姫たちの夜・後編
麗華の部屋を出てしばらく歩くと、白虎皇族専用の大浴場へたどり着いた。
入口には数名の白虎の女官が控えている。中へ入るのは四人の姫と、それぞれに付き従う侍女だけらしい。
案内された先の扉をくぐると、そこは広い脱衣所になっていた。
壁際には衣を置くための棚や籠が並び、奥には浴場へ続く扉が見える。
麗華が慣れた様子で荷物を置く一方、明羽は周囲を見渡した。
そのとき、深仙の後ろに控えている少女が目に留まる。
玄武からの一行が白虎へ到着した際にも見かけている。深仙付きの侍女だということは知っていたが、直接言葉を交わしたことはなかった。
明羽の視線に気づいたのか、深仙が自分の侍女へ目をやった。
「そういえば……ご紹介していませんでしたね」
「私の侍女の……柳瀬翠蘭です」
翠蘭は静かに頭を下げる。
「鳳院明羽です。よろしくお願いいたします」
挨拶を返すと、翠蘭はもう一度頭を下げた。
「…………」
それきり、何も続かない。
「……とても静かな方なのですね」
「はい……。昔から、あまり喋りません」
深仙が答える間にも、翠蘭は深仙から受け取った衣を丁寧に畳み、籠へ納めていく。
「何もおっしゃらなくても分かるのですか?」
「だいたいは……」
深仙の答えに合わせるように、翠蘭が小さく頷いた。
「すごいですね」
「長いですから……一緒にいるの」
明羽は今度、渚のそばに控える小柄な少女へ目を向けた。
「渚様。そちらの方のお名前も伺ってよろしいですか?」
「ええ。沙月」
「は、はいっ!」
呼ばれた少女が慌てて前へ出る。
「く、黒瀬沙月です! 十三歳です! 子女主席のお付きとして玄武より参りました! よ、よろしくお願いいたします!」
勢いよく頭を下げたあと、慌てて一歩下がる。その拍子に足がすぐそばの木桶へ当たり、ころりと転がった。
「あっ」
転がりかけた木桶へ沙月の手が伸び、すぐに掴み取る。
「あ、あわわ……申し訳ありません!」
「今のはお見事でしたね」
「え?」
「とても素早く動かれましたので」
「い、一応、武芸も習っております!」
「一応じゃなくて、そこそこできるわよ。ドジだけど」
渚が付け加える。
「子女主席!」
「本当でしょう?」
「そ、そうですけど……!」
慌てぶりからは想像できないほど、先ほどの動きは素早かった。
「では、お強いのですね」
「つ、強いというほどでは! 鳳院殿下お付きの侍女様と比べたら全然です!」
沙月の視線が緋乃へ向かう。
「緋乃さんと比べる必要はないでしょ」
「でも……!」
「はい。私と比べる必要はございませんよ」
緋乃が穏やかに口を挟むと、沙月は「は、はい!」と背筋を伸ばした。
「沙月、そんなに固くならなくていいわよ」
「で、ですが……」
「今さらでしょ。もう中に入ってるんだから。寧ろ私の侍女として堂々としてなさい」
「は、はいっ!」
今度は先ほど以上に姿勢がよくなる。
「……余計に固くなってませんか?」
明羽が思わず言う。
「なってないです!」
「なってるよ」
麗華が笑った。
「麗華様も、いつまでも笑っていないでお支度を」
すぐさま白亜から注意が飛ぶ。
「分かってるよ」
「先ほどから全く進んでおりません」
「今やろうとしてたところ!」
「でしたら、お早くなさってください」
「白亜は細かいなあ」
「麗華様が大雑把すぎるのです」
明羽たちは顔を見合わせ、思わず頬を緩めた。
白亜に急かされていた麗華もようやく支度を済ませると、真っ先に浴場へ続く扉へ向かう。
「じゃあ、行こう!」
勢いよく扉を開けると、温かな湯気がふわりと頬を撫でた。
「広いですね……」
思わず声が漏れる。
目の前には、大きな石造りの浴槽が広がっていた。
壁際には白虎を象った石の飾りがあり、その口から絶えず湯が流れ落ちている。八人で入っても、まだ十分すぎるほど余裕がありそうだ。
