白虎の帝都、銀嶺府を歩く
第一妃・蘭と書物庫で話をしてから、数日が経った。
その日の朝。
明羽は緋乃とともに、白虎皇城の正門へ向かって歩いていた。
後ろには、客殿で明羽の世話を任されている白虎の女官が二人。さらに、外出時の護衛を任された四人の兵が付き従っている。
「ようやくですね」
緋乃が言った。
「何がです?」
「銀嶺府へ出られるのが、です」
「数日前に決めたばかりではありませんか」
「それならば、決めた翌日に出ればよかったのでは?」
「読みかけの絵巻物がありましたので」
「その次の日にも?」
「……別の絵巻物を読み始めてしまいまして」
「やはりそうでしたか」
緋乃は納得したように頷いた。
「ですが、今日はきちんと街を見ます」
「それは何よりでございます」
「面白いものがあれば覚えて帰ります」
「はい」
「あとで絵巻物と見比べます」
「そこまで含めての街歩きなのですね」
「もちろんです」
明羽は当然のように答えた。
数日前、蘭から言われたことはきちんと覚えている。
――書物に描かれている白虎だけではなくて、今ここで暮らしている人たちを見るのも面白いと思うわ。
確かに、その通りだと思った。
白虎へ来てから、明羽が見てきた場所のほとんどは皇城の中だ。書物庫では様々な土地や文化について知ることができたが、それだけで白虎という国を知ったことにはならない。
だから今日は、自分の目で銀嶺府を見ることにしたのだ。
◇
白虎皇城の正門を出た明羽は、目の前に広がる景色を見渡した。
「わあ……」
思わず声が漏れる。
白虎の帝都、銀嶺府。
皇城から延びる大路の両側には、灰白色の石を用いた建物が並んでいる。その軒先には店ごとの旗や看板が掲げられ、荷車や人々が絶え間なく行き交っていた。
威勢よく客を呼び込む商人。
大きな籠を背負って歩く男。
店先で品物を選ぶ女性たち。
武具を扱う店の前では、職人らしい男たちが剣を手に何やら話し込んでいる。
皇城へ来た日にも馬車の中から見てはいたが、自分の足で歩くとまるで違って見えた。
「思っていたより、ずっと賑やかですね」
「帝都ですから」
緋乃が答える。
大路へ足を踏み入れると、周囲の人々が次々とこちらへ目を向けた。
「あの方は……」
「朱雀の皇女じゃないか?」
「人質として来たという……」
そんな囁きが聞こえてくる。
明羽が白虎へやって来たことは、すでに銀嶺府の民にも知られているらしい。
物珍しそうに眺める者もいれば、明羽の顔を見て思わず足を止める者もいる。
一方で、表情を硬くする者もいた。
白虎と朱雀は、つい先頃まで敵国同士だった。
条約が結ばれたからといって、人々の中に残る感情まで一日で変わるわけではない。
明羽も、それくらいは分かっている。
「殿下」
「何です?」
「気になさいますか?」
緋乃の視線の先では、明羽を警戒するように見ていた男が慌てて顔を逸らしていた。
「仕方ありません」
明羽は答えた。
「私も白虎へ来る前は、色々と勝手に想像していましたから」
「そうでございましたね」
「ですから、あちらの方々にも時間が必要なのでしょう」
明羽が歩き出す。
その直後だった。
「緋乃」
「はい」
「あちらは何でしょう?」
先ほどまでの話から一転、明羽の視線は大路の脇にある露店へ向かっていた。
平たい鉄板の上で薄い生地が焼かれている。
店主がそこへ刻んだ肉と野菜を載せ、香辛料を振りかけて器用に包んでいく。
「食べ物のようですが」
「それは見れば分かります」
「では、何をお聞きになったのでしょう」
「どのような味なのかを」
「それは食べなければ分からないかと」
「では、食べてみましょう」
「朝餉を召し上がったばかりですよ」
「少しなら入ります」
「殿下の『少し』は信用しておりません」
「なぜです?」
「朱雀を発ってからの三日間をお忘れですか?」
「…………」
明羽は考えた。
「よく覚えていません」
「でしょうね」
結局、一つだけ買うことになった。
女官の一人が代金を支払い、護衛の兵が先に毒見をする。
安全を確認したあと、包まれた料理が明羽へ渡された。
「そこまでしなくてもよい気がするのですが」
「必要なことでございます」
「分かっていますけれど」
人質とはいえ、明羽は他国から預かっている皇女だ。
街中で口にしたものが原因で何かあれば、国同士の問題になりかねない。
明羽は諦めて一口食べる。
「……美味しいです」
肉の脂に、少し刺激のある香辛料。
朱雀ではあまり食べない味だった。
「緋乃も食べますか?」
「結構でございます」
「美味しいですよ?」
「殿下がお召し上がりください」
そう言われ、明羽はもう一口食べた。
その後も大路を歩いていく。
