絵巻物を求めて
白虎皇城での出迎えを終えた明羽たちは、女官に案内されて客殿へと通された。
人質とはいえ、条約ではその扱いについて厳格に定められている。明羽に用意されたのは牢でも質素な一室でもなく、皇族の客人を迎えるにふさわしい部屋だった。
白い石壁に黒木の柱。床には厚手の敷物が敷かれ、窓辺には白虎特有の幾何学模様が彫り込まれている。中央には卓と椅子、その奥には寝台を置いた寝室があり、隣には緋乃のための小部屋まで用意されていた。
朱雀の宮殿と比べれば色彩は控えめだったが、決して華美さに欠けているわけではない。むしろ装飾を抑えた分、一つ一つの調度品には重厚さがあった。
「こちらを鳳院殿下のお部屋としてお使いください」
案内してきた白虎の女官が丁寧に頭を下げる。
「何かございましたら、廊下に控えております者へお申しつけください。殿下のお世話を担当する者にも、すでに話は通しております」
「ありがとうございます」
「夕餉の時刻になりましたら、改めてお迎えに参ります」
女官が退出すると、緋乃は扉が閉じたことを確認してから、大きく息を吐いた。
「……ようやく落ち着けますね」
「そうですね」
明羽も頷く。
その腕の中では、一羽の小鳥が大人しくしていた。
先ほど前庭で見つけた鳥である。翼には、明羽が自分の衣を裂いて作った簡単な添え木が巻かれている。
『いたい』
小鳥が弱々しく鳴いた。
「もう大丈夫ですよ」
明羽はそう言いながら、部屋の中央にある卓へ向かった。
緋乃が慌てて周囲を見る。
「殿下、少々お待ちください」
「誰もいませんよ?」
「だからといって、すぐにお使いになるおつもりですか?」
「そのために連れてきたのですが」
明羽は当然のように答えた。
前庭ではあまりにも人目が多かった。あの場で折れた翼を治してしまえば、いくら明羽が「少々変わった皇女」で通っているとはいえ、さすがに誤魔化せない。
だから応急処置だけを施し、部屋まで連れてきたのだ。
「念のため、もう一度確認します」
緋乃は窓を閉め、寝室や隣室まで見て回った。最後に扉がきちんと閉まっていることを確かめる。
「……大丈夫そうです」
「緋乃は心配性ですね」
「誰のせいだと思っているのですか」
「私でしょうか」
「分かっているなら結構です」
明羽は椅子へ腰掛け、小鳥を卓の上へそっと降ろした。
『とべない』
「すぐ飛べるようになりますよ」
『ほんと?』
「本当です」
明羽は翼に巻いた布を解いていく。
やはり折れている。羽毛の下には腫れも見えた。
明羽は小鳥の身体を両手で優しく包み込み、意識を集中した。
掌から、赤金色の炎が噴き上がる。
小鳥の身体が瞬く間に炎へ包まれた。
見た目だけなら、今にもその小さな身体を焼き尽くしそうだった。だが、不思議な炎に熱はない。羽毛一本焦がすことなく、傷ついた身体へ吸い込まれるように揺らめいている。
「何度見ても心臓に悪いですね、それ」
緋乃が顔をしかめた。
「綺麗ではありませんか?」
「そういう問題ではありません」
炎の中で、不自然に曲がっていた翼が少しずつ元の位置へ戻っていく。腫れもみるみる引き、折れていた骨まで、まるで最初から傷ついていなかったかのようにつながっていった。
ほどなくして、赤金色の炎が細かな火の粉となって消える。
ほんの数呼吸ほどの出来事だった。
『……いたくない』
小鳥が翼を動かす。
『いたくない!』
「よかったですね」
明羽が手を離すと、小鳥は卓の上で何度か羽ばたいた。そのまま嬉しそうに飛び上がり、部屋の中を一周する。
『とべる! とべる!』
「殿下」
緋乃は嬉しそうな鳥ではなく、明羽の方を見ていた。
「何です?」
「やはり、その力はあまりお使いにならない方がよろしいかと」
「誰にも見られていませんよ」
「今回は、です」
緋乃は声を落とした。
「傷を瞬く間に治せるうえに、あれほど目立つ炎まで出るのですよ。白虎の者に知られれば、殿下をただの人質として見なくなる者が出てくるかもしれません」
「……でしょうね」
「朱雀でも同じです。焔司陛下や翔義様が殿下を道具のように扱うとは思いません。ですが、軍部や一部の貴族まで同じとは限りません」
戦場で傷ついた兵を短時間で治せる力。
その価値がどれほど大きいのかは、明羽にも分かっている。だからこそ、この力のことは誰にも明かしてこなかった。
「分かっています」
「でしたら――」
「ですが」
明羽は飛び回る小鳥へ目を向けた。
「救えるのに見捨てるのは、もっと嫌です」
緋乃は何も言えなくなった。
こういう時だけ、この主人は妙に頑固になる。
普段は絵巻物だの、武将同士のただならぬ関係だのと騒いでいるくせに、命に関わることだけは譲らない。
小鳥は窓辺へ降りると、閉じられた窓を見た。
『そと』
「ああ、そうですね」
明羽が窓を開けると、小鳥は窓枠へ飛び乗った。
「今度は怪我をしないようにしてくださいね」
『ありがと!』
「どういたしまして」
小鳥は元気よく羽ばたき、白虎の空へ飛んでいった。