「どう? 凄いでしょ!」
麗華が得意げに笑う。
「小さい頃は、よくここで泳いでたんだ」
「泳いでよいのですか?」
「駄目だよ。だから、よく怒られてた」
「でしょうね」
渚が呆れた声を出す。
「お風呂は泳ぐところじゃないわよ」
「でも、これだけ広かったら泳ぎたくならない?」
「ならないわ」
「私は……少しだけ、分かります」
深仙がぽつりと言った。
渚が目を丸くする。
「あなたが!? 少し意外ね」
「広いですから……」
「ほら!」
「味方を得たような顔をしないで」
麗華と渚のやり取りに、明羽もくすりと笑った。
それから身体を洗い、八人で大きな浴槽へ入る。
「ふぅ……」
湯へ肩まで浸かった渚が、心地よさそうに息を吐いた。
隣から麗華が声を掛ける。
「どう? 気持ちいい?」
「……そこそこね」
「ふーん」
「何よ」
「何でもないよ?」
麗華は楽しそうに笑いながら、自分も肩まで湯に沈んだ。
「やっぱり家のお風呂はいいなあ」
「気持ちいいですね」
明羽もゆっくり息を吐く。
朱雀にも浴場はあるが、ここまで広くはない。足を伸ばしても、まだ十分に余裕があった。
深仙も肩まで湯に浸かり、いつも以上に眠たげに見える。
「深仙、寝ないでよ?」
「寝ません……」
「今にも寝そうだけど」
「起きています……」
そう答えながらも、目は半分ほど閉じている。
その横で翠蘭が無言のまま深仙を見た。
「…………」
「大丈夫です……」
それでも、翠蘭の視線は外れない。
「寝ませんから……」
そこでようやく、小さく頷いた。
「今ので分かったのですか?」
明羽が尋ねる。
「はい……」
「翠蘭さんは何もおっしゃっていませんよ?」
「寝るなと……」
「目だけで?」
「はい……」
反対側では、沙月が湯の中でも背筋を伸ばしていた。
「沙月」
「はい!」
「だから力抜きなさいって」
「ぬ、抜いております!」
「肩が上がってるわよ」
「えっ」
慌てて肩を下げる。
「あわわ……」
「お風呂でまで緊張してどうするのよ」
「だ、だって、こうして皆様とご一緒するのは初めてですし……!」
「だからって、そんなに固くならなくてもいいのよ」
「は、はい……!」
「まだ固いけど」
「うぅ……」
渚の言葉に、沙月は困ったように肩をすぼめる。
その様子がおかしくて、浴場に小さな笑いが広がった。
しばらくして、麗華が明羽へ話を振る。
「ねえ、明羽」
「何でしょう?」
「肌、すごく綺麗だよね」
「そうでしょうか?」
「うん。きめ細かいっていうか。何か特別なことしてる?」
「いいえ。普通に洗っているだけですよ」
「それだけ?」
「はい」
「ずるい」
「なぜです?」
「何もしなくて綺麗なのがずるい!」
「そう言われましても……」
「麗華様の場合、お肌より先に髪のお手入れをなさった方がよろしいかと」
白亜が口を挟んだ。
「白亜!」
「濡れたまま眠ろうとなさることがございますので」
「今は髪の話じゃないでしょ!」
「お手入れという意味では同じです」
「そうだけど!」
渚が吹き出す。
「部屋だけじゃなくて、髪の手入れも雑なのね」
「雑じゃないもん!」
「白亜さんのお話を聞く限りでは、少し怪しいですね」
「明羽まで!」
「ですが、麗華さんの髪はとても綺麗ですよ」
そう続けると、麗華の表情がぱっと明るくなる。
「本当?」
「はい。神楽の時にも思いました。あの時は特にお綺麗でした」
「へへっ……」
「単純ね」
「うるさいなあ!」
渚に言い返しながらも、麗華は嬉しそうだった。
「深仙さんも、渚さんも、髪がお綺麗ですよね」
「私の……ですか?」
深仙が自分の髪へ触れる。
「はい。お二人とも、とても艶があります」
「ありがとうございます……。翠蘭が、毎日手入れしてくれています」
深仙がそばの翠蘭を見ると、翠蘭は静かに頭を下げた。
「私は毎日気を使ってるからよ」
