夕餉の席
結論から言えば、緋乃の予想は正しかった。
明羽は、帰ろうとしなかった。
「殿下」
「はい」
「そろそろお戻りになりませんか?」
「もう少しだけです」
「先ほども同じことをおっしゃいました」
「そうでしたか?」
「三回目です」
緋乃の声には、すでに諦めが混じっていた。
書物庫へ来てから、どれほど時間が経っただろう。明羽の前には読み終えた絵巻物が五巻積まれ、今は六巻目が開かれている。
白虎へ併合された異民族の地を舞台にした物語だった。
山間の村を守る若き武人と、敵方から逃げてきた青年。出会った当初は顔を合わせるたびにいがみ合っていた二人が、戦いを重ねるうちに少しずつ互いを認めていく。
だが、その武人は戦いで負った小さな傷から、知らぬ間に毒に侵されていた。
かつて異民族の間に伝わっていたという、極めて効きの遅い毒。小さな傷から体内へ入り、長い時間をかけて効き目を現すため、毒を受けた本人でさえ気づかないのだという。
もっとも、その製法は遠い昔に失われており、絵巻物の中でも「すでに途絶えた異民族の技」として語られているだけだった。
明羽はその記述にも興味を引かれたが、それ以上に気になっているものがある。
先ほどから、ある一場面を食い入るように見つめていた。
「緋乃」
「何でしょう」
「この二人、最初はあれほど仲が悪かったのですよ」
「そうなんですね」
「それなのに見てください」
明羽が絵巻物の一場面を指差す。
「雨宿りで同じ岩陰にいます」
「雨が降っているのですから、仕方ないでしょう」
「肩が触れています」
「岩陰が狭いのでは?」
「緋乃」
「はい」
「もう少し想像力を持ってください」
「殿下には想像力がありすぎるのです」
明羽は不満げに唇を尖らせた。
少し離れたところでは、書物庫の管理を任されている白木が、困ったような、それでいてどこか面白そうな顔で二人を眺めている。
最初こそ異国の皇女を相手に緊張していた白木だったが、明羽が絵巻物を読み始めてから、その警戒はすっかり薄れていた。
棚いっぱいに並ぶ白虎の歴史書を前にしても足を止めず、外交記録が収められている区画を遠目に見ても興味を示さない。求めるのは絵巻物ばかりだ。
人質として送り込まれた皇女というより、珍しい巻物を見つけて喜ぶ書物好きの少女にしか見えない。
「鳳院殿下は、本当に絵巻物がお好きなのですね」
白木が声をかける。
「はい!」
明羽は即答した。
「朱雀にも多くの絵巻物がありますが、国が違えば描き方も物語も全然違います。白虎のものは線が力強いですし、戦いや獣を描いた作品も多いですね」
「よくお気づきで」
「それに――」
明羽は手元の絵巻へ視線を戻した。
「殿方同士の距離も近いです」
「……はい?」
「殿下」
緋乃の低い声が飛んだ。
「何です?」
「白木様を困らせないでください」
「困らせてなどいません」
「困っています」
明羽が白木を見る。
白木は明らかに返答に困っていた。
「……申し訳ありません」
「い、いえ」
「でも近いですよね?」
「殿下」
「分かりました」
明羽は大人しく絵巻物へ視線を戻した。
ほどなくして、書物庫の入口から控えめな足音が近づいてきた。
「鳳院殿下」
声をかけられ、明羽が顔を上げる。
そこには白虎の女官が立っていた。
「はい?」
「夕餉のお時間でございます。陛下がお待ちですので、お支度をお願いいたします」
「夕餉……」
明羽は女官を見た。
それから、手元の絵巻物を見る。
もう一度女官を見て、やはり絵巻物へ戻った。
「殿下」
緋乃が先回りするように言った。
「駄目です」
「まだ何も言っていません」
「少しくらい遅れてもいいのでは、と考えましたね?」
「……なぜ分かったのです?」
「分かります」
緋乃は立ち上がった。
「白虎の皇帝陛下がお待ちなのです。絵巻物を優先するわけにはまいりません」
「分かっています」
明羽は名残惜しそうに絵巻物を見る。
まだ半分ほど残っている。武人と青年は、ようやく互いを認め始めたところだった。
ここからどうなるのか、非常に気になる。
「……続きが」
「明日読めます」
「誰かが先に読んだりしませんか?」
「先に読まれたところで、内容は変わりません」
「それはそうですが」
「戻しますよ」
「あと一場面だけ」
「夕餉です」
「…………」
明羽は絵巻物と緋乃を交互に見た末、観念して息を吐いた。
「分かりました」
ゆっくりと絵巻物を巻き戻していく。
「殿下」
「丁寧に扱っているのです」
「先ほどまではもっと速かったでしょう」
「気のせいです」
紐を結び、白木へ返す。
「こちら、明日も読めますか?」
