白虎の書物庫
緋乃が部屋へ戻ってきたのは、それからほどなくしてのことだった。
扉が開く音を聞くなり、椅子に座っていた明羽が勢いよく立ち上がった。
「さて、行きましょうか」
「まだ何も言っていません」
「でも、その顔は許可が下りた顔ですね」
「人の顔を勝手に判断しないでください」
緋乃は呆れたように言いながら扉を閉めた。明羽はじっとその顔を見つめる。
「それで?」
「……許可はいただけました」
「本当ですか!」
明羽の表情が一気に明るくなった。
「ただし、条件があります」
「何でも聞きます」
「今、即答しましたね?」
「書物庫へ行けるのであれば」
「そういうところが心配なのです」
緋乃は一度ため息を吐いてから、白虎側から伝えられた条件を説明した。
「立ち入りを許可された範囲から出ないこと。禁書や軍事関係の書物には触れないこと。書物を勝手に持ち出さないこと。そして、書物庫では白虎側の案内役の指示に従うこと」
「それだけですか?」
「それだけ、とは何ですか」
「もっと厳しい条件を想像していました」
「殿下は条約に基づいて、正式な客人として迎えられているのですから」
「なるほど」
「だからといって、何をしてもよいわけではありませんよ」
「分かっています」
緋乃はまだ何か言いたそうだったが、明羽の関心はすでに書物庫へ向いている。
「では、行きましょう」
「その前に、お着替えです」
「……着替え?」
「お忘れですか?」
緋乃が明羽の袖へ視線を落とす。
小鳥の翼を固定するために布を裂いたせいで、片方の袖は見るも無残な状態になっていた。
「あ」
「その格好で皇城内を歩くおつもりですか」
「駄目ですか?」
「駄目です」
「では、急いで着替えましょう」
「書物庫は逃げませんから、落ち着いてください」
「分かっています。急ぎます」
「それを落ち着いていないと言うのです」
緋乃は荷物の中から替えの衣を取り出した。
道中で白虎側の官僚が用意してくれた絵巻物は、たった一巻。それが想像以上に面白かったせいで、もっと読みたいという欲求は膨らむ一方だった。
そして今、その願いが叶おうとしている。
明羽は緋乃に手伝われながら手早く衣を替えると、改めて身なりを整えた。
「これでいいですね?」
「はい。今度こそ大丈夫です」
「では、参りましょうか」
「はい!」
明羽は勢いよく返事をした。
部屋を出ると、廊下には白虎側の女官が一人待っていた。緋乃が書物庫まで案内してもらえるよう、先ほど頼んでおいた女官だった。
「鳳院殿下、こちらへどうぞ」
「お願いします」
女官の後について、明羽と緋乃は客殿を出た。
白虎皇城の書物庫までは、歩いて十分ほどだった。途中、いくつもの回廊を通り抜けたが、明羽は周囲の装飾よりも、これから向かう先のことで頭がいっぱいだった。
「緋乃」
「何です?」
「書物庫には、どのくらい絵巻物があると思います?」
「存じません」
「百巻くらいでしょうか」
「さあ」
「一万巻?」
「さすがに多すぎるのでは」
「でも皇城ですよ?」
「皇城でもです」
緋乃の返事は冷たかったが、明羽はまったく気にしていなかった。
やがて三人は、石造りの大きな建物の前に到着した。
入口には白虎の兵が二人立っており、その横には一人の年配の男が待っている。
「鳳院殿下をお連れしました」
女官が男へ告げた。
「ありがとうございます」
男は女官へ一礼すると、今度は明羽へ向き直る。
「鳳院殿下ですね」
「はい」
「書物庫の管理を任されております、白木と申します。本日は私がご案内いたします」
「よろしくお願いいたします」
明羽は丁寧に頭を下げた。
白木は白髪交じりの髪を後ろで束ねた、落ち着いた雰囲気の男だった。皇城の役人というより、どこか学者を思わせる佇まいをしている。
ここまで案内してきた女官は、白木へ引き継ぎを終えると一礼してその場を離れた。
「すでに聞いておられるとは思いますが、閲覧していただけるのは一般書物の区画のみとなります。軍事、外交、神器に関する記録は対象外です」
「承知しています」
「また、書物は丁寧に扱っていただきますよう」
「もちろんです!」
返事だけは立派だった。
緋乃が隣で目を細める。
「……本当に分かっていますか?」
「分かっていますよ」
「絵巻物を見つけても走らないでくださいね」
「子供ではありません」
「それなら安心です」
白木が二人のやり取りを不思議そうに見ていた。
明羽は咳払いを一つする。
「では、お願いします」
「こちらへ」
白木が扉を開いた。
重い木製の扉が、低い音を立てながらゆっくりと動いていく。
その向こうを目にした明羽は、息を呑んだ。
