絵巻物の外側
翌日の昼下がり。
明羽は、書物庫にいた。
昨日読みかけのまま残してきた絵巻物を最後まで読み終えると、余韻に浸る間もなく次の一巻を手に取った。
緋乃は向かいの席で、その様子を半ば呆れながら眺めている。
「殿下」
「はい」
「昨日こちらへ着いたばかりですよね?」
「そうですね」
「もう随分前からここにいるように見えます」
「住んではいませんよ」
「昨日、住みたいとおっしゃっていましたが」
「希望と現実は別です」
「そこは分かっているのですね」
明羽は返事をせず、手元の絵巻物を広げた。
今読んでいるのは、白虎へ併合された山間の地を舞台にした絵巻物だった。ちょうど描かれているのは、村の祭りの場面だ。
険しい山々に囲まれた集落。その中央には大きな火が焚かれ、周囲では色鮮やかな衣をまとった人々が踊っている。
朱雀の祭りでは見たことのない楽器や食べ物も描かれており、明羽は一場面進むたびに手を止めていた。
「この笛、穴の数が多いですね」
「そうですね」
「こちらの料理は何でしょう。肉を葉で包んで焼いているように見えます」
「そうですね」
「緋乃」
「はい」
「先ほどから同じことしかおっしゃっていません」
「私には分かりませんので」
「もっと興味を持ってください」
「殿下ほど持ったら一日が終わります」
明羽は、それも悪くないと思ったが、口にすれば呆れられそうなので黙っておいた。
巻物をさらに広げる。
祭りの場面が終わると、一人の若い男が村を発つ場面へ変わった。
男の前には、妻と幼い子供が立っている。妻が差し出しているのは、細く編まれた赤い紐だった。
次の場面では、その紐が男の持つ槍の柄に結ばれている。
「……これは何でしょう?」
明羽は首を傾げた。
「装飾では?」
「それなら、祭りの場面でもつけていそうですが」
よく見ると、同じ赤い紐をつけた男が他にも描かれている。
ある者は剣の柄に、ある者は腕に。そして別の場面では、家の入口にも同じような紐が結ばれていた。
「意味がありそうですね」
「また始まりましたね」
「気になりませんか?」
「多少は」
「白木様に聞いてみましょう」
「もう立っていますね」
気づけば明羽は席を立っていた。
少し離れた棚で巻物を整理していた白木のもとへ向かう。
「白木様」
「はい。どうされました、鳳院殿下」
「こちらについて伺いたいのですが」
明羽は白木を閲覧卓まで連れてくると、絵巻物の赤い紐を指差した。
「この紐には、何か意味があるのでしょうか?」
「ああ、これですか」
白木が絵を覗き込む。
「確か、護り紐と呼ばれていたものですね」
「護り紐」
「ええ。山へ入る者や、遠くへ旅立つ者、それに戦へ向かう者の無事を願って渡したものだと記録には残っています」
「では、この男性も?」
「おそらくは。槍を持っていますから、戦へ向かうところかもしれません」
白木は次の場面へ目を移した。
「ただ、少し妙ですね」
「何がです?」
「一般的には腕へ巻くものだったはずです。武器へ結ぶ風習については、私も詳しくありません」
明羽は赤い紐が結ばれた槍をじっと見る。
「昔は違ったのでしょうか」
「その可能性もありますが……」
白木は少し考え込んだ。
「景虎殿下なら、ご存じかもしれません」
明羽の顔が上がった。
「景虎様が?」
「はい。景虎殿下は、この絵巻物の舞台となった地方には何度も足を運ばれています。記録ではなく、実際に現地で見聞きされていますので」
「…………」
明羽は絵巻物を見る。それから白木を見て、もう一度絵巻物へ視線を戻した。
緋乃が横から口を挟む。
「お聞きになればよろしいのでは?」
「別に嫌とは申していません」
「何も言っておりませんが」
「今、そういう顔をしていました」
「殿下も人の顔を読むようになられましたね」
「あの方ほどではありません」
昨日の夕餉で書物庫のことを言い当てられたのを思い出し、明羽は眉を寄せた。
しかし、分からないままにしておく方が気になる。
「景虎様は、今どちらにいらっしゃるのでしょう?」
