毒
試合場脇の通路へ入ると、背後から聞こえていた武道館のざわめきが、奥へ進むにつれて次第に遠のいていく。
「殿下」
「はい」
「景虎殿下のところへ向かわれるのですね」
「はい」
明羽は足を止めることなく答えた。
「先ほどから、どうしても様子がおかしいのです」
「右腕でございますか?」
「それだけではありません。お顔の色も悪かったですし、息もかなり乱れていました」
異能の目を持つ明羽には、遠く離れた観覧席からでも、その変化がはっきりと見えていた。
それに、麗華も言っていた。普段の景虎なら、青嵐の蹴りをまともに受けることはなかったはずだと。
「一度、確かめておきたいのです」
「承知しました」
緋乃はそれ以上尋ねず、明羽の後ろをついてくる。
通路を進んでいると、いくつか並ぶ控えの間の一つが半ば開いていた。戸の隙間から中を覗き、明羽は足を止める。
「……景虎様」
長椅子に腰を下ろした景虎が、右手を何度も握っては開いていた。試合場で見たときと同じように、顔には細かな汗が浮かんでいる。
二人の気配に気づき、景虎が顔を上げた。
「……何しに来た」
「景虎様のご様子を確かめに参りました」
「様子? 余計なお世話だ」
「そう仰らず、右腕を見せてください」
「必要ねえ。俺は平気だ」
「そうは見えません」
「かすり傷だって前にも言っただろ。それに、もう治ってる」
「でしたら、なおさら見せてください」
「何でそうなる」
「試合中、右腕の動きが明らかに遅れていました」
「気のせいだ」
「気のせいではございません。槍を引いたとき、右手の指が一度、柄から離れました。その後も、右腕だけ戻りが遅れていました」
「…………」
「それに、麗華さんが仰っていました。先ほどの青嵐殿下の蹴りは、普段の景虎様なら避けられたはずだと」
「麗華が?」
「はい」
景虎は何も答えない。
明羽はその右腕へ視線を落とした。
「金獅子の討伐から戻られた日、その腕には白い布が巻かれていました」
「ああ」
「宴の席で伺いましたよね。金獅子の総大将が最後に放った矢を、避けきれなかったのだと」
「だから、かすり傷だ」
「先ほどは、もう治っていると仰いました」
「治ってる」
「でしたら、見せてください」
「……しつけえな」
景虎が深く息を吐く。だが、呼吸はすぐに浅く乱れた。
「……やはり、苦しいのではありませんか?」
「このくらい何でもねえ」
そう言って、景虎は長椅子から立ち上がる。
「もう戻る」
「景虎様」
明羽の横を通り過ぎようとした足が、一瞬だけ止まった。
すぐに歩き出したものの、その僅かな変化を明羽は見逃さない。
「緋乃」
「はい」
「景虎殿下。失礼いたします」
「何を――」
緋乃は景虎の左腕を取ると、そのまま身体を長椅子へ押し戻した。
「おい、離せ!」
景虎が立ち上がろうとするが、緋乃は傷ついた右腕には触れず、左肩を押さえて動きを封じる。
「申し訳ございません」
「……てめえ!」
「景虎殿下。今のお身体で試合を続けることは、お勧めいたしかねます」
「だからって押さえつける奴があるか!」
「ございました。猫のように逃げられては困りますので」
「くっ、朱雀姫!」
「右腕を見せてください。それまでは、緋乃も離しません」
「…………」
「お願いします」
しばらく睨み合った末、景虎が諦めたように息を吐いた。
「……勝手にしろ」
「最初からそう仰ってくださればよかったのです」
「ほんと容赦ねえな、お前」
明羽は返事をせず、景虎の右袖を捲った。
その下には白い布が巻かれている。
結び目を解き、一巻きずつ布を外していく。
最後の一枚が取れたところで、明羽の手が止まった。
緋乃も傷口を見たまま、言葉を失っている。
矢による傷そのものは小さい。
だが、傷口は赤黒く爛れ、濁った膿が滲んでいた。大きく腫れた周囲の肌は黒紫色に染まり、見るからに異常な状態だった。
「……景虎様」
「何だ」
「これが、治っている状態なのですか?」
「…………」
返事はない。
「いつから、このような状態に?」
「……数日前」
「数日前から?」
「ああ」
「なぜ、医官に診せなかったのですか?」
「腕も動いてた」
「今はまともに動いていないではありませんか」
「動いてる」
「試合中は明らかに遅れていました」
「お前、武人でもねえのに、よくそこまで分かるな」
「見えましたので」
「……そういう問題か?」
明羽に武術の心得はほとんどない。
