人質生活一年目:白虎
四国国境で人質と神器の受け渡しを終えてから、三日。
鳳院明羽を乗せた馬車は、ようやく帝政白虎の都・銀嶺府へと入った。
銀嶺府は、ここまで通ってきた町々よりもさらに大きく、整然としていた。
三日間の道中で目にした白虎の町には、朱雀とは異なる石造りの建物が多く、白や灰、黒といった落ち着いた色合いが目立っていた。その特徴は銀嶺府でも同じだったが、建物の規模も数も比べものにならない。
朱塗りの柱や鮮やかな瓦、季節の花に彩られた朱雀の都とは対照的に、銀嶺府には堅牢さを重んじた建物が立ち並んでいる。そして何より、道が驚くほど広い。大通りなど、馬が何頭も横一列になって走れそうなほどだった。
「馬が十頭並んでも走れそうですね」
馬車の窓から外を眺めながら、明羽が感心したように言った。
「軍勢を素早く動かすためでしょう」
向かいに座る緋乃が答える。
「なるほど」
「感心するところですか?」
「便利そうではありませんか」
「殿下はもう少し、自分がどこに来たのか自覚してください」
緋乃は、この三日ですっかり増えたため息をまた一つ吐いた。
都へ入ってからというもの、通りの左右には白虎の兵士が等間隔に立ち並んでいる。朱雀第一皇女を迎えるための警備であると同時に、人質の受け入れと条約の開始を民へ示す意味もあるのだろう。
沿道には多くの人々が集まっていたが、歓迎している者ばかりではなかった。好奇心から馬車を覗き込む者、無表情で見つめる者、そして隠そうともせず敵意を浮かべる者もいる。
何百年も殺し合ってきた国の皇女が、ついこの間まで敵だった相手から突然「客人」になったのだ。すぐに受け入れろという方が無理なのかもしれない。
「緋乃」
「はい」
「あの屋台、何を売っているのでしょう」
「今ですか?」
「あれです。串に刺さっている赤いもの」
「知りません」
「辛そうですね」
「見れば分かります」
「食べてみたいですね」
「殿下」
「冗談です」
「目が本気です」
明羽は名残惜しそうに屋台を見送った。
緋乃としては、これほど図太い主人でよかったと思うべきなのかもしれない。少なくとも、敵国へ送られた恐怖で塞ぎ込まれるよりはずっといい。
馬車は大通りを抜け、やがて巨大な城門へ差しかかった。
白虎皇城。この国の皇帝が住まい、政治の中心でもある場所だ。
朱雀の宮城が優美さを重んじているとすれば、白虎皇城は巨大な要塞そのものだった。高い石壁に囲まれ、門は幾重にも設けられている。城壁の上には弓を携えた兵の姿まであり、何世紀にもわたり戦争を続けてきた国らしい造りだった。
「……すごいですね」
さすがの明羽も声を落とした。
「お気に召しましたか?」
「籠城には向いていそうです」
「感想が皇女らしくありません」
「では、美しいですね」
「今さら取り繕わなくて結構です」
重々しい音を立てて城門が開き、馬車は白虎皇城の中へと進んだ。
広大な前庭には、すでに多くの者が並んでいた。武官、文官、女官、そして白虎の皇族たち。馬車が止まると、白虎の役人が扉を開け、深く頭を下げた。
「到着いたしました」
明羽は手にしていた絵巻を緋乃へ預けると、ゆっくり立ち上がった。
「曲がっていませんか?」
「何がです?」
「髪飾り」
「大丈夫です」
「衣は?」
「大丈夫です」
「顔は?」
「そこは私にはどうしようもありません」
「どういう意味ですか?」
「そのままで十分という意味です」
「最初からそう言ってください」
緋乃が明羽の衣を軽く整える。
つい先ほどまで馬車の中で絵巻を広げていた少女とは思えないほど、明羽の雰囲気が変わった。背筋を伸ばし、表情を穏やかに整える。
そのまま馬車から足を下ろした瞬間、周囲に小さなどよめきが広がった。