肉を吊るした店。
色とりどりの野菜や果物を並べた露店。
鍛冶場からは金属を打つ音が響き、大鍋から湯気を上げる店の周りには腹を空かせた客が集まっている。
明羽は何か見つけるたびに足を緩めていた。
「こちらの香辛料は、白虎ではよく使われるのですか?」
「はい。山間部で採れるもので、肉料理などによく使われております」
白虎の女官が答える。
「では、あちらの厚い衣は?」
「寒さの厳しい土地では、あのような厚手の衣がよく用いられております」
「同じ白虎でも、地域によって違うのですね」
「はい」
知らないことを聞けば、誰かが答えてくれる。
それだけでも面白かった。
書物の中に書かれた説明とは違い、目の前に実物がある。
匂いがあり、音があり、それを使って暮らしている人がいる。
「…………」
そこで、明羽が突然足を止めた。
「殿下?」
緋乃が声をかける。
返事はない。
明羽の視線の先には、一軒の店があった。
店先に何本もの巻物が並べられている。
「殿下」
「少しだけです」
「まだ何も申しておりません」
「少し見るだけです」
「そのお言葉を信じてよろしいのですか?」
「もちろんです」
「では、四半刻で」
「…………」
「殿下?」
「もう少し――」
「四半刻です」
「はい……」
明羽は渋々頷き、店へ入った。
店内の棚には、大小様々な巻物が並んでいた。
明羽は端から順に眺めていく。
「こちらは?」
「西方の山間部に伝わる昔話をまとめたものにございます」
最初は緊張していた店主も、明羽が純粋に巻物へ興味を示していると分かると、少しずつ口数が増えていった。
「では、これは?」
「銀嶺府の古い祭りを描いたものでございます」
「見せていただけますか?」
「もちろんでございます」
店主が巻物を広げる。
大路を埋め尽くす人々。
灯籠。
楽器を鳴らす者たち。
華やかな衣をまとった踊り手。
明羽は食い入るように眺めた。
「この大路は、先ほど歩いたところですか?」
「左様でございます」
「ですが、今とは少し違いますね」
「この絵は百年ほど前のものでして。当時は祭りの山車がこの大路を通っていたそうです」
「今は違うのですか?」
「はい。今はもう一本東の大路を通ります」
「なぜ変わったのでしょう?」
「街が広がり、この辺りは人も荷車も増えましたから」
「なるほど……」
明羽はもう一度、巻物へ目を落とした。
描かれているのは、確かに先ほど自分が歩いた銀嶺府だ。
だが、百年前と今では街の姿も、人々の暮らしも変わっている。
書物を読むだけでは気づかなかったかもしれない。
「これをいただけますか?」
「えっ?」
店主が固まる。
「こちらの絵巻物を」
「は、はい! もちろんでございます!」
「殿下」
緋乃が横から口を挟んだ。
「何です?」
「お買いになるのですか?」
「はい」
「皇城の書物庫にも、似たものがあるのでは?」
「こちらは私のものになります」
「そういう問題ではございません」
「一巻だけです」
「本当に一巻だけですね?」
「はい」
答えながら、明羽の視線が隣の棚へ移る。
「殿下」
「……はい」
「一巻です」
「分かっています」
少しだけ残念だった。
代金を支払い、包んでもらった巻物を明羽は自分で受け取った。
店を出たあと、腕に抱えた巻物を見ながら満足そうに歩く。
「緋乃」
「はい」
「蘭様がおっしゃっていたことが分かった気がします」
「街を見る、というお話ですか?」
「はい」
明羽は大路を見渡した。
「実際に見てみると、絵巻物だけでは分からないことがたくさんありますね」
「そうでございますね」
「先ほどのお祭りも、絵だけを見ていたら、今も同じ大路を使っていると思っていたかもしれません」
「確かに」
「街を見てから絵巻物を読むと、また違って見えそうです」
「よかったですね、殿下」
「はい。また一つ楽しみが増えました」
明羽は嬉しそうに笑った。
どうやら、街へ出ることも思っていた以上に面白い。
◇
陽が傾き始めた頃。
一行は皇城へ戻るため、大路を歩いていた。
朝から歩き回ったため少し疲れてはいたが、明羽の腕には買った巻物が今も大切そうに抱えられている。
「今日は楽しかったですね」
「それは何よりでございます」
「また来たいです」
「では、次は別の大路をご覧になりますか?」
「はい。今日とは違うものが見られそうです」
明羽が頷く。
そのとき、大路の向こうがにわかに騒がしくなった。
「……何でしょう?」
明羽が足を止める。
人々が次々と道の脇へ寄り始め、遠くから激しい馬蹄の音が近づいてくる。
「道を空けろ!」
鋭い声が響いた。
「急報だ! 道を空けろ!」
一騎の馬が大路を駆けてくる。
