宴
その日の夜。
白虎皇城の大広間では、武闘会を終えた四国の要人や武人たちを招いた宴が開かれていた。
これまで明羽が朱雀や白虎で見てきた宴席とは違い、今夜は決められた席がない。広間の各所に料理を載せた卓が置かれ、客たちは杯を手に思い思いの場所へ立っている。
姫たちに付き従う従者も、それぞれ主から少し離れたところに控えていた。だが、緋乃だけはいつものように明羽のすぐ後ろにいる。
「皆様、立ったままなのですね」
「そうですね。私も少し珍しく感じます」
明羽と緋乃が広間を眺めていると、近くにいた理斗が会話に加わった。
「朱雀では、こういった宴は珍しいですか?」
「はい。私は初めてです」
「玄武では、区によってはよくありますよ。話したい相手のところへ行きやすいので、こういう場には向いています」
「そうなのですか?」
「ええ。もっとも、玄武は区によって風習も随分違いますけどね」
「風習まで違うのですね」
以前、深仙から、玄武は区によって食べ物や町の様子、人々の気質まで違うと聞いたことがある。宴の形式にも、それぞれ違いがあるらしい。
そんな話をしていると、広間の正面で動きがあった。
皇帝・白牙冥利が杯を掲げる。
賑わっていた広間が次第に静まっていった。
「本日の武闘会、皆よく戦った!」
冥利の声が広間いっぱいに響く。
「国は違えど、同じ場で力を競い、今宵はこうして一堂に会している! 勝った者も負けた者も、今は武器を置け! 存分に食い、飲み、楽しむがよい!」
杯がさらに高く掲げられた。
「乾杯!」
「乾杯!」
四方から声が重なり、一斉に杯が上がる。
明羽も果汁の入った杯を掲げ、一口だけ口をつけた。
乾杯が終われば、それまで整然としていた人の輪も自然と崩れていく。料理へ向かう者もいれば、別の国の者へ声をかける者、昼間の試合について語り合う者もいる。
「明羽!」
早速、麗華がやって来た。
すでに片手には料理を載せた皿がある。
「麗華さん。もうお料理を?」
「うん! あっちのお料理、美味しかったよ。明羽も食べよう!」
「もう召し上がったのですか?」
「うん。乾杯してすぐに!」
「お早いですね……」
「まだまだ食べるよ。行こう!」
麗華が空いている方の手を伸ばしかけたところで、別の声がした。
「明羽」
振り向けば、翔義がこちらへ歩いてくる。
「兄上」
「麗華姫。妹を連れていく前に、少し借りてもいいか?」
「もちろん!」
麗華はあっさりと引き下がった。
「じゃあ明羽、あとでね!」
「はい」
人の間を抜けていく麗華を見送り、明羽は兄へ向き直った。
「兄上。改めまして、本日はお疲れさまでございました」
「負けたがな」
「ですが、とても見事な試合でした」
「慰めはいらん」
「慰めではございません」
翔義の口元が僅かに緩む。
「分かっている」
「もう……」
「それより、お前は随分と楽しんでいたようだな」
「もちろんです。兄上の試合だけでなく、皆様とてもお強くて――」
「景虎兄上ー!」
広間の向こうから、よく通る声が響いた。
先ほど別れたばかりの麗華が、今度は景虎のところへ向かっている。
「うるせえ! 近くにいるんだから叫ぶな!」
「だって景虎兄上、勝ったんだよ? もっと嬉しそうにしたら?」
「勝ったんだから嬉しいに決まってんだろ」
「全然見えない!」
明羽は思わず笑った。
翔義もそちらへ目を向けてから、明羽へ戻す。
「……行ってこい」
「兄上は私に用があったのでは?」
「……いや。やはり話は後でいい。俺は少し挨拶してくる」
「そうですか?」
「ああ」
「分かりました」
詳しい用件は聞けないまま、翔義は朱雀の者たちが集まる方へ歩いていった。
明羽も緋乃を伴い、景虎たちのもとへ向かう。
そこには麗華だけでなく、青嵐と深仙もいた。
「景虎様。おめでとうございます」
「ああ」
「青嵐殿下も、お疲れさまでございました」
「ありがとう」
昼間、最後まで槍を交えていた二人が、今は同じ場所で杯を手にしている。
そこへ酒や果汁を載せた盆を持った侍従が通りかかり、景虎が迷わず酒を一杯取った。
その手元を見た途端、以前の宴で、酔った景虎に回廊で詰め寄られた夜が脳裏をよぎる。
「何だよ」
「え?」
「杯見てんだろ」
「…………」
「その顔で何でもねえって言うなよ」
「まだ何も申しておりません」
「どうせ『飲みすぎないでください』だろ」
「……よくお分かりですね」
「今日は飲みすぎねえよ」
景虎はそれだけ言って、酒へ口をつけた。
「でしたら、結構です」
「信用してねえ顔だな」
「そのようなことはございません」
「嘘つけ」
明羽も果汁の杯を取り、何事もなかったように口をつける。