鳳院明羽は、ただ黙っていれば天下随一。
朱雀では半ば冗談交じりにそう言われているが、その美貌そのものを疑う者はいない。艶やかな黒髪に透き通るような肌、整った目鼻立ち。十五歳らしい幼さを残しながらも、皇女として育てられた気品を備えている。
明羽自身も、自分の容姿が人目を引くことくらいは分かっていた。だが、それを大したことだと思ったことはない。「天下随一」という兄たちの評も、身内ゆえの大げさな言い方だと半ば本気で思っている。
集まる視線を気にした様子もなく、明羽は正面へ進んだ。
その先で待っていたのは、一人の男だった。
「遠路ご苦労であった。朱雀の姫よ」
白牙冥利。
帝政白虎の皇帝である。
五十を越えているはずだが、背筋はまっすぐ伸びている。戦場へ出れば、今でも兵を率いられそうな体格をしていた。
十年前、大規模な軍拡を主導した男。朱雀ではそう教えられている。
もっと恐ろしい顔を想像していた明羽だったが、実際の冥利は意外なほど穏やかな表情を浮かべていた。
明羽は丁寧に礼を取る。
「朱雀皇国第一皇女、鳳院明羽でございます。この一年、白虎皇帝陛下のお世話になります」
「うむ。条約の定めに従い、そなたの身柄は我が帝国が責任を持って預かる。朱雀の皇女だからと不当に扱う者がいれば、余が許さん」
「ありがとうございます」
少なくとも、明羽が想像していた「敵国の皇帝」とはずいぶん違っていた。
冥利の隣には、一人の女性が立っている。
白牙蘭。第一妃であり、皇太子景虎の母である。
「長旅で疲れたでしょう。部屋も用意させています。必要なものがあれば、遠慮なく申しつけなさい」
「お気遣い、感謝いたします」
蘭の声音も柔らかかった。
明羽は内心、少しだけ肩透かしを食らっていた。白虎の者はもっとこう、会った瞬間に剣でも抜いてくるような人々なのかと思っていたのだ。
もちろん、そんなはずはない。
ないのだが。
「……これが朱雀の第一皇女ですか」
低い声が聞こえた。
明羽が視線を向けると、冥利から少し離れたところに一人の青年が立っていた。
白牙征吾。
第二妃の子であり、皇帝の次男。十七歳。
端正な顔立ちをしているものの、その目は笑っていなかった。
「思ったより普通ですね」
「征吾」
冥利の声が低くなる。
「失礼しました、父上」
口では謝りながらも、征吾に反省した様子はない。
明羽は少し考えてから尋ねた。
「普通に見えましたか?」
征吾が眉を寄せる。
「……何?」
「安心しました」
「何がだ」
「兄上からは、黙っていれば天下随一などと言われますので。白虎では普通程度なら、気楽に過ごせそうです」
後ろに控えていた緋乃が、小さく息を呑んだ。
征吾も返答に困ったのか、一瞬だけ黙り込む。
「……馬鹿にしているのか?」
「いいえ?」
明羽は不思議そうに首を傾げた。
冥利が口元を押さえ、蘭もわずかに顔を背ける。征吾だけが露骨に不快そうな顔をしていた。
その時、城内へ続く門の向こうから、突然怒号が響いた。
「どけ!」
続いて、何かが倒れる音がする。
前庭にいた者たちが一斉に振り返り、明羽もそちらへ視線を向けた。
大きな門の向こうから、一人の青年が歩いてくる。
黒を基調とした衣に、長身の身体。乱雑に束ねられた黒髪。肩には一本の槍を担いでいる。
何より明羽の目を引いたのは、衣に付着した赤い染みだった。
血だ。
青年自身に傷らしいものは見当たらない。少なくとも、その血のほとんどは彼自身のものではなかった。
「景虎」
冥利が低い声で名を呼ぶ。
白牙景虎。
帝政白虎の皇太子。
十八歳にして幾度もの戦場で勝利を重ね、複数の異民族領を白虎へ併合した戦の天才。そして今日から一年間、明羽が暮らす国の次期皇帝でもある。