「もちろんです」
「必ず残しておいてください」
「ええ。大丈夫ですよ」
白木が笑った。
「ありがとうございます」
明羽は最後まで絵巻物の棚を振り返りながら、書物庫を後にした。
◇
夕餉の席は、白虎皇城の奥にある大広間に設けられていた。
この日は明羽を迎える歓迎の意味もあり、普段の食事というより小規模な宴席に近い。中央には長い卓が置かれ、その上には肉料理や魚、野菜を使った料理が所狭しと並んでいる。
朱雀の宮廷料理と比べ、白虎の料理は豪快だった。肉は大きく切られ、焼いたものがそのまま皿へ盛られている。香辛料の匂いも強く、大きな酒器もいくつか置かれていた。
席についているのは皇族だけではない。宰相をはじめとした高官や、軍を預かる将たちの姿もある。
明羽は女官に案内され、客人として用意された席へ着いた。緋乃は少し離れた後方に控える。
正面奥に座っているのは、帝政白虎皇帝――白牙冥利。
その隣には第一妃の白牙蘭がいる。
そして、明羽にとって初めて見る女性の姿もあった。
白牙霞。
冥利の第二妃であり、白牙征吾と、現在は人質として青龍王国にいる白牙麗華の母である。
霞は身体が弱く、普段はあまり人前に姿を見せないという。線の細い、穏やかな雰囲気の女性だった。
麗華とは、四国の国境で人質と神器の受け渡しが行われた際に姿を見ている。霞を見ていると、どこか麗華と似た柔らかな雰囲気を感じた。
霞の近くには征吾が座り、皇太子の白牙景虎も席についている。
明羽が席に着くと、冥利が口を開いた。
「朱雀の姫よ。あの後、書物庫へ行っていたそうだな」
「はい。閲覧をお許しいただき、ありがとうございます」
「構わぬ。許可された範囲であれば、好きに使うといい」
「ありがとうございます」
明羽は頭を下げた。どうしても声が弾んでしまう。
冥利がそれに気づいたのか、口元を緩めた。
「ずいぶん気に入ったようだな」
「はい」
「そんなに面白いものがあったか」
「たくさんございました。特に異民族の地を舞台にした絵巻物が――」
「殿下」
後ろから緋乃の声が飛んできた。
明羽はぴたりと口を閉じる。
「……失礼いたしました」
冥利が笑った。
「いや。好きなものがあるのは悪いことではない」
それを合図にするように、食事が始まった。
白虎の料理は、見た目通り味も力強い。大皿の一つには、香草と香辛料をまぶして焼いた鶏肉も盛られていた。
明羽はそこには手を伸ばさず、隣の皿から獣肉を取る。
鳥と言葉を交わせるようになってから、鳥の肉だけは食べられなくなった。相手の言葉が分かるようになってしまうと、どうしても食べ物として見ることができない。
明羽は獣肉を一切れ口へ運んだ。噛んだ途端、思わず目を見開く。
「辛い……」
「朱雀じゃ香辛料をあまり使わねえのか?」
向かいから声がした。
景虎だった。
「使いますが、ここまで強くはありません」
「軟弱だな」
「そうでしょうか」
「この程度で辛がってたら、白虎じゃやっていけねえぞ」
「一年暮らすだけです」
景虎が舌打ちした。
明羽は気にすることなく、水を一口飲む。
景虎の視線が、明羽の前を通り過ぎて大皿の鶏肉へ向いた。
「そういや、お前」
「はい?」
「あの鳥はどうした」
明羽の手が止まった。
「鳥?」
「昼間に拾ってただろ。翼を怪我してたやつだ」
「ああ」
「どうなった」
「飛んで行きました」
「死んだか」
「違います」
明羽は即座に否定した。
景虎が眉を上げる。
「飛んで行ったんだろ?」
「はい」
「怪我してたじゃねえか」
「治りましたから」
後ろに控えていた緋乃の視線が、すぐさま明羽へ向いた。
明羽も失言に気づく。
「……と、思います」
「あ?」
「部屋でしばらく休ませていたのですが、窓を開けていましたら、いつの間にかいなくなっていました。元気になって飛んで行ったのでしょう」
「ふうん」
景虎は肉を口へ放り込んだ。
「猫に喰われたのかもな」
「…………」
明羽の動きが止まる。
景虎はその反応を見て、わずかに口元を上げた。
「何だよ」
「どうしてそういうことを言うのですか」
「可能性の話だろ」
「ありません」
「何で言い切れる」
「ありません」
「二回言ったな」
「元気に飛んで行ったのです」
「見てねえんだろ?」
「…………」
明羽が黙る。
「ほらな」
「ですが、猫には喰われていません」
「だから何で分かるんだよ」
「分かるものは分かるのです」
「意味分かんねえな」
景虎はそう言いながらも、どこか面白そうだった。
明羽は頬を膨らませる。
あの小鳥が元気に飛び立ったことは、明羽自身が一番よく知っている。もちろん、それをそのまま説明するわけにはいかなかった。