その横では、麗華が迷いなく酒へ手を伸ばした。
「麗華さんも、お酒を召し上がるのですか?」
「うん。白虎は十五歳から飲めるからね」
「おい」
景虎の声に、麗華の手が止まる。
「何?」
「ほどほどにしとけよ」
「分かってるって」
「本当だろうな」
「大丈夫、大丈夫」
「その返事が一番信用できねえ」
「景虎兄上に言われたくない!」
「何だと?」
麗華は楽しそうに笑い、そのまま酒を一口飲んだ。
一方、青嵐が取ったのは酒ではなく果汁だった。
「あれ? 青嵐殿下は飲まないの?」
麗華が尋ねると、深仙が兄より先に答える。
「青龍では……兄様も私も、まだお酒を飲める年齢ではありませんから」
「そうなんだ。国によって違うんだね」
麗華は素直に頷いた。
明羽は改めて周囲を眺める。
白虎の武人と青龍の将が料理について話し、その向こうでは朱雀と玄武の者が昼間の試合を振り返っていた。
「……不思議ですね」
「何がだ?」
「昼間は皆様、本気で戦っていらっしゃったのに、今はこうして一緒に宴を楽しんでおりますから」
「武闘会なんだから、終わったらそれまでだろ」
「そういうものでしょうか?」
「終わったあとまで槍持って追いかけ回してどうすんだよ」
「それはそうですが……」
明羽は杯を持ったまま、もう一度広間を見渡した。
「それに、条約が結ばれる前でしたら、このように四国の方々が同じ宴に集うことなど、考えられませんでした」
「……まあ、それはそうだな」
景虎も周囲へ目を向ける。
「前なら、朱雀や青龍、玄武の連中と同じ卓囲むなんざ御免だったけどな」
「今は違うのですか?」
「…………」
少し間を置いて、景虎が杯を傾けた。
「……別に、悪くはねえ」
「そうですか」
「何で嬉しそうなんだよ」
「嬉しそうに見えます?」
「見える」
明羽は答えず、果汁へ口をつける。
「僕も悪くはないと思う」
青嵐が何気なく続けた。
「お前は入ってくんな」
「なぜだ」
「何となくだ!」
「理不尽だな」
明羽と深仙がほぼ同時に笑う。
麗華も笑っていた――はずだった。
「……でもさ」
妙に沈んだ声に、明羽はそちらを向いた。
麗華が杯を両手で持ち、俯いている。
「麗華さん?」
「みんな、すごいよね……」
「どうした急に」
「景虎兄上は勝ったし……青嵐殿下も強かったし……翔義殿下も理斗殿もすごかったし……緋乃も勝ったし……」
突然名前を出され、後ろに控えていた緋乃が麗華を見る。
「麗華様?」
「それなのにボク……今日、何もしてない……」
「武闘会をご覧になっておりましたよね?」
「見てただけだよ……」
「それでよろしいのでは?」
「よくないよ……ボクなんて……」
明羽が景虎を見ると、彼は麗華ではなく、その手元の杯を睨んでいた。
「お前、何杯飲んだ」
「そんなに飲んでない……」
「何杯だ」
「……三杯」
「早えよ!」
「三杯でございますか?」
「始まった……」
景虎が額を押さえる。
「何がでございますか?」
「こいつ、酔うと何でも悪い方に考え始めるんだよ」
「ボクなんて……背もそんなに高くないし……」
「ほらな」
「景虎兄上は大きいし……ずるい……」
「知るか!」
「麗華さん、身長は本日の武闘会と関係ないのでは……」
「明羽は綺麗だし……」
「え?」
「深仙は可愛いし……」
「……ありがとうございます?」
「緋乃は強くて格好いいし……」
「麗華様?」
「ボクなんて……」
麗華は大きく息を吐くと、上衣の紐へ手をかけた。
「暑い。もうこれいらない……」
「麗華さん!?」
「おい、脱ぐな!」
「何で……」
「何でもだ!」
「暑いんだもん……」
明羽が慌てて麗華の手を止め、反対側から深仙も袖を押さえる。
「麗華さん……ここでは、やめた方が……」
「深仙までボクに冷たい……」
「そういう意味では……」
景虎は深く息を吐くと、明羽の後ろへ顔を向けた。
「明羽の侍女、そいつの酒を取り上げてくれ」
「承知いたしました」
緋乃がすぐに杯を受け取る。
「あっ」
「麗華様。こちらはお預かりいたします」
「ひどい……」
その騒ぎに気づき、少し離れた場所に控えていた麗華付きの従者が慌てて駆け寄ってきた。
「麗華様!」
「……何?」
「何、ではございません。何杯お飲みになったのですか?」
「……三杯」
「もう三杯もお飲みになったのですか!? もう少しゆっくりお飲みください!」
「景虎兄上にも怒られた……白亜にも怒られた……」
「怒られて当然です!」
「やっぱりみんなボクに冷たい……」
「そのお話はあとでいくらでも伺いますから、まずはお水をお飲みください」
白亜は近くの女官へ水を頼み、受け取った杯を麗華へ差し出した。
