虎たちの雄叫び
夕餉の席で武闘会の話を聞いてから、四日ほどが経った。
明羽の白虎での生活も、徐々に形が決まり始めていた。
朝を迎えれば身支度を整え、緋乃とともに朝餉を取る。その後は、特に用事がなければ書物庫へ向かう。
昼になれば一度客殿へ戻って昼餉を取り、午後になると再び書物庫へ。
そして夕方まで絵巻物を読む。
白虎へ来る前には想像もしていなかったほど、平穏な日々だった。
少なくとも、明羽にとっては。
「……今日は、随分と騒がしいですね」
回廊を歩いていた明羽が足を止めた。
普段は静かな皇城の回廊を、兵士や官吏が忙しなく行き来している。
二人、三人という数ではない。何十人もの兵がまとまって中庭を横切り、その向こうでは荷車へ木箱や麻袋が次々と積み込まれていた。槍や弓といった武具を運ぶ者の姿もある。
「何かあるのでしょうか」
明羽が隣の緋乃を見る。
「私にも分かりません」
緋乃も辺りを見回した。
白虎へ来てまだ日が浅い二人には、この慌ただしさがどれほど異例なのかまでは分からない。
だが、昨日まではこれほど多くの兵が皇城内を行き来していなかった。
「書物庫へ行けば、白木様が何かご存じかもしれません」
「殿下」
「何です?」
「今、さりげなく書物庫へ行く理由を増やしませんでしたか?」
「もともと向かっていたのですから同じです」
「そうですけれど」
明羽は何事もなかったように歩き出した。
だが中庭へ近づくにつれ、辺りの様子はいっそう物々しくなっていく。
兵士たちの傍らには、穀物や干し肉、水を入れるための樽まで並べられていた。
どう見ても、宴や武闘会の準備ではない。
「この様子ですと、軍を動かすようですね」
緋乃が声を落とした。
「やはり、そう見えますか」
「はい」
兵を動かすには、食料や水、武具、馬、薬、それらを運ぶ荷車も必要になる。明羽も皇女である以上、その程度のことは知っている。
「戦……ですか」
先ほどまでの軽さが、明羽の表情から消えた。
明羽は戦が好きではない。
四国が長く争い、多くの人間が命を落としてきたことも知っている。だからこそ、今回の和平そのものには賛成していた。
「誰と戦うのでしょう」
「白虎国内のことであれば、私たちへ知らされていなくても不思議ではありません」
「……そうですね」
明羽は中庭を行き交う兵たちをもう一度見た。
先日読んだ絵巻物に描かれていた、赤い護り紐が頭をよぎる。
遠くへ行く者の無事を願い、家族が渡すもの。
ここにいる兵たちの中にも、帰りを待つ家族がいるのだろう。
明羽はそれ以上何も言わず、再び歩き出した。
◇
事情が分かったのは、それから間もなくのことだった。
中庭の近くまで来たところで、見覚えのある人物を見つける。
第二皇子の白牙征吾だった。
普段の衣ではなく、動きやすさを重視した装いをしている。後ろには数人の兵や役人が付き従っていた。
「征吾様」
明羽が声をかけると、征吾が足を止めた。
「……朱雀姫ですか。私に何か用でも?」
「随分と慌ただしいようですが、何かあるのですか?」
征吾は一度、中庭へ目を向けた。
「これだけの兵と物資を集めていれば、隠すようなことでもありませんね」
「では、やはり軍を?」
「ええ」
征吾は淡々と答えた。
「金獅子を討ちます」
「金獅子?」
「白虎がまだ支配下に置いていない、最後の大きな異民族です」
明羽の表情が変わった。
「討つということは、以前から争っていたのですか?」
「何度も」
征吾の声に感情らしいものはない。
「金獅子は以前から白虎の辺境へ侵入し、街や村を襲っています。こちらも幾度となく兵を出してきました」
「では、今回も?」
「先日、再び国境を越えてきました。こちらからも使者を送りましたが、話し合いに応じるつもりはないようです」