二人のやり取りを聞いていた蘭が、口元に笑みを浮かべる。
「景虎」
「あ?」
「せっかく助かった鳥なのですから、縁起でもないことを言うものではありませんよ」
「別に、本当に喰われたって言ったわけじゃねえだろ」
「同じようなものです」
穏やかな口調だったが、景虎はそれ以上言い返さなかった。
明羽は蘭へ顔を向ける。
「ありがとうございます」
「いえ」
蘭は柔らかく微笑んだ。
食事が半ばまで進んだ頃、冥利が杯を置いた。
わずかな音だったが、それだけで場の空気が変わる。高官たちの会話も止まり、明羽も顔を上げた。
「朱雀の姫よ」
「はい」
「貴殿にも関係のある話をしておこう」
皇帝の声音に、明羽は姿勢を正す。
「来月、我が白虎で武闘会を開く」
「武闘会……ですか?」
「ああ。和平条約に定められた異文化交流、その一環だ」
四国が結んだ和平条約は、人質と神器を預け合い、三年間の不可侵を約束するだけのものではない。
戦を避けるためには、相手を知らなければならない。その考えから、各国間で定期的な文化交流を行うことも定められていた。
「今回は白虎が主宰国となる。武を尊ぶ白虎らしく、各国の武人を集めて腕を競わせる」
「なるほど。盛大な催しになりそうですね」
「他人事のように言うな」
「違うのですか?」
「貴殿も出る」
「…………」
明羽が固まった。
後ろに控えていた緋乃も目を見開く。
「私が、戦うのですか?」
大広間が静まり返った。
景虎が真っ先に吹き出した。
「ははっ!」
「何ですか」
「お前が戦うのかよ」
「陛下がおっしゃったので」
「違う」
冥利が淡々と訂正する。
「武闘会そのものに出場しろという意味ではない」
「そうなのですね」
明羽は胸を撫で下ろした。
「各国に滞在している姫君たちも、文化交流の一員だ。武闘会には皆、列席してもらう」
「皆、集まるのですか?」
「ああ。現在それぞれの国に滞在している姫君たちには、一時的に白虎へ来てもらう」
明羽の目が大きくなる。
四国の国境で別れ、それぞれの国へ向かった姫たちが、再び白虎に集まることになる。
「それから、各国の次代を担う者たちにも招待を出している」
「次代を?」
「各国の後継者たちだ」
明羽は瞬きをした。
「朱雀からも来るのですか?」
「当然だ。貴殿の兄にも招待を出している」
「兄上も」
明羽の表情が明るくなった。
兄と離れてまだ日は浅い。とはいえ、人質としてこれから各国を巡る以上、そう簡単には会えないと思っていた。
「白虎が主宰する以上、中途半端な真似はせん」
冥利の声には絶対的な自信があった。
軍事大国である白虎が他国を招き、自らの文化である武を見せる。
単なる親善行事ではない。国の力と威信を示す場でもあるのだろう。それくらいは明羽にも分かる。
「承知いたしました」
明羽は姿勢を正し、頭を下げた。
「白虎の皆様にご迷惑をおかけしないよう、私も参加させていただきます」
「別に参加したくねえなら、無理してそんな顔すんなよ」
景虎が横から口を挟んだ。
「え?」
「本音は別なんだろ?」
明羽が景虎を見る。
「何のことでしょう」
「顔に出てる」
「…………」
「武闘会より、他にやりてえことがあるって顔だ」
図星だった。
だが、ここで認めるわけにはいかない。
「そのようなことは考えていません」
「へえ」
景虎が面白そうに口の端を上げる。
「じゃあ、何で黙った?」
「考えていただけです」
「何を?」
「……武闘会についてです」
「嘘くせえな」
「嘘ではありません」
「書物庫だろ」
「…………」
明羽は言葉に詰まった。
景虎がくつくつと笑う。
「やっぱりな」
「なぜ分かるのですか」
「顔見りゃ分かる」
明羽は納得がいかず眉を寄せた。
今日会ったばかりだというのに、どうしてこの男はこんな時だけ妙に察しがいいのだろう。
冥利はそんな二人を横目に見ながら、再び杯を手に取った。
来月、白虎皇城には四国の要人たちが集う。
和平が結ばれてから初めて行われる、大規模な文化交流。
各国の要人が一堂に会する以上、単なる武の競い合いだけでは終わらない。それぞれの国の立場や思惑も絡んでくるだろう。
明羽も朱雀皇国の皇女として、その場に立つことになる。
そう考えれば、気を引き締めなければならない。
もっとも、それは来月の話だ。
今の明羽には、書物庫に残してきた読みかけの絵巻物の方が気になっていた。
いがみ合っていた武人と青年は、ようやく互いを認め始めたところだった。
あの先で、二人はどうなるのだろう。
まだ夕餉の途中だというのに、その続きが明羽の頭から離れなかった。