「この時間でしたら、鍛錬場にいらっしゃるかもしれません」
白木が答えた。
「そうですか。では、行ってきます」
「本当に絵巻物のこととなると行動がお早いですね」
「大切なことですから」
緋乃も立ち上がった。
◇
白虎皇城の鍛錬場では、十数人の兵が武器を手に鍛錬していた。
木剣や槍が打ち合う音と、兵たちの掛け声が絶え間なく響いている。
その中央に白牙景虎はいた。
景虎が持っているのは、刃を潰した鍛錬用の槍だった。
向かい合う兵が槍を突き出す。
景虎は身体をずらして穂先をかわすと、相手の槍を自分の槍で弾いた。次の瞬間には、穂先が相手の喉元へ突きつけられている。
「そこまで!」
見ていた兵が声を上げた。
「ありがとうございました!」
相手の兵が深く頭を下げる。
景虎は槍を肩へ担ぎながら、次の兵を呼ぼうとした。
そこで、鍛錬場の端に立つ明羽に気づいた。
「……何してんだ、お前」
「見ています」
「それは分かる」
景虎は近くの兵へ槍を放り渡した。兵が慌てて受け取る。
「書物庫にいなくていいのか?」
「私が一日中書物庫にいると思っていませんか?」
「違うのか?」
「……自分で言っておいて何ですが、否定しづらいですね」
景虎が鼻で笑った。
「で、何の用だ」
「少し伺いたいことがあります」
「俺に?」
「はい」
「……言ってみろ」
「絵巻物についてなのですが」
「やっぱりそれか」
「やっぱり?」
「お前が俺に用なら、そんなところだろうと思った」
「失礼ですね」
「当たってるだろ」
否定できない。
明羽は緋乃に預けていた紙を受け取った。
絵巻物そのものを持ち出すことはできないため、問題の場面を簡単に書き写してきたものだ。
「こちらです」
「何だこれ」
「絵巻物を書き写しました」
「……下手だな」
「そこは重要ではありません!」
明羽は紙を取り返しかけたが、景虎がひょいと手を上げた。
身長差のせいで届かない。
「景虎様」
「分かったよ」
景虎は紙を明羽にも見える高さまで下ろした。
「この赤い紐が気になるのか?」
「はい。白木様からは護り紐だと伺いました。ただ、本来は腕へ巻くものなのに、この絵では槍に結ばれています」
「ああ」
景虎の返事は早かった。
「これなら見たことあるぞ」
「本当ですか?」
明羽が一歩近づく。
「何でそんなに嬉しそうなんだよ」
「分からなかったことが分かりそうなのですから、当然でしょう」
「変なところに食いつく奴だな」
「大切なところです」
「そうかよ」
景虎は紙へ視線を戻した。
「これは出立するときにもらう紐だ。旅だろうが狩りだろうが戦だろうが、遠くへ行く奴に家族が渡す」
「やはり、無事を願うものなのですね」
「ああ。ただ、腕につけるとは限らねえ」
「そうなのですか?」
「腕につけると邪魔になるからな。戦に出る奴は、邪魔にならねえよう武器の柄の端に結ぶこともある」
景虎は紙に描かれた槍を指差した。
「帰ってきたら外して、家に残してあるもう一本と一緒に燃やす」
「もう一本?」
「同じ紐を二本作るんだよ。一つは出ていく奴が持って、もう一つは家に残す」
「では、絵巻物に家の入口へ結ばれていた紐も?」
「たぶんそれだ」
明羽の目が輝いた。
「なるほど……!」
書き写してきた絵を改めて眺める。
ただ赤い紐が描かれているだけだと思っていた。だが、その一本の向こうには、旅立つ者の帰りを待つ家族がいる。
そう考えると、同じ絵なのに先ほどとは違って見えた。
「絵巻物だけでは分かりませんでした」
「そりゃ絵だからな」
「ですが、こういうことを知ると、もっと面白くなります」
明羽は紙を胸元へ引き寄せた。
「朱雀では、白虎の異民族について書かれたもの自体があまり多くありません。私が読んだものも、戦の記録がほとんどでした」
「なら、ろくな書かれ方してねえだろうな」
「ええ。恐ろしい方々だと」
「戦の記録ばかりなら、そう見えても仕方ねえ」
「実際は違うのですか?」
「部族ごとに違う」
景虎は何でもないことのように答えた。