「…………」
「同じことを繰り返す意味もありません。陛下が討伐をお決めになりました」
これまで続いてきた衝突に、今回で決着をつける。
そういうことらしい。
明羽は中庭へ目を向けた。
先ほどまで慌ただしく見えるだけだった兵たちの姿が、今は違って見える。
「大きな戦になるのですか?」
「その可能性を考えて、兵を揃えています」
「そうですか……」
戦は好きではない。
だが、白虎と金獅子の間に何が積み重なってきたのか、明羽は知らない。
征吾から今聞いた話だけで、どちらが正しいのかを決めることもできなかった。
事情も知らず、他国から来た自分が軽々しく口を挟むべきではないだろう。
「総大将はどなたなのですか?」
「兄上です」
「景虎様が?」
「ええ。私は副大将として同行します」
皇太子である景虎が総大将。
そして第二皇子である征吾が副大将。
それだけでも、白虎が今回の討伐をどれほど重く見ているのかが分かる。
「いつ出陣されるのですか?」
「明後日です」
「明後日……」
「来月には武闘会があります。それまでには戻る予定です」
「それまでに終わるのですか?」
「終わらせます」
征吾は迷わなかった。
「今回で、全て」
まるで、すでに決まった未来を告げるような声音だった。
明羽は何も言えず、中庭へ視線を戻した。
◇
その日の午後。
書物庫から客殿へ戻る途中、明羽は再び大きな中庭の前を通りかかった。
そこで、白牙景虎の姿を見つける。
数日前、鍛錬場で話したときとは違い、今日は黒を基調とした鎧を身につけ、その上から白い外套を羽織っている。
周囲には何人もの将が集まっていた。
明羽をからかっているときとは、まるで雰囲気が違う。
鋭い表情で将たちから報告を受け、兵の配置や物資について次々と指示を出していた。
「先鋒についてですが」
将の一人が手元の書付を見ながら告げる。
「敵が山道で強く抵抗した場合、かなりの損害が出る可能性があります」
「構わねえ」
景虎は即答した。
「そこで止まる方が被害が増える。道を開けさせろ」
「ですが、先鋒が持たない可能性も――」
「戦なんだ。死人が出るのは当たり前だろ」
明羽の足が止まった。
景虎の声には、迷いもためらいもない。
「進軍を遅らせるな。先鋒が崩れたら、すぐ次を入れろ」
「……承知しました」
将が頭を下げる。
明羽は黙ってその光景を見ていた。
兵の命を無意味に捨てようとしているわけではないのだろう。
そこで軍を止めれば、かえって被害が増える。
景虎はそう判断している。
それでも、人が死ぬことを前提に作戦を進める姿は、明羽にはあまりに割り切って見えた。
「何見てんだ?」
不意に声が飛んできた。
気づけば景虎がこちらを見ている。
「……別に何も」
「思いっきり見てただろ」
「いつもと違うなと思っただけです」
「あ?」
「きちんとお仕事をされるのですね」
「お前、俺を何だと思ってやがる」
「皇太子です」
「なら分かるだろ」
「皇太子にもいろいろおりますので」
「喧嘩売ってんのか?」
「売っていません」
明羽は平然と答えた。
近くにいた将の一人が、笑いをこらえるように視線を逸らす。
景虎は眉間にしわを寄せたものの、それ以上は言わなかった。
「もう聞いたのか?」
「金獅子のことですか?」
「ああ」
「先ほど征吾様から伺いました。討伐へ向かわれるそうですね」
「そうだ。明後日には出る」
「総大将も景虎様だと」
「ああ。俺が行く」
景虎にとっては、初めから決まっていたことらしい。
「来月には武闘会もある。それまでには戻る」
「征吾様も同じことをおっしゃっていました」
「そりゃ予定は同じだからな」
明羽は景虎を見た。