渚は自分の髪を指先ですくう。
「そうなのですね」
「子女主席は、髪のお手入れだけはきちんとなさいます!」
沙月が元気よく付け加えた。
「だけって何よ」
「あっ」
「他は適当だって言いたいの?」
「そ、そういう意味では……あわわ……!」
また慌て始めた沙月に、明羽たちの笑い声が重なった。
◇
十分に湯を楽しんだあと、一同は麗華の部屋へ戻った。
寝間着へ着替え、冷たい飲み物を手に一息つく。
白亜は麗華の髪の水気を丁寧に拭い、緋乃も明羽の後ろで髪を整える。深仙のそばでは、翠蘭が黙々と櫛を滑らせていた。
「あっ、子女主席! まだ髪が!」
「自分でやるわよ」
「で、ですが!」
「沙月」
「はい!」
「自分の髪を見なさい」
「え?」
言われて触れてみると、沙月の毛先からはまだ水が落ちている。
「あわわ……」
「人の世話をする前に自分を何とかしなさい」
「は、はい……」
しょんぼりと布を頭へ被る姿に、明羽の頬が緩んだ。
やがて全員の髪も整い、飲み物を口にしながら一息ついた頃、麗華が楽しそうに身を乗り出す。
「せっかくみんなで泊まるんだし、恋の話しようよ!」
「いきなりね」
渚が呆れたように返した。
「こういう時ってするものでしょ?」
「誰が決めたのよ」
「ボク」
「今決めたでしょう」
「うん」
「恋の話……」
深仙が少しだけ身を乗り出す。
「深仙もやろうよ」
「はい……」
「あなた、意外にノリいいわよね」
渚が少し意外そうに深仙を見た。
「そう……でしょうか?」
「泳ぐ云々の時もだけど、こういう話には興味ないのかと思ってたわ」
「少し……興味はあります」
「へえ」
「では、麗華さんからですね」
明羽がそう言うと、麗華は目を丸くした。
「ボク!?」
「言い出した方からお話しするのが自然では?」
「それは……そうなんだけど」
「麗華さんには、気になる方がおられるのですか?」
「うーん……」
麗華は少し考えてから、あっさり答えた。
「今はいないかな」
「言い出した本人がそれなの?」
渚が呆れた声を返す。
「恋の話をしたかっただけだもん!」
「無責任ですね」
「明羽、ひどい!」
「……申し訳ございません」
「もう。そんな素直に謝られたら、何も言えないよ」
「では……深仙さんは?」
「私ですか?」
「はい。気になる方はいらっしゃいますか?」
「います」
返事は早かった。
「えっ」
麗華が目を丸くする。
「いるの!?」
「はい……」
「誰!?」
「兄様です」
「…………」
一瞬だけ、部屋が静かになった。
「青嵐殿下?」
「はい」
「恋の話だよ?」
「分かっています」
深仙はいつもと変わらない様子で続ける。
「兄様が……一番素敵ですから」
麗華と渚が顔を見合わせた。
「……深仙って、たまに意外なこと言うよね」
「そうね」
明羽もつられて口元を緩める。
「……?」
深仙は不思議そうに首を傾げていたが、その後ろに控える翠蘭は何も言わなかった。
「じゃあ次、渚!」
麗華が話を進める。
「何で私なのよ」
「好きな人いる?」
「言わない」
「いるの!?」
「そういう意味じゃないわ!」
「じゃあ教えてよ」
「嫌よ。人に聞くなら、まずあなたが何か話しなさい」
「ボクはいないって言ったでしょ」
「なら私も言わない」
「ずるい!」
「どっちがよ」
言い合っていた麗華が、ふいに明羽へ向き直る。
「じゃあ、明羽は?」
「私ですか?」
「うん。好きな人いる?」
「好きな方……」
その言葉が、妙に耳に残った。
「……分かりません」
「いない、じゃなくて?」
「…………」
いない。
そう答えれば済むはずなのに、すぐには言葉が出てこない。
代わりに浮かんだのは、以前青嵐から告げられた言葉だった。
『僕は……あなたが好きだ』
まだ返事はできていない。
そう思った途端、なぜか別の声まで脳裏に重なる。
『俺だからじゃないのか』