「喧嘩ばっかしてる連中もいりゃ、こっちから手ぇ出さなきゃ何もしねえ連中もいる」
「そうなのですね」
「畑耕して一日終わる奴もいりゃ、酒飲んで騒ぐ奴もいる。別に化け物が住んでるわけじゃねえ」
「随分と普通なのですね」
「人間なんだから普通だろ」
あまりにも当然のように言われ、明羽は一瞬黙った。
「……そうですね」
景虎が眉を寄せる。
「何だよ」
「いえ。景虎様が、そのようなお話をなさるとは思っていませんでした」
「あ?」
「朱雀では、景虎様についても色々と聞いておりましたので」
景虎は思い出したように眉間のしわを深くした。
「ああ。昨日、散々言ってたな。確か戦が上手くて、気性が荒くて、人の命を軽く見る危ねえ奴だったか?」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「本人に向かってあれだけ言われりゃ覚えるだろ」
「それもそうですね」
「納得すんな」
景虎は明羽を見た。
「で?」
「はい?」
「今も、俺をそういう奴だと思ってんのか?」
明羽はすぐには答えなかった。
まだ出会って二日目だ。
噂どおりだと思うところもあれば、そうではないところもある。
「まだ分かりません」
「あ?」
「お会いしてから、まだ二日目ですから」
「朱雀で色々聞いてきたんだろ?」
「聞いただけです。人から聞いたことや、書物に残っていることだけで、その方のすべてを決めるのは違うと思っています」
景虎が黙る。
「もちろん、朱雀で聞いていたことが、すべて間違っているとは思っていません」
「結局、危ねえ奴だとは思ってんじゃねえか」
「そういう一面はあるのかもしれません」
「お前な……」
「ですが、まだ二日です。景虎様がどんな方なのか、決めるには早すぎます」
「じゃあ、どうすんだよ」
「ですから、今見ているところです」
景虎の表情が止まった。
明羽は首を傾げる。
「何かおかしいでしょうか?」
「……変な奴」
「またそれですか」
「普通、本人にそこまで言わねえだろ」
「景虎様が聞いたのでしょう?」
「そうだけどよ」
「ならば私に非はありません」
「あるだろ」
「ありません」
明羽はきっぱりと言い切った。
景虎は呆れたように鼻を鳴らす。
明羽は本来の目的を思い出し、書き写した紙へ目を落とした。
「ともかく、ありがとうございました」
「あ?」
「護り紐のことです。景虎様に伺って正解でした」
明羽は嬉しそうに笑った。
「これで、続きをもっと楽しめそうです」
「…………」
景虎が黙る。
「景虎様?」
「……何でもねえ」
「そうですか?」
「ああ。もう用は済んだんだろ」
「はい」
「なら書物庫に戻れ」
「言われなくても戻ります。まだ読みたいものがたくさんありますので」
明羽は緋乃とともに歩き出した。
数歩進んだところで、後ろから景虎の声が飛んでくる。
「おい、朱雀姫」
明羽が振り返った。
「明羽です」
「どっちでもいいだろ」
「よくありません。名前は大切です」
「面倒くせえな」
「それで、何でしょう?」
景虎はわずかに間を置いた。
「白木でも分かんねえことがあったら、俺が知ってりゃ答える」
明羽の顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「俺が知ってりゃ、だ」
「ありがとうございます。では、また分からないことがありましたら――」
「遠慮はしろよ」
「どちらですか?」
「少しくらいしろって言ってんだ」
「難しいですね」
「どこがだ」
明羽は小さく笑うと、今度こそ書物庫へ向かって歩き出した。
景虎は、その背中をしばらく眺めていた。
――今見ているところです。
先ほどの言葉が、妙に耳に残っている。
「景虎殿下」
兵の一人に呼ばれ、景虎は明羽から視線を外した。
「次のお相手をお願いしてもよろしいでしょうか」
「ああ」
景虎は鍛錬用の槍を受け取る。
いつもなら、その瞬間には目の前の相手へ意識を切り替えられる。
だがこの日は、書物庫へ戻っていった朱雀の姫のことが、しばらく頭の片隅に残っていた。




