朱雀の羽やすめ
翌日の昼。
明羽は緋乃とともに、朱雀の一行へ割り当てられた客殿を訪れていた。
部屋にはすでに翔義や茜をはじめ、白虎まで同行してきた朱雀の者たちが集まっている。
昼餉を終えたあとは茶が用意され、皆、思い思いに寛いでいた。
昨日までとは随分と空気が違う。
武闘会も終わり、今日は他国の要人と顔を合わせる予定もない。周囲にいるのは、幼い頃から見慣れてきた朱雀の者ばかりだった。
「こうしておりますと、不思議な感じがいたしますね」
明羽が何気なく口にすると、向かいに座る翔義が明羽へ視線を向けた。
「何がだ?」
「ここが白虎だということを、少し忘れてしまいそうです」
窓の外へ目を向ければ、そこにあるのは白虎の皇城だ。
それなのに、部屋の中へ目を戻せば、朱雀の宮中にいるような気がしてくる。
「そうか」
翔義は短く答えて茶を一口飲むと、わずかに間を置いた。
「……それで、次の異文化交流にも絵巻物を持っていくつもりなのか?」
「…………」
明羽は隣の緋乃へ顔を向けた。
「緋乃」
「私ではございません」
「まだ何も申しておりませんよ?」
「ですが、私がお話ししたと疑っておられるのでしょう?」
「……少しだけ」
「やはり」
緋乃は小さく息を吐いた。
「緋乃は悪くない。今のは鎌をかけただけだ」
翔義の言葉に、明羽がそちらを向く。
「鎌をかけたのですか?」
「ああ。お前なら、もう絵巻物の心配をしているだろうと思ってな」
「それだけで分かるものですか?」
「分かる。何年お前の兄をやっていると思っている」
「……当たってはおりますけれど」
どうにも釈然としない。
しかも、翔義の一言で緋乃まで疑ってしまった。
「申し訳ございません、緋乃」
「お気になさらず」
緋乃はそう言って、何事もなかったように茶へ手を伸ばした。
その横顔を見ながら、明羽がまだ少し気まずさを覚えていると、向かいから茜の声がした。
「やはり緋乃を殿下の侍女にしたのは、正解でしたね」
「母上?」
緋乃が母へ目を向ける。
「急にどうなさったのですか?」
「二人を見ていて、そう思っただけです」
茜はそれ以上説明するでもなく、静かに茶を口へ運んだ。
その言葉に翔義が反応する。
「そういえば、緋乃は最初から明羽の侍女だったわけではなかったな」
「はい。あの頃の緋乃は、近衛府に入ったばかりの見習いでしたから」
「そうでしたね」
明羽も幼い頃の記憶を辿る。
今では緋乃が傍らにいることを当たり前のように感じているが、最初からそうだったわけではない。
母の茜とともに宮中へやって来た、自分と同じ年頃の少女――それが緋乃だった。
「殿下は、初めてお会いしたときから変わっておられませんね」
緋乃が懐かしむように言った。
「変わっていない、とは?」
「私が名乗った直後、最初に仰った言葉でございます」
その一言で、明羽にも思い当たるものがあった。
だが、口に出す前に茜が先を続ける。
「『紅い衣を着た般若さん。あなたは絵巻物はお好きですか』と」
「…………」
間違いない。
幼い自分が口にした言葉だった。
「随分な第一声だな」
翔義が笑う。
「兄上。幼い頃のことでございます」
「幼ければ何を言っても許されるわけではないぞ」
「ですが、緋乃とは仲良くなりたかったのです。同じくらいの年の女の子でしたし」
「それで最初に絵巻物の好みを聞いたのか?」
「大切なことでしょう?」
「お前にとってはな」
否定はできない。
「その後、私は『嫌いではございません』とお答えしました」
「そうしましたら、殿下はすぐに私の手を取られまして、そのまま絵巻物のある部屋まで連れていかれました」
そう言って、緋乃がくすりと笑った。
「あれは、一緒に絵巻物を見ようと思っただけです」
思い返してみると、初対面の相手に対しては少々強引だったかもしれない。
「それだけなら、一度遊び相手になっただけで終わったのでしょうけれど」
茜が言った。
「確か、翌日も明羽が呼んだんだったな。前の晩に散々自慢されたから、今でもよく覚えている」
翔義が懐かしそうに口元を緩める。
「そうでございます。ですが、翌日だけではありません」
茜の返答に、明羽は僅かに身じろぎした。
「えーと……先に申し上げておきますが、毎日ではございませんよ?」
「ほとんど毎日です」
緋乃がさらりと訂正した。
そこだけは、昔から認識が食い違っているらしい。
緋乃には近衛府の見習いとしての務めがあった。
それでも明羽は、一緒に絵巻物を読んだり、話をしたりしたくなるたびに彼女を呼んだ。
「近衛府の務めがあるからと連れ戻しても、また殿下がお呼びになるものですから」
茜は小さく息をついた。
「とうとう引き離す方が面倒になりまして」
「面倒だったのですか?」
「はい。いっそ殿下のお傍にいさせた方がよいということになり、緋乃は近衛府に勤めながら侍女も務めるようになりました」