明羽はその姿が見えなくなるまで見送ってから、窓を閉めた。
「さて」
その一言に、緋乃の顔が曇る。
「殿下」
「何でしょう?」
「今日はもう、お休みください」
「まだ何も言っていませんよ?」
「分かります」
「まだ昼過ぎですよ」
「三日間も馬車に揺られ、先ほど白虎皇帝陛下へのご挨拶を終えたばかりです。今日はこの部屋で大人しくしているべきです」
「なるほど」
明羽は素直に頷いた。
緋乃は警戒した。
こういう時の明羽は怪しい。
「ですので、今日は――」
「書物庫へ行きましょう」
「行きません」
即答だった。
「まだ白虎へ来たばかりですよ?」
「だからです」
「意味が分かりません」
「白虎の絵巻物たちが私を待っているかもしれません!」
明羽は目を輝かせた。
「待っていません」
「なぜ断言できるのです?」
「絵巻物は人を待ちません」
「そんなことはありません」
「あります」
明羽はむっと頬を膨らませた。
白虎の絵巻物は、ここへ来る前から楽しみにしていた。
三日間の道中では、長い移動の退屈を紛らわせるためにと、白虎側の官僚が一巻だけ絵巻物を用意してくれていた。
たった一巻。
だが、それがいけなかった。
朱雀で見慣れたものとは異なる人物の描き方や衣装、物語の運び。それを読み終えた頃には、明羽の中で白虎の絵巻物に対する興味は、抑えきれないほど膨らんでいた。
一巻読めば、当然もっと読みたくなる。
ましてや、ここは白虎皇城である。
書物庫には、明羽がまだ見たこともない絵巻物がいくつも眠っているかもしれない。
ならば、見に行きたいと思うのは当然だった。
「少しだけです」
「駄目です」
「見るだけです」
「駄目です」
「触りません」
「絶対に触ります」
「では、一巻だけ」
「交渉になっていません」
緋乃は腕を組んだ。
「今日はお休みください。書物庫については、明日にでも白虎側へ確認いたします」
「今日がいいです」
「駄目です」
「緋乃」
「駄目なものは駄目です」
明羽は黙って緋乃を見つめた。
普通に頼んでも無理らしい。
ならば、仕方がない。
「緋乃」
先ほどより柔らかな声で名前を呼ぶ。
「何ですか」
「こちらを見てください」
「嫌です」
「なぜです?」
「何となくです」
緋乃が明羽から顔を逸らす。
明羽は椅子から立ち上がると、その正面へ回り込んだ。
「……殿下?」
「お願いがあります」
「もう聞きました」
明羽は一歩近づく。
緋乃が半歩下がった。
「近いです」
「そうですか?」
「近いです」
明羽は少し身をかがめ、緋乃と視線の高さを合わせた。
艶やかな黒髪が肩からさらりと流れる。
そして明羽は、何をすれば自分の頼みが通りやすくなるのか、きちんと分かったうえで微笑んだ。
「緋乃」
「…………」
「書物庫へ、行きたいです」
「…………」
「お願い」
緋乃の頬が引きつった。
「殿下」
「はい?」
「その顔を使うのは卑怯です」
「何のことでしょう?」
「分かってやっていますよね?」
「さあ?」
明羽はもう一度微笑んだ。
緋乃はしばらく耐えていたが、ついに深いため息を吐く。
「……行けるとは言っていませんからね」
「では?」
「白虎側の世話役の方に、書物庫へ入ってよいか確認してきます」
明羽の表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます、緋乃!」
「本当にずるい人ですね、殿下は」
「何がです?」
「ご自分の顔がどれほど強力か、絶対に理解して使っています」
「皇女ですから、使えるものは使えと兄上に教わりました」
「翔義殿下は、絶対にこういう意味ではおっしゃっていません」
「そうでしょうか」
「そうです」
緋乃はぴしゃりと言い切ると、扉の方へ向かった。
「いいですか。私が戻るまで絶対にこの部屋から出ないでください」
「分かっています」
「窓からも出ないでください」
「出ませんよ」
「鳥について行ったりもしないでください」
「私は飛べません」
「そういう問題ではありません」
緋乃は最後まで不安そうに明羽を見ていた。
「本当に大人しくしていてくださいね」
「はい」
「……本当に?」
「信用がありませんね」
「日頃の行いです」
緋乃はため息を残し、白虎側の世話役に書物庫の利用許可を取るため、部屋を出ていった。
扉が閉じると、明羽はしばらくその場に立っていた。
次第に口元が緩んでいく。
「書物庫……」
道中で読んだ一巻だけでも、あれほど面白かったのだ。
書物庫へ行けば、どれほどの絵巻物があるのだろう。見たことのない絵師の作品も、知らない物語も、まだいくつも眠っているかもしれない。
「ふふっ……」
明羽は堪えきれず笑った。
つい先ほどまで元敵国の皇族たちを前に堂々と振る舞っていた皇女はどこへやら。今の明羽の頭を占めているのは、ただ一つ。
――早く書物庫へ行きたい。
緋乃がどんな返事を持って戻ってくるのか。
明羽は期待に目を輝かせながら、扉の向こうを何度も見つめていた。




