第一妃の理想
金獅子討伐軍が帝都を発ってから、数日が経った。
大軍が出陣したことで、あれほど慌ただしかった白虎皇城も、今では以前の静けさを取り戻しつつある。
もちろん、完全に元通りというわけではない。軍から届く報告を受け取る役人や、追加の物資を手配する者たちは、今も忙しく城内を行き来していた。
そんな中でも、明羽の日常に大きな変化はない。
今日も朝餉を終えると書物庫へ向かい、いつもの閲覧卓に絵巻物を広げていた。
「……なるほど」
今読んでいるのは、白虎北部の雪深い村を舞台にした古い恋物語だった。
村で暮らす娘と、旅の途中で迷い込んだ青年。身分も生まれも違う二人が、冬を越す間に少しずつ惹かれ合っていく。
明羽は先ほどから、ほとんど顔を上げていない。
「殿下」
後ろに控える緋乃が声をかける。
「何です?」
「そろそろ休まれてはいかがですか」
「今、とてもいいところなのです」
「一刻ほど前にも同じことをおっしゃいました」
「今度こそ本当にいいところです」
「毎回そうおっしゃっています」
明羽は返事をせず、巻物を少し進めた。
「ほら、見てください。ようやく二人が――」
その時、書物庫の入口から、よく通る声が響いた。
「蘭第一妃が入られます」
明羽だけでなく、書物を整理していた者たちも一斉に手を止める。
入口には蘭の従者が立っており、その後ろから第一妃・白牙蘭がゆっくりと入ってきた。数人の女官も付き従っている。
「蘭様?」
明羽は椅子から立ち上がった。
「ごきげんよう、明羽さん」
「ごきげんよう、蘭様。こちらでお会いするとは思いませんでした」
「私も久しぶりに来たわ」
蘭は書物庫の中を見回したあと、明羽の前に広げられた絵巻物へ目を落とす。
「今日も絵巻物?」
「はい」
「本当に好きなのね」
「まだ読みたいものがたくさんありますので」
「一年で足りそう?」
「…………」
明羽が黙った。
蘭がくすりと笑う。
「足りなさそうね」
「できるだけ頑張ります」
「何を頑張るのですか」
緋乃の声が後ろから飛んできた。
「読むことです」
「分かっております」
「でしたら、なぜ聞いたのです?」
「聞かずにはいられませんでした」
蘭が楽しそうに二人を見比べた。
「緋乃さんも大変ね」
「お気遣い痛み入ります」
「緋乃」
「何でしょう」
「なぜ即答するのですか?」
「日々実感しておりますので」
「酷いです」
明羽が不満そうに眉を寄せる。
蘭はそんな二人のやり取りを眺めてから、近くの女官へ目を向けた。
「少し明羽さんと話がしたいの。悪いけれど、皆、席を外してくれるかしら」
書物庫を預かる白木も含め、その場にいた者たちが一礼する。
「承知いたしました」
蘭の女官たちも入口の外へ下がり、ほどなくして広い書物庫に残ったのは、蘭と明羽、そして緋乃だけになった。
蘭は向かいの椅子へ腰を下ろす。
明羽も再び席についた。
「今日は、私に何かご用がおありなのでしょうか?」
「特別な用事というほどではないの。ただ、明羽さんとゆっくり話してみたくなって」
「私と、ですか?」
「ええ。景虎も征吾もいなくなってしまったでしょう? 城の中が随分静かになったものだから」
「景虎様がいらっしゃらないと、そんなに違うのですか?」
「少なくとも、あの子が誰かと揉めている声は聞こえなくなるわね」
「よく揉められるのですか?」
「昔からよ」
蘭は苦笑した。
「あの子、気が強いでしょう?」
「はい」
明羽は迷わず答えた。
「あら。即答するのね」
「……申し訳ありません。ですが、そのように感じておりますので」
「明羽さんも、なかなか言うわね」
「そうでしょうか?」
「そういうところよ」
明羽には、やはり何のことかよく分からない。
