというもの、ろくに物を食べていない。静がどんなに義経の好物を用意しても、ほとんど箸をつけなかった。
夜も、よく眠れないらしい。遅くまで転々と寝返りをうっていたり、早朝、静が目覚めたときは、もう起き出して庭にいる――などということもしばしばだった。
「お身体にさわります」
と、静は何度となく言おうとした。しかし、言えなかった。
義経は、自分自身が望んでそうしているのではないのだ。義経本人も、どうしていいかわからないでいることを、静は十分すぎるくらいわかっていた。
いつ倒れても、不思議はない……そう思っていた矢先の出来事だった。
「おそらく、流行の風気と思われますが……」
やってきた医師は言った。
「それにしても、このおやつれようは……」
「ご心労が、重なっていましたゆえ」
静のかわりに、月影が答えてくれた。
「たちの悪い疫でなければよいが……。ともかく、お薬湯を」
医師が差しだした薬湯を静は受け取り、義経の口に運んだ。しかし、義経にそれを飲む力はなく、薬は喉の方へ流れるばかりだった。
静は、薬を自分の口に含み、義経の喉に流し込んだ。
月影の視線と、医師が小さな声を上げるのを感じたが、ためらいはなかった。
薬湯は、静の口を通して、何度となく義経の喉に流し込まれた。しかし、義経の反応は、ないままだった。
夜が明け、次の日の夕方になっても、義経の意識は戻らなかった。
「静さま」
月影が、声をかけた。
「私が、見ておりますから、少しお休み下さい」
「いいえ」
静は、義経から目をはなさずに、答えた。
「このままでは、静さままで倒れてしまいます。お食事も、おとりになっていないと、ここの手伝いの娘も、心配しております」
静は、ゆっくりと振り返り言った。
「お側にいさせて下さい。義経さまが、お食事もとらず、お休みにもなれないことを知っていながら、静は何もできなかった。せめて……お側にいたいのです」
「それは、私どもとて同じです。御大将が苦しんでいらっしゃるのを知りながら、何も出来なかった」
そう言ったのは月影だけではなかった。何人もの郎等たちが、次々と訪れ、同じことを言った。
そのたびに、静は、
「お側にいさせて下さい」
と言い、義経のそばを離れようとはしなかった。
けれども、訪れる郎等一人一人が、心の底から義経を心配しているのはわかった。それと同じように、静のことも心配してくれることも。それに感謝はしても、一人一人に礼を言う心のゆとりは、今の静にはなかった。
三日目の明け方のことだった。不眠不休で看病していた静が、ほんの少しまどろんだときだった。
自分の髪を撫でる誰かの手を感じ、静ははっと目がさめた。
そこには、弱々しい笑みを浮かべる義経の顔があった。
「義経さま!」
「心配をかけたな」
涙で言葉の出ない静の頬を手をふれて、義経は言った。
「私は、何日くらい眠っていたのだ?」
「三日です」
「そうか……おそろしい夢を見ていた。だが、その夢の中で、静の声が聞こえた。闇の底に引きずり込まれそうになったとき、静の声で、呼び戻された」
「義経さま」
静は、義経の額に手をあてた。熱はすっかりひいている。もう大丈夫だろう。
静は立ち上がった。
「どこへ?」
義経は不安げに尋ねた。
「御郎等のみなさまにお知らせしなければ……」
静は、手伝いの少女に月影を呼びに行かせた。
まだしばらく、義経と二人だけでいたいという気持ちもある。しかし、あれほど心配していた郎等たちを、一刻も早く安心させたいという気持ちの方が強かった。
義経を思う気持ちは、彼らも、静も、同じなのだから。
義経の姿を見た月影は、うれし涙を浮かべた。そして、
「皆に知らせてまいります」
と言い、本館へ走っていった。
次々と郎等たちが訪れるものと、静は待っていたが、その後、誰も来ない。
不審に思って、また少女を使いに出すと、月影だけがやってきて言った。
「皆、うれし涙にくれております。ただ、御大将を疲れさせてはいけませんので、お会いするのは控えようと。使いを出しましたので、医師は間もなく来ると思います」
静は、月影の深い配慮に感謝した。そして、この人が義経の郎等に加わってくれて、本当によかったと改めて思った。
訪れた医師は、義経の回復を保証してくれた。おかげで、静は三日ぶりに眠ることができた。もっとも、まだ心配で、夜中に何度も起きてしまったが、義経はいつも、規則正しい寝息で眠っていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この回では、静が「守られる存在」から、「寄り添い、支える存在」へと少しだけ変わっています。
次回から、物語は静と義経を、さらに避けられない運命へと導いていきます。