「…………」
「明羽?」
「っ……はい?」
「今、絶対誰か思い浮かべたでしょ」
「そのようなことはございません」
「怪しい」
「怪しくありません」
麗華がさらに身を乗り出す。
「じゃあ、景虎兄上とか?」
「なっ……!」
明羽の声が思わず裏返った。
「どうして景虎様が出てくるのです!?」
「だって、よく話してるじゃん」
「同じ皇城に住んでいるのですから、話す機会くらいございます!」
「宴でも、景虎兄上がお酒飲んだらすぐ気にしてたよね」
「それは以前、飲みすぎておられたからです!」
「ふうん」
「何です、そのお顔は!」
麗華はにやにやしている。
渚まで興味を持ったようにこちらを見ていた。
「別に、白虎の皇太子が好きだとは言ってないでしょう」
渚が横から口を挟む。
「その通りです!」
明羽がすぐに頷く。
「でも嫌いとも言ってないわね」
「渚様!?」
「違うの?」
「それは……」
嫌いなのかと聞かれれば、答えは以前と変わらない。
「……少なくとも、嫌いではございません」
一瞬、三人が黙った。
「何です?」
麗華の口元がゆっくり上がった。
「別に?」
「絶対に何か考えております!」
「何も?」
「その顔で言われても信用できません!」
「明羽姫……」
深仙が小さく声を掛ける。
「何でしょう?」
「顔が……赤いです」
「お風呂上がりだからです!」
「結構時間経ってるけど」
「まだ火照っているのです!」
渚が吹き出した。
少し離れたところでは、沙月も口元を押さえていた。
目が合った途端、びくりと肩を揺らす。
「あ、あわわ……!」
「今、笑っておられましたね?」
「わ、笑っておりません!」
「本当ですか?」
「本当です!」
必死に首を横へ振る沙月の隣で、翠蘭が明羽を見た。
「…………」
そして、自分の頬を指先で軽く示した。
その仕草の意味は、さすがの明羽にも分かった。
「……もう!」
近くにあった枕を抱え込むと、麗華たちの笑い声がさらに大きくなった。
◇
夜も更け、麗華の部屋には人数分の寝具が並べられた。
侍女たちもそれぞれ主人の近くに休む場所を用意し、明かりが消えると、それまでの賑やかさが嘘のように静かになった。
「おやすみ、みんな」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ……なさい」
「おやすみ」
明羽も布団へ入り、掛け布団を胸元まで引き上げた。
目を閉じると、大浴場で交わした会話や、先ほどの恋の話が次々と思い返される。
随分と賑やかな夜だった。
口元を緩めながら眠りにつこうとした、そのとき。
ふと、あの大浴場が皇族専用だったことを思い出した。
「…………」
あの大浴場を使うのは、麗華だけではない。
皇帝である冥利も、その妃である蘭や霞も、第二皇子である征吾も。
ならば当然、景虎も――。
明羽は目を開けた。
先ほどまで自分たちが浸かっていた、あの大きな浴槽を、景虎も使ったことがあるのだろう。
そう考えた途端、頬が急に熱くなった。
「…………っ」
掛け布団を鼻先まで引き上げる。
何がおかしいのだろう。
ただ同じ浴場を使ったことがあるというだけで、今夜一緒だったわけでもない。
それなのに、一度結びついてしまった大浴場と景虎が、なかなか頭から離れてくれない。
「……もう」
とうとう掛け布団を頭まで被った。
「明羽?」
暗闇の中から麗華の声がする。
「は、はい?」
「まだ起きてる?」
「もう寝ます」
「そう?」
「はい」
「おやすみー」
「……おやすみなさい」
布団から顔を出す気にはなれなかった。
先ほどは、お風呂上がりだから顔が赤いのだと言い張ったが、今はもう身体の火照りなどとっくに引いている。
「…………」
明羽は布団の中でぎゅっと目を閉じた。
今夜は、眠るまで少し時間がかかりそうだった。