蘭はしばらく明羽を眺めていたが、ふと柔らかく笑った。
「私ね、娘も欲しかったの」
「姫君を、ですか?」
「ええ。景虎はもちろん可愛いけれど、娘がいたら一緒に衣を選んだり、髪飾りを選んだりできたでしょう?」
「景虎様とでは難しいのでしょうか?」
「できると思う?」
明羽は想像してみた。
色とりどりの衣や髪飾りを並べ、その前に座らされる景虎。
あの仏頂面がさらに険しくなるところまで、簡単に想像できた。
「……少々、難しいかもしれません」
「そうよね」
二人の意見が一致した。
「霞には麗華がいるから、二人を見ていると羨ましくなることもあるのよ」
「麗華様とは、とても仲がよろしいのですか?」
「ええ。霞は身体が弱いから、あまり人前には出ないけれど、麗華とはとても仲がいいの。あの子も母親によく懐いているわ」
「そうなのですね。国境で少し拝見しただけですが、とても愛らしい方でした」
「可愛いでしょう?」
「はい」
雪の中から現れた妖精のような少女。
それが、明羽が麗華を見たときの印象だった。
「私にも明羽さんみたいな娘がいたら、毎日賑やかで楽しそうね」
「私ですか?」
「ええ。毎日絵巻物の話を聞かされそうだけれど」
「毎日とは限りません」
「そう?」
「……面白い絵巻物を見つけた日は、お話しするかもしれません」
「ほとんど毎日になりそうね」
緋乃が小さく頷いた。
「私もそう思います」
「緋乃まで」
蘭が声を立てて笑った。
しばらくして、その笑みが穏やかなものへ変わる。
「でもね。今日、明羽さんと話したかったのは、それだけではないの」
声の調子が変わったことに気づき、明羽も表情を改めた。
「何でしょう?」
「金獅子の討伐軍が出ていくところを見たでしょう?」
「はい」
「どう思った?」
明羽は少し考えてから答えた。
「……正直に申し上げれば、少し怖かったです」
「軍勢が?」
「それもあります。ですが、一番は、これから多くの方が戦うのだと思うと」
景虎と交わした言葉が脳裏をよぎる。
――戦なんだ。死人が出るのは当たり前だろ。
あの考え方を受け入れることは、今もできそうにない。
「四国は、ようやく戦をやめることができましたから」
「そうね」
蘭は静かに頷いた。
「だからこそ、私は三年後のことを考えてしまうの」
「三年後……ですか?」
「ええ。今の不可侵条約が終わったあとよ」
明羽は手元の絵巻物から手を離した。
三年間の不可侵条約。その間、四国は姫と神器を互いに預け合い、人質となった姫たちは一年ごとに国を移る。
「明羽さんは、そのあとも今の和平が続くと思う?」
「続いてほしいと思っています」
「私もよ。でも、願っているだけでは足りないとも思っているの」
「と、申しますと?」
「今は四国が、人質と神器を互いに預け合っているでしょう?」
「はい」
「どの国も、自分たちの大切なものを他国に握られている。だから、簡単には剣を抜けない」
明羽は黙って聞いている。
「もちろん、それで戦が止まっているのは良いことよ。でも――」
蘭の指先が、卓の上へ静かに置かれた。
「それは、約束を破れば自分たちも大切なものを失うかもしれない、という恐れの上に成り立っている平和でもあるでしょう?」
「……そうですね」
否定はできなかった。
和平のために人質を預ける。
神器を預ける。
それ自体が、相手に裏切らせないための仕組みなのだから。
「三年が過ぎれば、人質も神器もそれぞれの国へ戻る」
「はい」
「そのとき、今までと同じ抑止はなくなるわ」
明羽は黙って蘭の言葉を待った。
「だから、その三年間で別の繋がりを作らなければいけないと思っているの」
「別の繋がり、ですか?」