出陣を二日後に控えているというのに、緊張しているようには見えない。
「景虎様」
「何だ」
「怖くはないのですか?」
「あ?」
「戦へ行かれるのでしょう?」
「だから?」
心底意味が分からないという顔をされ、明羽は眉を寄せた。
「命を落とすかもしれません」
「戦なんだから、死ぬ奴は死ぬだろ」
「……ご自身も、ですよ」
「俺が死ぬようなら、そこまでの男だったってことだ」
「…………」
やはり迷わない。
自分自身の命さえ、特別扱いするつもりはないらしい。
明羽は先ほど聞いた会話を思い出した。
「兵の方々についても、同じなのですか?」
「ああ」
「怖がっている方もいるでしょう」
「いるだろうな」
「でしたら――」
「だから何だ?」
景虎が明羽を見る。
「戦場に出る以上、死ぬ覚悟くらいしてる。してねえなら最初から来なきゃいい」
「ですが、皆が無事に戻れるようにとは思わないのですか?」
「無理に決まってんだろ」
即答だった。
「戦ってんのに、一人も死なせず勝とうなんざ虫が良すぎる」
「…………」
「勝つために必要なら、兵を前へ出す。それで死ぬ奴が出ても、軍を止める理由にはならねえ」
明羽は景虎を見つめた。
「では、敵の方々が犠牲になることについては?」
「むしろ敵なら、なおさらだ」
景虎は表情を変えない。
「向こうが死ぬ分には知ったことじゃねえ」
その言葉に、明羽の胸の奥が冷えた。
数日前。
景虎は異民族について、部族ごとに違うと言った。
畑を耕す者もいれば、酒を飲んで騒ぐ者もいる。
人間なのだから普通だと。
その言葉を聞いたとき、明羽は自分が知らなかった景虎の一面を見た気がした。
だが、これもまた景虎なのだ。
戦となれば、必要な犠牲を迷わず受け入れる。
敵であれば、死んでも構わないと言い切る。
あの日、自分は何と言っただろう。
――ですから、今見ているところです。
その答えの一つを、今まさに見せられているのかもしれない。
「……やはり、景虎様の考え方は好きではありません」
「あ?」
景虎が眉を寄せた。
「急に何だよ」
「今、そう思いましたので」
「本人に言うか、普通」
「聞かれていなくても、必要なら申し上げます」
「必要あったか?」
「ありました」
「ねえだろ」
景虎は呆れたように吐き捨てた。
だが明羽には、どうしても受け入れられない。
戦場では、誰も傷つかずに済むなどという考えが甘いことくらい分かっている。
それでも、人が死ぬことを当然だと割り切ることはできなかった。
白虎の兵にも。
金獅子の者たちにも。
帰りを待つ人がいるかもしれないのだから。
明羽はしばらく黙ったあと、景虎へ向き直った。
「景虎様」
「あ?」
「……お気をつけて」
景虎が一瞬、黙った。
「お前、今までの話聞いてたか?」
「聞いておりました」
「なら何で俺の心配してんだよ」
「考え方が合わないことと、無事を願うことは別です」
「…………」
「嫌いな考え方をする方なら、戦で死んでも構わないとは思いません」
景虎は何も言わず明羽を見る。
やがて、鼻から短く息を吐いた。
「本当に変な奴だな、お前」
「またそれですか」
「他に言いようがねえ」
「失礼ですね」
「まあ、死ぬ気はねえよ」
景虎はそれだけ言った。
その直後、兵の一人が駆け寄ってくる。
「皇太子殿下、第三隊の編成について確認を」
「ああ。今行く」
景虎は兵へ答えると、明羽へ目を戻した。
「俺と征吾がいないからって、好き勝手すんなよ」
「どういう意味ですか?」
「書物庫に住みつくな」
「住みつきません」
「本当か?」
「失礼ですね」
「噂で聞いたぞ。住みたいって言ってたらしいじゃねえか」
「それは希望を口にしただけです」
「同じだろ」
「違います」
「どうだかな」