景虎は並んでいる官僚たちにも、父である皇帝にも構わず歩いてきた。
「遅い」
「知るか」
「今日は何の日だと思っている」
「朱雀から人質が来る日だろ」
「分かっているなら、なぜ遅れた」
「鍛錬してた」
「その血は何だ」
「俺のじゃない」
「そういう問題ではない!」
皇帝の怒鳴り声が前庭に響いた。
明羽は目を瞬かせる。
「親子喧嘩でしょうか」
「殿下、黙っていてください」
緋乃が小声で言った。
「はい」
景虎がようやく明羽へ視線を向けた。
二人の目が合う。
景虎はしばらく無言のまま明羽を眺めると、その視線を頭から足元までゆっくり動かした。
「……お前が朱雀の姫か」
「はい。鳳院明羽と申します」
「小さいな」
緋乃の眉がぴくりと動く。
明羽は自分の身体を見下ろした。
「十五歳ですので、これから伸びる可能性はあります」
「そういう意味じゃねえ」
「では、どういう意味でしょう?」
景虎が黙った。
今度は景虎の方が返答に困ったような顔をする。
その様子を見ていた冥利が深いため息をついた。
「景虎。まず挨拶をしろ」
「面倒だ」
「しろ」
「……白牙景虎だ」
「存じております」
「そうか」
「有名ですから」
「何て聞いてる?」
明羽は少し考えた。
「戦がお上手で」
「ああ」
「気性が荒く」
「ああ」
「人の命を軽く見ていて」
「ああ」
「近づくと危険だと」
「おい」
緋乃が頭を抱えた。
景虎はしばらく明羽を見つめた後、突然鼻で笑う。
「はっ。朱雀じゃ、俺は化け物扱いか」
「多少は」
「怖くねえのか?」
景虎は明羽へ一歩近づいた。
周囲の兵士たちがわずかに身構える。緋乃も反射的に半歩前へ出て、右手を腰元へ添えた。
だが、明羽本人はその場から動かなかった。
景虎はさらに近づき、二人の距離は数歩ほどになる。衣に付いた血の匂いまで、明羽の鼻に届いた。
「俺がお前を殺すかもしれねえぞ」
「条約違反になりますね」
「条約なんざ破ればいい」
「皇太子殿下がそれをおっしゃってよいのですか?」
「俺はあんなもの認めてねえ」
「景虎」
冥利の低い声が割り込んだ。
先ほどまでとは違う、皇帝としての声音だった。
「条約を破るなどと、皇太子が軽々しく口にするな」
「今すぐ破るって言ってるわけじゃねえ」
「冗談でもだ」
「……ちっ」
景虎は舌打ちした。
それから改めて明羽を見下ろす。
「それでも怖くねえのか?」
「多少は」
「襲われたらどうする」
「逃げます」
「戦わねえのか」
「勝てそうにありません」
「泣いて命乞いは?」
「必要ならします」
あまりにも普通の返答だったからか、景虎の眉がわずかに動いた。
「……変な女だな」
緋乃は心の中で大きく頷いた。初対面の相手にまで、もう気付かれてしまったらしい。
だが明羽は納得していなかった。
「初対面の方に言われるのは心外です」
「自覚ねえのか」
「ありません……いや、少しはあるかもしれません」
「あるんじゃねえか」
「少しだけです」
「十分だろ」
景虎は鼻で笑い、明羽の横を通り過ぎようとした。
『たすけて』
不意に、小さな声が聞こえた。
明羽が振り返る。
『いたい』
人の声ではない。
前庭の端にある低木の陰で、一羽の小鳥が地面にうずくまっていた。片方の翼が不自然な方向へ曲がっている。
「殿下?」
緋乃が呼び止めるより先に、明羽はそちらへ歩き出した。
「おい」
景虎が振り返る。
明羽は低木の前でしゃがみ込んだ。小鳥は怯えたように身体を震わせている。
『いたい。とべない』
「大丈夫ですよ」
明羽はそっと手を伸ばす。
『こわい』
「何もしません」
「……何やってんだ、お前」
背後から景虎の声がする。
「鳥が怪我をしています」
「だから?」