「ええ。国同士が、戦わない方がよいと思えるような関係よ」
「例えば?」
「交易を増やす。人の行き来を増やす。互いの文化を知る。それから――国を治める家同士が婚姻を結ぶことだって、一つの方法でしょうね」
「婚姻……」
「昔からある方法でしょう? 家族になったからといって必ず戦がなくなるわけではないけれど、何の繋がりもない国よりは、剣を向けにくくなるかもしれない」
「政略のための婚姻、ということですか?」
「そういうことになるわね」
蘭はそこで少し笑った。
「もっとも、本人たちの気持ちを無視してまで結ばせればいいとは思っていないわ。それでは別のところに恨みが残ってしまうもの」
「そうですね」
「それに、姫君たちが三年間それぞれの国で暮らし、互いの文化や人を知ることにも意味があると思っているの。そうして、これまでとは違う関係が生まれるかもしれないでしょう?」
「互いを知る……」
「知らない相手ほど、悪く想像してしまうものよ」
その言葉に、明羽は景虎へ話したことを思い出した。
人から聞いたことや、書物に残っていることだけで、その人のすべてを決めるのは違う。
国同士でも、同じなのかもしれない。
「明羽さんが今、白虎で暮らしていることだってそうよ」
「私が?」
「朱雀で聞いていた白虎と、実際に来て見た白虎は、まったく同じだった?」
「……いいえ」
明羽は即答した。
まだ見たのは皇城の中と、そこで暮らす人々だけだ。それでも、朱雀で聞いていた白虎の印象とはすでに違っていた。
白木のような人もいる。
蘭のような人もいる。
そして景虎のように、聞いていた通りだと思うところと、そうではないところを併せ持つ者もいる。
「全然違いました」
「そうでしょう?」
蘭が微笑む。
「そういうものを、少しずつ増やしていきたいの。白虎の民が朱雀を知って、朱雀の民が白虎を知る。青龍も玄武も同じ。そうして、ただの『敵国』ではなくなっていけばいいと思っているわ」
明羽はしばらく考えた。
「すぐには難しそうですね」
「難しいでしょうね」
蘭はあっさり認めた。
「だから三年で終わらせたくないの」
書物庫の中は静かだった。
閉ざされた扉の向こうから、遠く人の歩く気配だけが伝わってくる。
「景虎たちの世代になっても、その次の世代になっても、四国が争わずに済むようにしたい。そのためにできることは、多い方がいいと思っているの」
「それが、蘭様の理想なのですね」
「ええ」
蘭は穏やかに笑った。
「簡単には叶わないでしょうけれどね」
「それでも、目指す価値はあると思います」
「……ありがとう」
蘭が少し嬉しそうに微笑んだ。
明羽は先ほどの話を思い返し、ふと尋ねた。
「蘭様は、景虎様にも政略のための婚姻をしていただきたいとお考えなのですか?」
「皇太子なのだから、いずれ婚姻は必要になるでしょうね」
「そうなのですね」
「でも、誰でもいいとは思っていないわ」
「?」
「景虎ときちんと話のできる人がいいわね」
明羽は一瞬考える。
「あの方とお話しするのは、なかなか大変だと思います」
「ふふ。明羽さんは普通に話しているじゃない」
「普通でしょうか?」
「少なくとも、言いたいことは全部言っているでしょう?」
「それは……」
否定しづらかった。
景虎からも似たようなことを言われた気がする。
蘭はそんな明羽を見て、楽しそうに目を細めた。
「いっそのこと、明羽さんが景虎のお嫁さんになってくれたらいいのに」
「…………」
明羽が瞬きをする。
隣に立つ緋乃も、蘭へ視線を向けた。
「私が、景虎様の?」
「ええ」
「なぜそうなるのでしょうか?」
「だって、ちゃんと話せているでしょう?」
「話すたびに言い合いになっている気がするのですが」
