朱雀姫
かつて、この大陸には終わりの見えない戦があった。
朱雀皇国、王政白虎、青龍王国、玄武合区。四つの国はそれぞれ異なる文化と歴史を持ちながら、何世紀にもわたって争い続けてきた。
国境を奪えば、翌年には奪い返される。一つの城を落とせば、報復として二つの村が焼かれる。父が死ねば子が剣を取り、その子が死ねば孫がまた戦場へ向かう。
なぜ戦っているのか。それすら、とうの昔に分からなくなっていた。ただ、相手が敵だから戦う。それだけだった。
そんな戦乱の末期、王政白虎では大きな変化が起きていた。
王太子・白牙景虎が軍を率い、複数の異民族領を次々と併合したのである。若くして幾度もの戦場で勝利を重ねた景虎の名は、白虎のみならず、他の三国にも広く知れ渡ることとなった。
そして、その直後。
四国に初めて本格的な和平の機会が訪れた。
後に四国不可侵条約と呼ばれることになる、前代未聞の取り決めである。
内容は単純だった。三年間、互いの国を侵略しない。その証として、それぞれの国は統治者の直系にあたる姫を一人、他国へ預ける。そして各国が所有する三つの神器のうち、二つを別々の国へ預ける。
神器とは、太古より各国に伝わる三種の遺物である。国によって形も力も異なるが、いずれも常識では説明できない力を秘めており、正式な統治者の継承にも欠かすことのできないものだった。
つまり、姫と神器。血と権威。その二つを互いに預け合うことで、四国すべてが相手国に喉元を握らせる。
裏切れば、自分たちも無事では済まない。
そうして初めて、何百年も続いた四国間の戦争は止まった。
条約締結後、複数の異民族領を併合して大きく領土を広げた王政白虎は国制を改め、帝政へと移行した。
帝政白虎。
それが現在の白虎である。
もちろん、誰もが和平を歓迎したわけではない。戦争で地位を得た者、他国を憎む者、自国こそが世界を支配すべきだと考える者。条約を屈辱と呼ぶ者も少なくなかった。
だからこそ、条約には細かな規則が定められた。
人質となった姫を粗雑に扱ってはならない。同行を許される従者は一人だけ。預けられた神器の封を破り、中を見たり、直接触れたりしてはならない。そして一年ごとに、人質の滞在国と各国が預ける神器を入れ替える。
さらに、条約期間中には四国の者たちが互いの文化を知るため、年に四度、四国が一度ずつ持ち回りで異文化交流の場を設けることも定められていた。
また、条約期間中に統治者が亡くなるなどして継承儀礼が必要となった場合には、四国の国境地点へ必要な神器を集め、四国すべての監視のもとで儀礼を執り行う。
三年間。
四つの国が互いを知り、それでもなお和平を望むのか。その答えを出すための時間だった。
――そんな歴史的な条約の人質として選ばれた少女がいる。
「緋乃、見てください」
「嫌です」
「まだ何も言っていませんよ?」
「殿下がそういう顔をされている時は、ろくなことではありませんので」
朱雀皇国第一皇女、鳳院明羽。十五歳。
四国の国境で行われた人質と神器の受け渡しを終え、明羽を乗せた朱塗りの馬車は白虎へと向かっていた。
向かいに座っているのは南條緋乃。明羽と同じ十五歳であり、今回ただ一人同行を許された従者兼侍女である。艶やかな黒髪を整え、背筋を伸ばして座る姿は、主人である明羽よりよほど落ち着いて見えた。
「ひどいですね。私はただ、素晴らしい発見をお伝えしようとしただけなのに」
「その発見とは?」
「この絵巻の右端にいる武将と、少し前に出てきた若武者ですが」
「はい」
「もしかすると、ただならぬ関係なのではないかと」
「しまってください」
「まだ考察の途中です」
「今すぐしまってください」
緋乃は即答し、明羽は名残惜しそうに絵巻を丸めた。
四国の和平を背負う第一皇女。これから長年敵国だった白虎で、人質として一年を過ごす少女。そう聞けば、さぞ悲壮な顔を浮かべていると思うだろう。
実際、朱雀を発つ際には何人もの女官が涙を流した。父である帝も何度も言葉を詰まらせ、母は笑顔で送り出したものの、最後まで明羽の手を離そうとしなかった。
皇太子である兄など、別れ際に、
『頼むから
何もするなよ
朱雀姫』
などという謎の句まで詠んだ。
「兄上、季語がありません」
明羽がそう指摘すると、
「問題はそこではない!」
と怒鳴られた。
明羽としては納得がいかなかった。
「しかし、白虎の絵巻文化は興味深いですね。朱雀とは人物の描き方がかなり違うそうです」
「殿下」
「特に近年は異民族領を併合した影響で、様々な画法が――」
「殿下」
「はい」
「これから一年間、白虎で暮らすのですよ」
「知っています」
「条約が結ばれるまでは敵国だった場所です」
「それも知っています」