「怪我をしています」
「見りゃ分かる」
景虎は興味なさそうに鳥を一瞥した。
「放っとけ。その程度なら、そのうち死ぬ」
明羽の手が止まった。
緋乃の表情が固まり、冥利と蘭も景虎へ視線を向ける。しかし景虎には悪びれた様子がない。
「飛べねえ鳥なんざ、どうせ生き残れねえだろ」
明羽はしばらく鳥を見つめた後、ゆっくりと景虎を振り返った。
「皇太子殿下」
「あ?」
「それは、鳥が決めることです」
「何?」
「この子は、まだ生きたいと思っていますから」
明羽の声音は穏やかだった。怒鳴っているわけでもなければ、景虎を責めるような口調でもない。
それでも、景虎の表情から笑みが消えた。
「……鳥が決める?」
「はい」
景虎は地面の小鳥を見てから、再び明羽を見る。
「お前、鳥の気持ちが分かんのか?」
「ええ、まあ」
「…………」
「何です?」
「いや。朱雀の姫ってのは、ずいぶん変わってんなと思ってな」
「よく言われます」
緋乃は密かに安堵した。
明羽が鳥へ話しかけること自体は、朱雀でも知られている。周囲の者たちは皆、明羽が一方的に鳥へ話しかけ、その鳴き声や仕草から勝手に気持ちを読み取っているのだと思っていた。
本当に会話が成立しているなどとは、誰も考えていない。それでいい。少なくとも、今は。
明羽は再び小鳥へ向き直り、傷ついた翼を慎重に確認した。
骨が折れている。
本来なら、このままでは飛ぶことは難しいだろう。
治すことはできる。明羽が触れ、そう望めば、おそらくすぐにでも。
だが、ここには人が多すぎた。
明羽は一瞬だけ迷った後、自分の袖の端を細く裂いた。
「殿下!?」
「衣なら、あとで直せます」
「そういう問題ではありません!」
近くに落ちていた細い枝を拾い、添え木代わりにして翼へ当てる。それを裂いた布で固定していった。
もちろん、これで完全に治るわけではない。それでも何もしないよりはましだろう。
『いたい』
「少し我慢してください」
『とべる?』
「きっと」
明羽は鳥を両手で包み込むように持ち上げた。
その様子を、景虎がじっと見ている。
一羽の鳥。飛べなくなれば死ぬかもしれない命。
景虎にとって、それは取るに足らないものだった。戦場では人間でさえ驚くほど簡単に死ぬ。強い者が生き、弱い者が死ぬ。それが彼にとっては当たり前のことだった。
なのに、この少女はそんな命に本気で手を差し伸べている。
「……馬鹿じゃねえの」
景虎が呟いた。
明羽が振り返る。
「よく言われます」
「認めんのかよ」
「兄上からは、もっとひどいことを言われますので」
「例えば?」
「頼むから何もするな、と」
「正しいな」
「ですが、救える命は何が何でも救え、とも言われています」
景虎は一瞬だけ明羽を見つめ、それから再び笑った。
先ほどまでの荒々しい笑い方とは、ほんの少しだけ違っていた。
朱雀から送られてきた人質。
綺麗なだけの皇女。
景虎は最初、明羽をその程度にしか考えていなかった。
だが、どうやら違うらしい。
「おい、朱雀姫」
「明羽です」
「どっちでもいい」
「よくありません」
「お前、一年間ここにいるんだよな」
「条約が守られれば」
「そうか」
景虎は口元を吊り上げた。
「退屈はしなさそうだ」
「私は静かに暮らしたいのですが」
「無理だろ」
「なぜです?」
「知らねえよ。何となくだ」
緋乃は心の中で激しく同意した。
この二人は、できればあまり近づけない方がいい。なぜかは分からない。それでも、そんな予感だけは妙にはっきりとしていた。
そして、その予感が正しかったことを、緋乃はこれから一年をかけて嫌というほど思い知ることになる。
こうして鳳院明羽の人質生活一年目――帝政白虎での日々が始まった。