だが、素早い動きまで鮮明に捉える異能の目なら話は別だった。景虎の指が槍の柄から離れた瞬間も、右腕だけが遅れていたことも、明羽には見えていた。
赤黒く爛れた傷を見つめているうちに、以前読んだ一巻の絵巻物が頭に浮かぶ。
「……毒」
「あ?」
「緋乃。覚えていますか?」
「何をでございますか?」
「白虎へ来たばかりの頃、書物庫で読んだ絵巻物です。異民族の武人が、小さな傷から毒に侵されていた――」
緋乃の表情が変わった。
「……あの毒でございますか」
「はい。かつて異民族の間に伝わっていた、とても効き目の遅い毒です。小さな傷から身体へ入り、長い時間をかけて身体を蝕む。毒を受けた本人でさえ気づかないと書かれていました」
「待て」
景虎が口を挟む。
「それは絵巻物の話だろ」
「はい」
「なら、本当にそんな毒があるかどうかも分からねえだろ」
「そうです。ですが、あまりにも似ています」
明羽は傷口へ目を戻した。
「それに、その毒は異民族に伝わっていたもの。そして景虎様を射たのは、金獅子の総大将です」
「…………」
「製法は遠い昔に失われたと書かれていました。ですが、失われる前に作られた毒が残っていた可能性はあります」
「それが、あの矢に使われてたってのか」
「可能性はあります」
景虎は右腕へ視線を落とした。
もちろん、明羽にもそれ以上のことは断定できない。
「景虎様」
「何だ」
「このまま試合へ戻るおつもりですか?」
「当たり前だろ。まだ動ける」
「先ほどから、そればかりではありませんか」
「実際そうだろ」
「そういう問題ではございません!」
思わず声が強くなる。
「右腕はこの有様で、身体にも異変が出ています。それでも戻るのですか?」
「だから何だ」
「……景虎様は以前、戦で犠牲が出るのは当然だと仰いましたよね」
「急に何の話だ」
「私は今でも、その考え方が好きではありません」
「知ってる」
「ですが――」
明羽は景虎をまっすぐ見た。
「他人の命だけではなく、ご自分の命までそのように扱われるのですか」
「…………」
「それでも戻ると仰るのですか?」
「途中だからだ。それに、これは戦じゃねえ」
「……戦でなければ、ご自分の命を危険にさらしてもよいのですか?」
「そこまで大ごとじゃねえだろ」
「大げさに申し上げているのではありません。戦であろうとなかろうと、景虎様の帰りを待っている方はいらっしゃいます」
「…………」
「金獅子との戦いから戻られた日、私は大路におりました。景虎様たちの帰還を、大勢の方が待っていました」
「……それが何だ」
「ですが、帰ってこられなかった方もいらっしゃいました。白い布を掛けられた箱が運ばれてくると、大路からは泣き声も聞こえました」
景虎は黙ったまま、何も言わない。
「景虎様にも、帰りを待つ方がいらっしゃいます」
「…………」
「それに――」
明羽は目を逸らさなかった。
「私は、景虎様に死んでほしくありません」
景虎の目が僅かに見開かれる。
「……お前」
何か言いかけたものの、その先は続かなかった。
やがて顔を逸らし、低い声で返す。
「……俺が死ぬって決まったわけじゃねえだろ」
「ですが、死んでしまってからでは治せません」
「……治す?」
「はい」
明羽は緋乃へ顔を向けた。
「緋乃、あの力を使います」
緋乃の表情が強張る。
「……本当に、よろしいのでございますか? 医官に診せることも可能なのでは?」
「それでも、今の景虎様をこのままにはしておけません」
明羽は静かに首を振った。
「私の力は、傷だけでなく毒にも効きます。ですが、亡くなった方を生き返らせることはできません」
緋乃は黙って明羽を見つめている。
「ですから、私に治させてください」
しばしの沈黙のあと、緋乃が頷いた。
「……承知しました」
景虎が二人を交互に見る。
「さっきから何の話してんだ」
「念のため、外を確認して参ります」
緋乃は景虎から手を離し、廊下の左右を確かめてから戸口に立った。
「人の気配はございません。このまま見張ります」
「お願いします」
明羽は景虎の前へ戻った。
「右腕をこちらへ」
「おい。何するつもりだ」
「治します」
「治す?」
「はい」
「お前、医者でもねえだろ」
「ええ」
「だったら、どうやって――」
「景虎様。少しだけ、じっとしていてください」
「…………」
納得している様子ではなかったが、景虎は腕を引かなかった。
明羽は傷へ両手を重ねる。
毒も、この力なら癒せる。
――治って!