「いらない……」
「麗華様」
「水まで飲まされる……」
「今必要だからだろうが!」
景虎の声が飛ぶ。
「景虎兄上がまた怒った……」
「誰のせいだと思ってんだ!」
ますます項垂れる麗華だったが、白亜からもう一度差し出されると、渋々杯を受け取った。
「……お酒とは、随分人を変えるのですね」
明羽が小声で呟く。
「あれは麗華だけだ」
「景虎様がそれをおっしゃいます?」
「あ?」
「何でもございません」
「おい」
明羽はそっと果汁へ口をつけた。
やがて麗華は白亜に付き添われ、少し離れた卓へ移っていった。深仙も心配なのか、その後についていく。
景虎と青嵐もそれぞれ自国の者に呼ばれ、先ほどまでの人だかりが少しだけ落ち着いた。
「南條殿」
緋乃を呼んだのは、青龍王国軍の将軍、水城颯真だった。
「水城殿。先ほどはお疲れさまでございました」
「ああ。南條殿も」
昼間と変わらない爽やかな笑みを浮かべている。
「試合のときは、ほとんど武器を交えて終わったからな。せっかくの宴だし、少し話してみたいと思って」
「私と、でございますか?」
「ああ」
「何のお話でしょう?」
「そうだな……南條殿は、いつ頃から鳳院皇女殿下に仕えているんだ?」
「幼い頃からでございます」
「そんなに前から?」
「はい」
水城の視線が明羽へ向いた。
「南條殿とは、本当に長いお付き合いなのですね」
「はい。緋乃とは幼い頃からずっと一緒です」
「そうなのですね」
水城は頷くと、再び緋乃へ顔を向けた。
「南條殿は、いつ頃から武芸を?」
「武芸も幼い頃から嗜んでおります」
「なるほど。あれだけの腕になるわけだ」
「恐れ入ります」
話が一段落しても、水城はその場を離れなかった。緋乃もいつもの丁寧な調子で応じている。
その二人を眺めているうちに、明羽はふと、以前読んだ絵巻物を思い出した。
武芸を通じて知り合った男女が、初めは互いの腕前にしか興味を示さなかったはずなのに、いつしか相手そのものを知ろうとするようになる――そんな話だった。
「…………」
「殿下?」
緋乃がこちらを見る。
「何でしょう?」
「先ほどから、妙なお顔をなさっておりますが」
「妙なお顔などしておりません」
「そうでしょうか」
「ええ」
水城も不思議そうに明羽を見る。
「鳳院皇女殿下、どうかなさいましたか?」
「いいえ。何でもございません」
「そうですか?」
「はい」
明羽は微笑んだ。
「私は少し、お料理を見てまいります」
「殿下?」
「緋乃は水城殿とお話ししていてください」
「なぜでございますか?」
「せっかくの宴ですから」
「それはそうですが……」
「では」
「殿下、お待ちください」
呼び止める声を背に、明羽は近くの卓へ向かった。
――邪魔をしてはいけません。
料理を一つ皿へ取ったところで、隣の卓から渚の声が聞こえてきた。
「国家主席補佐、それ美味しい?」
「ええ。食べてみますか?」
「少しだけ」
見ると、渚が理斗の皿から料理を一つ取り、口へ運んでいる。
「……美味しい」
「でしょう?」
渚はもう一つ料理を取りながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、緋乃さんの『紅般若』は、朱雀の帝から賜った異名なんだって」
「なるほど。そういう意味だったのですね」
「小納言以上になると、異名を賜る習わしがあるそうよ」
「玄武にはない風習ですね」
「ええ。面白いわよね」
それだけ言うと、渚は再び料理へ手を伸ばした。
明羽も自分の皿へ目を落とす。
武闘会の最中には、誰が勝つのかと息を詰めて見守っていたのに、今は剣も槍もない。
聞こえてくるのは、料理を勧める声や、昼間の試合を笑って振り返る声ばかりだった。
「明羽ぅ……」
少し離れたところから、ひどく弱々しい声がする。
水の杯を両手で持った麗華が、白亜に付き添われてこちらへ戻ってきていた。
「ボクって……何かいいところあるかな……」
「もちろんございますよ」
「本当……?」
「はい。たくさんございます」
「例えば……?」
「そうですね。まず――」
「おい、これ以上酒は与えるなよ!」
離れた場所から景虎の声が飛んできた。
「はい、絶対に与えません!」
白亜が即座に答える。
「みんなひどい……」
「麗華さん。今は良いところのお話をしていたのでは?」
「そうだった……」
「では、続きをお話しいたしましょう」
「うん……」
麗華が少しだけ顔を上げる。
その様子がおかしくて、明羽はつい笑ってしまった。
周囲では、四国の者たちの話し声や笑い声が、いつまでも賑やかに重なっていた。