「少しは緊張してください」
明羽は窓の外へ視線を向けた。見慣れた朱雀の景色は、すでに遠い。これから向かうのは、何百年にもわたって朱雀と刃を交えてきた白虎だ。
朱雀では、白虎の者は粗暴で好戦的だと教えられる。白虎では、おそらく朱雀の者について似たようなことを教えているのだろう。
「緊張していないわけではありませんよ」
明羽が静かに言うと、緋乃は少し意外そうな顔をした。
「怖くないのですか?」
「少しは」
「でしたら――」
「でも、知らないまま嫌う方が嫌です」
緋乃は口を閉じた。
明羽は再び窓の外を眺める。
「白虎の人たちは本当に恐ろしいのか。青龍の人たちは本当に堅物なのか。玄武の人たちは本当に何でも国のために考えるのか」
「……殿下」
「せっかく行くのですから、自分の目で見てみたいです」
その言葉だけを聞けば、立派な皇女だった。緋乃はわずかに感心しかける。
「それに、各国にしかない絵巻もたくさんあるでしょうし」
「返してください。今の感心を返してください」
明羽は不思議そうに首を傾げた。
その時、馬車の窓の外を一羽の小鳥が横切った。灰色の羽をした鳥で、馬車と並ぶように飛びながら明羽へ顔を向ける。
『ねえ、ねえ』
明羽の耳に声が届いた。
人の言葉ではない。だが明羽には、その意味が分かった。
『この先、人、いっぱい』
「そうですか」
『怖い顔の人もいる』
「それは困りましたね」
『とっても怖い』
「どのくらいです?」
『猫より怖い』
「それは相当ですね」
向かいの緋乃が額を押さえた。
「殿下」
「はい?」
「また鳥とお話しされていますね」
「少しだけです」
「白虎では絶対にお控えください」
「なぜです?」
「余計な誤解を招くからです!」
鳥は楽しそうに鳴きながら飛び去っていった。明羽はその姿を見送りながら、幼い頃の出来事を思い出す。
彼女には、人には言えない秘密があった。
幼い頃、好奇心に負けた明羽は、誰にも見つからないよう朱雀に伝わる三つの神器に触れた。本来ならば、皇族であっても勝手に触れてよいものではない。
その場にいたのは、明羽と緋乃だけ。あの日の出来事を知る者は、今も二人以外にはいない。
そして神器に触れた後、明羽の身体には三つの異変が起きた。
一つ目の神器に触れてから、鳥の言葉が分かるようになった。二つ目に触れてからは、遥か遠くにあるものや、素早く動くものまで異常なほど鮮明に見えるようになった。
そして三つ目。傷を負っても瞬く間に癒えるようになり、明羽が望めば他人の傷まで癒すことができるようになった。
三つの力が神器によって与えられたものなのか。それとも、神器が明羽の中に眠っていた何かを目覚めさせただけなのか。それすら分からない。
鳥と話している姿だけは、その後たびたび人に見られてしまった。そのため宮中では「第一皇女は、少々変わっている」ということで話が収まっている。
残る二つの力については、緋乃以外の誰にも知られていない。もし知られればどうなるのか。皇女として保護されるだけで済むとは、明羽にも思えなかった。
「殿下」
「何です?」
「今、また何か余計なことを考えていませんでしたか?」
「失礼ですね」
「妙に静かでしたので」
「少し考え事をしていただけですよ」
明羽はそう答えながら、窓枠に頬杖をついた。
先ほど国境で顔を合わせた者たちも、今頃はそれぞれの目的地へ向かっているはずだ。
朱雀から白虎へ向かう明羽。白虎から青龍へ。青龍から玄武へ。玄武から朱雀へ。
それぞれの国から送り出された少女たちは、これまで敵と呼んできた国で一年を過ごすことになる。
たった一年。されど、一年。
そこで何を見るのか。誰と出会うのか。その一年が終わった時、自分が何を思っているのか。今の明羽には、まだ想像もつかなかった。
「白虎には、まだ見たことのない絵巻がたくさんあるといいですね」
「結局それですか……」
緋乃のため息が馬車の中に響く。明羽はくすりと笑って、再び窓の外を見た。
ただ黙っていれば、天下随一の見目麗しき皇女。
そう評される少女の笑顔は、確かに息を呑むほど美しかった。そして、その美貌に何度も騙されてきた朱雀の人々は、誰よりもよく知っている。
この皇女に、何も起こすな。何もするな。大人しくしていろ。
そう願うことほど、難しいものはない。
馬車は白虎へと進んでいく。
和平のための人質として、鳳院明羽の最初の一年が始まろうとしていた。
彼女はまだ知らない。
人質先が変わるたび、自分の何気ない言葉や行動によって、各国の貴公子たちの心を次々とかき乱すことになるなど。
もちろん当の本人は、そんな未来よりも、白虎でどんな絵巻が読めるのかの方がずっと気になっていた。