「明羽も相当だったが、緋乃もよく両方続けたものだ」
翔義の視線が緋乃へ向く。
「忙しくはございました」
「やはり大変だったのですね」
明羽が思わず口を挟むと、緋乃は少しだけ笑った。
「ですが、嫌ではございませんでしたよ」
明羽は一瞬だけ緋乃を見つめた。
「……少し安心しました」
そう答えて、手元の茶を一口飲む。
「もっとも、侍女になったからといって近衛府で手を抜くような娘ではありませんでしたから」
茜の言葉通り、緋乃は近衛府の務めと明羽の侍女を両立しながら見習いを終え、その後も昇進を重ねていった。
明羽の傍にいる時間が長いからといって特別扱いされたわけではない。
近衛府で評価されたのは、緋乃自身の働きによるものだった。
「そうだったな。左近衛小納言まで上がり、父上より『紅般若』の異名を賜ったのもその頃だったな」
翔義の言葉に、明羽はふと首を傾げる。
「……あら? 確か私も、最初に緋乃に会った時に般若と呼んでおりますね」
「しかも『紅い衣を着た』だったな」
翔義が面白そうに笑った。
「お前と父上は似たような発想をしたわけか」
「そうなりますね。もしかしたら、私にも異名を考える才があるのかもしれません」
「そこへ行くのか?」
「父上と同じ感性なのでしょう?」
「殿下には私の異名を増やしていただかなくて結構でございます」
緋乃が静かに割って入る。
「まだ何も考えておりませんよ?」
「今後もお願いいたします」
周囲から笑い声が上がった。
明羽も新しい異名を考えたことはあったが、今は黙っておくことにした。
ひとしきり笑いが収まったところで、翔義が話を戻した。
「それからさらに昇進して、左近衛中納言まで上がったんだったな」
「はい」
緋乃が静かに頷いた。
異例のことではあったが、明羽は当時、それを特別だとは思っていなかった。
緋乃ならできる。
ただ、それだけだった。
「それだけの地位に就いていたのに、明羽が白虎へ行くと決まった途端、あっさり辞めたと聞いた時は、さすがに驚いたぞ」
人質に同行できる従者は一人だけ。
緋乃はその一人として、明羽とともに白虎へ来た。
「あのときの緋乃は、決めるのが早かったですね」
「迷う理由がございませんでしたので」
緋乃はいつもと変わらない調子で答えた。
明羽にとって、中納言という地位を手放すことは大きな決断だった。
「私は殿下の侍女でもございますから」
緋乃はそう言ってから、僅かに間を置く。
「それに、昔から放っておけませんでしたので」
「私をですか?」
「困っているものを見つけると、後先を考えずに動かれるところがございましたから」
「後先を考えずに、とは失礼ですね」
「今もあまり変わっておられませんよ」
「どこがです?」
「白虎へ着いて早々、冥利陛下の御前で、傷ついた鳥のために衣の袖を裂かれました」
「……陛下の御前で?」
翔義の眉間に皺が寄った。
「ですが、あの鳥は怪我をしていたのですよ?」
「それは分かるが……」
翔義は何か言いかけ、そのまま口を閉じた。
「ですが、それは白虎へ来てからのことでしょう?」
「そうではなく、昔から変わっておられないというお話でございます」
しばらく明羽を見ていた翔義は、やがて小さく息を吐いた。
「……まあ、それについては緋乃の言う通りだな」
「兄上?」
結局、そちらには同意するらしい。
不満ではある。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
こうして昔の自分の話をされることさえ、今は少し懐かしい。
その後もしばらく、幼い頃のことや朱雀の宮中での出来事が話題に上った。
そんな中、翔義がふと思い出したように口を開く。
「そういえば、昔は朱堂家の者たちともよく顔を合わせていたな」
「ええ。中でも朝陽とは、よく三人で過ごしましたね」
明羽が緋乃を見ると、緋乃も懐かしそうに頷いた。
朱堂朝陽。
兵衛府大納言を祖父に持つ、明羽より一つ年下の少年である。今も朱雀に残っており、今回の異文化交流には同行していない。
幼い頃から明羽や緋乃とは顔を合わせる機会が多く、いつしか三人で過ごすことが当たり前になっていた。
「懐かしいですね」
「はい。三人で随分いろいろなことをいたしました」
そこから話題は、朝陽を交えた幼い頃の思い出へと移っていった。
三人で過ごした頃の話は尽きず、朱雀での日々を語っているうちに、時間はゆっくりと過ぎていった。
やがて翔義たちは朱雀へ戻る。
そうなれば、明羽は再び緋乃と二人で白虎に残ることになる。
だからこそ、今日くらいはこうしていたかった。
明羽は周囲の懐かしい顔を眺めながら、ゆっくりと茶を口にする。
聞こえてくる笑い声も、交わされる昔話も、どれも懐かしい。
白虎にいることを忘れてしまいそうな、穏やかな昼だった。