「それだけ遠慮がないということよ」
「そういうものでしょうか……」
「少なくとも、景虎が皇太子だからといって萎縮することはないでしょう?」
「それはございません」
「即答ね」
蘭がくすくすと笑う。
「それに、明羽さんが白虎へ来てくれたら、私にも娘ができるでしょう?」
「先ほどのお話と繋がっていたのですか?」
「もちろん」
「…………」
明羽はようやく納得した。
どうやら蘭は、先ほどからの娘の話にかけて、自分をからかっているらしい。
「蘭様も、冗談がお好きなのですね」
「あら。冗談だと思う?」
「違うのですか?」
「半分くらいは本気よ」
「半分もですか?」
「ええ」
蘭は楽しそうに答えた。
「景虎が嫌がる相手を無理に娶らせるつもりはないけれど、明羽さんなら私は歓迎するわ」
「そう言われましても……」
明羽は少し考えた。
「景虎様にも選ぶ権利がございますし、私にもございます」
「もちろんよ」
「でしたら、今のところは考える必要のないお話ですね」
「あら、きっぱり」
「まだお会いして、それほど経っておりませんので」
「そうね」
蘭は否定せず、ただ楽しそうに笑った。
明羽もそれ以上深く考えなかった。
蘭が自分を気に入ってくれているからこその、少し大げさな冗談なのだろう。
少なくとも、今の明羽にはそうとしか思えなかった。
「蘭様のお考えは、よく分かりました」
「婚姻の方?」
「和平の方です」
「あら、残念」
「なぜ残念なのですか」
蘭の笑い声が、静かな書物庫に響いた。
「私も、三年後にまた戦が始まるのは嫌です」
明羽は改めて言った。
「ええ」
「そのために互いを知ることが必要なのでしたら、私も白虎についてもっと知りたいと思います」
「それなら、書物庫の外にも目を向けないとね」
「…………」
「明羽さん?」
「今、とても耳の痛いことを言われた気がいたします」
「だって、ほとんどここにいるのでしょう?」
「そのようなことは……」
明羽が緋乃を見る。
「ございます」
「まだ何も聞いていません」
「聞かれると思いましたので」
「先回りしないでください」
蘭は二人のやり取りを楽しそうに眺めている。
「今度、街にも出てみたら?」
「街へ?」
「ええ。書物に描かれている白虎だけではなくて、今ここで暮らしている人たちを見るのも面白いと思うわ」
「…………」
明羽は少し考えた。
「確かに、それは興味があります」
「絵巻物ほど?」
「それは比較が難しいですね」
「そこは即答しないのね」
「大切な問題ですので」
緋乃が静かに息を吐いた。
「では、近いうちに外へ出てみるのもよいかもしれませんね」
「はい」
明羽は頷いた。
蘭が椅子から立ち上がる。
「では、私はそろそろ戻るわ」
明羽も立ち上がった。
「はい。本日はありがとうございました」
「こちらこそ。明羽さんと話せて楽しかったわ」
蘭は最後にもう一度、明羽へ笑いかける。
「街へ出るのも忘れないでね」
「……覚えておきます」
「その返事、少し怪しいわね」
「忘れません」
「本当?」
「おそらく」
「やっぱり怪しいわ」
蘭は楽しそうに笑いながら、書物庫をあとにした。
入れ替わるように、外で待っていた白木や女官たちが戻ってくる。
明羽は再び椅子へ腰を下ろし、卓の上の絵巻物へ目を落とした。
雪深い村の娘と、旅の青年。
異なる場所で生まれた二人が出会い、互いを知っていく物語。
先ほどまでとは、少しだけ違って見える。
白虎へ来てから、まだそれほど日は経っていない。
知らないことは山ほどある。
絵巻物の中にも。
この国にも。
そして、ここで暮らす人々にも。
だから今は、一つずつ知っていけばいい。
明羽はそう思いながら、続きをゆっくりと広げた。