景虎はそれ以上相手をせず、兵たちのもとへ戻っていった。
明羽はその背中を見送る。
「殿下」
「何です?」
「書物庫へ住みたいというのは、希望だったのですね」
「緋乃」
「はい」
「今はそこを確認するところではありません」
「承知いたしました」
本当に分かっているのだろうか。
明羽は息を吐き、客殿へ向かって歩き出した。
◇
さらに二日が経った。
空がようやく白み始めたころ、白虎皇城の正門前にはすでに大軍が集結していた。
騎馬兵、槍を持つ歩兵、弓兵が整然と並び、その後方には食料や武具を積んだ荷車が長く続いている。
掲げられた旗には、白虎を象った紋。
朝の冷たい空気の中、何千もの兵が並ぶ光景には、言葉を失うほどの迫力があった。
見送りには皇族や高官たちも集まっている。
帝政白虎皇帝・白牙冥利。
第一妃・白牙蘭。
体調を考慮してか、第二妃の霞の姿はない。
明羽もまた、白虎に滞在する朱雀の皇女として、その場に列席していた。隣には緋乃が控えている。
やがて、鎧姿の景虎が馬に跨った。
その後ろには、同じく騎乗した征吾。
二人の周囲を白虎の将たちが固めている。
景虎が軍勢の前へ馬を進めると、兵たちの視線が一斉に皇太子へ集まった。
「出るぞ!」
景虎の声が響く。
次の瞬間。
「オオオオオオオオッ!」
数千の兵が、一斉に雄叫びを上げた。
正門前の空気が震える。
地面を踏み締める無数の足音。馬の蹄。荷車の車輪が軋む音。
それらが重なり、大地そのものが揺れているようだった。
次々と正門を抜けていく兵士たちを、明羽は黙って見つめる。
壮観だった。
けれど、美しいとは思えない。
あの兵たちは、これから戦うために行く。
白虎にも金獅子にも、それぞれに家族がいる。
護り紐を渡して帰りを待つ者が、きっと大勢いるのだ。
――勝つために必要なら、兵を前へ出す。
景虎の言葉が蘇る。
彼にとっては、それも戦なのだろう。
明羽には、やはり簡単には受け入れられなかった。
やがて景虎を乗せた馬が、明羽たちの前を通り過ぎる。
そのとき、景虎がこちらを見た。
ほんの一瞬。
二人の視線が重なる。
明羽は黙って頭を下げた。
――お気をつけて。
もう一度口にする代わりに、その言葉を胸の中で繰り返す。
景虎は何も言わなかった。
ただ、片手を軽く上げる。
それだけだった。
すぐに前を向き、軍の先頭へと進んでいく。
征吾もその後に続いた。
明羽がそちらへ視線を向けると、征吾も一瞬だけ目を向けてきた。
軽く目を伏せ、そのまま前へ向き直る。
二人の姿は大勢の兵士たちに紛れ、次第に遠ざかっていった。
「行ってしまいましたね」
緋乃が言った。
「ええ」
「武闘会までには戻られるそうですが」
「そう聞いております」
明羽は遠ざかる白虎の旗を見つめた。
「……話し合いでは、どうにもならなかったのでしょうか」
「何度も衝突を繰り返し、今回も交渉には応じなかったと伺ったのでしょう?」
「はい」
分かっている。
それでも、そう考えずにはいられなかった。
「私たち四国も、ようやく話し合うことができたのに」
緋乃は答えず、同じように軍勢を見つめる。
白虎と金獅子には、明羽の知らない長い歴史がある。
どちらか一方の話を聞いただけで、何が正しいのかを決めることもできない。
だからこそ今は、ただ願うしかなかった。
「皆、無事に戻ればいいのですが」
誰に聞かせるでもなく、明羽は呟いた。
白虎の旗は、もう随分と小さくなっている。
やがて軍勢は遠くの道へと消え、先ほどまで地を震わせていた音も聞こえなくなった。
四国では、ようやく剣を収めることができた。
けれど、この白虎では今、新たな戦が始まろうとしている。
明羽は誰もいなくなった道を、しばらく見つめ続けていた。