「…………」
想像していたより、はるかに広い。
高い天井まで伸びる書棚が何列も並び、その一つ一つに書物や巻物が隙間なく収められている。奥まで見通せないほど棚が続き、ところどころに閲覧用の卓が置かれていた。
朱雀皇国にも当然、皇族や官僚が利用する書庫はある。だが、白虎の書物庫にはそれとはまた違った迫力があった。
単純な広さだけではない。
ここには、明羽の知らないものが詰まっている。
そう思っただけで、胸が高鳴る。
「……緋乃」
「はい」
「すごいです」
「そうですね」
「すごいです!」
「二度言わなくても聞こえています」
明羽は書物庫へ一歩踏み込み、左右から奥、高い書棚へと順に視線を巡らせた。
「これは歴史書ですか?」
「左手の棚が白虎国内の歴史関係、奥が文学となっております」
「文学」
明羽の足がぴたりと止まる。
白木が続けた。
「詩集、物語、戯曲、それから絵巻物などが――」
「絵巻物」
「殿下」
緋乃がすかさず明羽の袖を掴んだ。
「まだ何もしていませんよ?」
「先ほどのお約束を思い出していただいただけです」
「走りません」
「でしたら結構です」
明羽は何事もなかったかのように姿勢を整えた。
「絵巻物の場所を教えていただけますか?」
「え、ええ。こちらです」
案内された先には、他の棚よりも低い書棚が並び、巻物が一つずつ丁寧に収められていた。
その数を目にした明羽の足が止まる。
「…………」
「殿下?」
「緋乃」
「はい」
「私、ここに住みたいです」
「駄目です」
「まだお願いしていません」
「お願いされる前に断りました」
明羽は目の前の棚を見つめたまま動かない。
そこには、朱雀では見たことのない装丁の絵巻物がずらりと並んでいた。紐の結び方一つ取っても違う。軸の素材も様々で、木製だけでなく金属を用いたものまである。表題に使われている文字も、朱雀で一般的な書体とは微妙に異なっていた。
「……素晴らしい」
思わず声が漏れる。
明羽は一巻を指差した。
「こちらは?」
「白虎に古くから伝わる英雄譚ですね」
「こちらは?」
「古い恋物語です」
「では、これは?」
「白虎へ併合された異民族の地に伝わっていた説話を、絵巻にしたものです」
「異民族の説話ですか!」
明羽が勢いよく白木へ顔を向けた。
「その絵巻物をお願いします」
「は、はい」
勢いに押された白木が、わずかにたじろぐ。
「殿下、声が大きいです」
「すみません」
謝ってはいるものの、明羽の視線はすでに絵巻物から離れない。
白木から一巻を受け取ると、明羽は近くの閲覧卓へ向かった。慎重に紐を解き、ゆっくりと巻物を広げる。
「…………!」
明羽の顔が一気に輝いた。
最初に現れたのは、道中で目にした白虎の装いとも異なる、色鮮やかな衣装を身につけた二人の男だった。
一人は剣を持った若い武人。
もう一人は、その隣で笛を吹いている長髪の青年。
明羽は食い入るように絵を見る。
「緋乃」
「何です?」
「この二人」
「はい」
「近くありません?」
「何がです?」
「距離が」
「普通でしょう」
「普通ではありません」
「始まりましたね」
緋乃の声から感情が消えた。
明羽は気にせず、さらに絵巻物を広げていく。
「ほら、ここです。この武人、明らかに青年の方を見ています」
「敵が後ろにいるだけでは?」
「違います」
「なぜ断言できるのです?」
「目が違います」
「殿下の目ですか?」
「彼の目です」
緋乃は深く息を吐いた。
書物庫へ来ればこうなることなど、分かりきっていた。
「……今日は帰れそうにありませんね」
「何か言いました?」
「いいえ」
明羽はもう絵巻物へ意識を戻していた。
巻物を進めるたび、表情がころころと変わっていく。
「この構図、朱雀では見ませんね。背景の山の描き方も違います」
「そうですか」
「緋乃、ちゃんと見てください」
「見ていますよ」
「では、この山はどうです?」
「山ですね」
「それだけですか?」
どうやら明羽には不満らしい。
今度は白木へ顔を向ける。
「この絵師の他の作品はありますか?」
「確か、あと二巻ほど」
「二巻も!」
明羽が椅子から立ち上がりかけた。
緋乃がすかさず肩を押さえる。
「走らない」
「……まだ立とうとしただけです」
「その先まで分かります」
明羽は不満そうに座り直したが、口元の笑みだけはどうしても隠せない。
白虎での人質生活が始まったばかりだというのに、明羽が早くも心配していることが一つあった。
――たった一年で、ここの絵巻物を読み切れるでしょうか。
和平でも政治でもない。
今の彼女にとって、それが最大の問題だった。