次の瞬間、掌から赤金色の炎が噴き上がった。
「……っ!」
炎が景虎の右腕を一気に包み込む。
「何だ、これ……」
景虎が息を呑んだ。
激しく燃え上がっているように見えても、炎に熱はない。衣を焦がすことも、肌を焼くこともなく、傷ついた右腕を包んで揺らめいている。
「動かないでください」
「熱くはねえけど……何なんだ、これは」
「私にも詳しいことは分かりません。ですから、少し静かになさってください」
「分かんねえのかよ」
「集中できません」
「…………」
景虎がようやく口を閉じる。
明羽は傷だけに意識を集中させた。
赤金色の炎に包まれた右腕から、黒紫色の変色が少しずつ消えていく。傷口から滲んでいた膿もなくなり、腫れが引くにつれて、爛れていた皮膚も元の姿を取り戻していった。
最後に小さな矢傷まで塞がる。
役目を終えた炎は細かな火の粉へ変わり、宙へ溶けるように消えていった。
明羽が手を離すころには、黒紫色の変色も、膿んだ傷も残っていない。矢を受けた跡さえ、どこにも見当たらなかった。
「景虎様」
「……ああ」
景虎は右手を開き、今度は強く握る。続けて腕を曲げ伸ばしし、感触を確かめるように何度か動かした。
「痛みはございますか?」
「ねえ」
「力は?」
「入る」
「お身体は?」
景虎がゆっくりと息を吸った。
「……さっきまでより、ずっと楽だ」
「そうですか……」
傷だけでなく、毒による異変も治まったようだった。
悪かった顔色も、すでに戻り始めている。
「朱雀姫」
「はい?」
「今の力、何だ」
「傷や毒を癒すことができます。以前、怪我をしていたあの鳥も、この力で治しました」
「……あの鳥を?」
「はい」
明羽は一度言葉を切った。
「ですが、なぜこの力を使えるのかは、聞かないでください」
「……分かった」
「ありがとうございます」
景虎は治った右腕へ目を落とす。
「その力、誰が知ってる」
「緋乃だけです」
「家族も知らねえのか?」
「はい」
「戦場で使ったら、とんでもねえ力だぞ」
「分かっております。だからこそ、誰にも知られたくないのです」
「なのに俺には見せたのか」
「はい」
「何でだよ。俺は敵国の人間だぞ」
「今は違います」
景虎が眉を寄せる。
「何が違う」
「少なくとも、今の景虎様は私の敵ではありません」
「…………」
「それに、先ほど申し上げたとおりです」
景虎はしばらく明羽を見ていたが、やがて視線を逸らした。
「……変な女だな」
「以前にも言われました」
「やっぱり変わってねえな」
「失礼ですね」
「このことは誰にも言わねえ」
「……ありがとうございます」
短い沈黙が落ちる。
「……助かった、明羽」
「…………」
一瞬だけ、明羽の返事が遅れた。
「……はい」
そのとき、戸口から緋乃の声が届く。
「殿下。そろそろお戻りになった方がよろしいかと」
「分かりました」
景虎も長椅子から立ち上がる。
「景虎様」
「あ?」
「試合、頑張ってくださいね」
「……お前、さっきまで止めてただろ」
「先ほどとは状況が違いますので」
「随分な変わりようだな」
「ふふ。応援しております」
「……ああ」
景虎は戸口へ向かい、そのまま部屋を出ていった。
先ほどまでとは違い、その足取りに重さはない。
「戻りましょう、緋乃」
「はい」
明羽と緋乃も、そのあとを追うように控えの間を出た。
◇
三人の足音が遠ざかっていく。
そのころ、隣の控えの間では、理斗が壁に背を預けていた。
目を閉じたまま、しばらく動かない。
部屋を隔てる壁越しでは、すべての言葉が鮮明に聞こえたわけではない。
それでも――聞き間違えるはずのない言葉が、いくつかあった。
『私の力は、傷だけでなく毒にも効きます』
『傷や毒を癒すことができます』
そして、景虎が尋ねていた。
『その力、誰が知ってる』
『緋乃だけです』
理斗がゆっくりと目を開ける。
「……傷だけでなく、毒までですか」
小さく呟き、閉ざされた扉へ視線を移した。
朱雀の第一皇女が持つ、誰にも知られていない力。
少なくとも、先ほどまでは緋乃しか知らなかった。
「…………」
理斗はそれ以上何も口にせず、壁から背を離した。
そして何事もなかったかのように、試合場へ戻るため部屋をあとにした。