乗っているのは白虎軍の兵だった。
馬も騎手も泥にまみれ、相当な距離を急いできたことが分かる。
護衛兵たちがすぐに明羽の前へ出た。
「軍からか?」
「北方じゃないか?」
「金獅子討伐の……?」
周囲から声が上がる。
騎馬は明羽たちの前を一気に駆け抜け、そのまま皇城へ向かっていった。
「緋乃」
「はい」
「今の方は……」
「おそらく、金獅子討伐軍からの使者かと」
「…………」
景虎たちが皇城を発ってから、すでに一週間ほどが経っている。
その間、戦が続いていることは明羽も聞いていた。
けれど、自分が戦場を見るわけではない。
皇城で過ごしていると、遠く離れた場所で戦が起きているという実感は薄かった。
今の兵の姿を見て、明羽の腕に少し力が入る。
抱えていた巻物が胸元へ寄った。
間もなく、大路の向こうから大きな声が響いた。
「勝報だ!」
人々が一斉に振り返る。
白虎の役人らしい男が、数人の兵を伴って大路を進んできた。
「金獅子討伐軍、大勝!」
その声が通りに響き渡る。
「金獅子の本陣を制圧!」
周囲が静まり返った。
「敵総大将を討ち取り、残る軍勢は潰走! 討伐軍の勝利だ!」
一瞬の静寂。
次の瞬間――。
「うおおおおおおっ!」
爆発するような歓声が、大路を包んだ。
「勝ったぞ!」
「金獅子を破った!」
「皇太子殿下がやったぞ!」
「ようやく終わった!」
店の中からまで人が飛び出してくる。
互いに肩を叩き合う男たち。
両手を上げて喜ぶ者。
その場にしゃがみ込み、安堵したように顔を覆う女性もいた。
「……すごい」
明羽はその光景を見つめた。
先ほどまで、いつも通りに人々が行き交っていた大路。
それが、たった一つの知らせで別の場所のようになっている。
絵巻物にも、戦の勝利を喜ぶ民衆が描かれることはある。
旗を振る人々。
酒を酌み交わす者たち。
英雄を迎える群衆。
だが、目の前にあるものとは違う。
声の大きさも、熱気も、人々の顔に浮かぶ安堵も。
紙の上からは分からないものばかりだった。
「これが……勝ったということなのですね」
「白虎の民にとって、金獅子は長く辺境を脅かしてきた相手でございますから」
護衛の一人が答えた。
「家族や知人が戦へ出ている者も多いでしょう。戦が終わったと聞けば、喜ぶのも無理はございません」
「そうですね」
ここにいる者の中にも、実際に金獅子の被害を受けた者や、家族を失った者がいるのかもしれない。
そう考えれば、この歓声を否定することは明羽にはできなかった。
ただ、戦場では多くの命が失われたはずだ。
勝った側にも。
負けた側にも。
「殿下」
緋乃が明羽を見る。
「皇城へ戻りましょう。正式な報告も届いている頃かと」
「はい」
明羽は頷いた。
歩き出す前に、もう一度だけ大路を振り返る。
「金獅子討伐軍の勝利だ!」
「白虎万歳!」
「皇太子殿下万歳!」
歓声は今も鳴りやまない。
「景虎様たちも、ご無事なのでしょうか」
「勝利の知らせが届いた以上、総大将である景虎殿下もご無事である可能性は高いかと。ただ、正式な報告を確認するまでは何とも申し上げられません」
「そうですね」
明羽は頷いた。
「景虎様も、征吾様も、出陣された皆様も、無事に戻られるとよいのですが」
「はい」
「それから……」
明羽は少し言葉を止めた。
「金獅子の方々も、もう戦わずに済むのであれば、これ以上亡くなる方が増えないとよいですね」
緋乃が明羽を見る。
「敵でございますよ」
「はい」
「金獅子は、白虎の街や村を何度も襲ったとも聞いております」
「それも分かっています」
明羽は静かに答えた。
「だからといって、金獅子の方々なら死んでも構わないとは思いません」
景虎の言葉が蘇る。
――向こうが死ぬ分には知ったことじゃねえ。
やはり、自分にはそうは思えない。
「戦が終わったのでしたら、これ以上亡くなる方が増えない方がよいと思います」
「……そうでございますね」
緋乃はそれ以上何も言わなかった。
明羽は腕の中の巻物を抱え直す。
今日、初めて自分の足で歩いた銀嶺府。
食べ物も、衣も、店も、人々も。
書物の中では知ることのできないものを、たくさん見ることができた。
そして最後に見たのは、戦の終わりを喜ぶ人々だった。
それもまた、この国で生きる人たちの姿なのだろう。
明羽は歓声の響く大路をあとにし、皇城へ向かって歩き出した。
この知らせから数日後。
金獅子討伐軍は、銀嶺府へ凱旋することになる。
白虎皇太子――白牙景虎を先頭にして。
どうでもいいですが、勝利の一報のシーンは書いていて興奮しました。
熱狂とは一種の麻薬みたいなものかもしれませんね。
次話は金獅子討伐軍の凱旋です。
ご期待ください。




