違和感
「次は、兄上たちの試合ですね」
明羽は試合場へ視線を戻した。
先ほどまで緋乃が戦っていた試合場では、係の者たちが割れた皿の欠片を拾い集め、次の試合に向けた準備を進めている。
特別試合に出場する翔義、景虎、青嵐、理斗の四人は、すでに準備のため観覧席を離れていた。
「ねえ、明羽」
隣に座る麗華が尋ねた。
「誰が勝つと思う?」
「そうですね……」
明羽が考えるより先に、麗華が続ける。
「ボクは当然、景虎兄上が勝つと思うけど」
「……いいえ」
すぐに小さな声が返ってきた。深仙だった。
「勝つのは……兄様です」
「そんなに強いの? 青嵐殿下」
「はい……。今日出場された青龍の将軍たちも、とてもお強い方々です。でも、兄様は……」
深仙はそこで少し言葉を切った。
「もっと強いです。ずっと、ずっとお強いです」
普段のおとなしい口調のまま、それでも兄の強さについては少しも迷っていなかった。
「うわあ。あの三人の将軍より強いんだ」
麗華が感心したように言う。
「じゃあ、明羽の侍女の子よりも強いのかな?」
「ふふ。麗華さん。『侍女の子』などと仰らず、緋乃と呼んであげてください。ね、緋乃?」
明羽が後ろを振り返ると、緋乃も僅かに笑みを浮かべた。
「はい。どうぞ緋乃とお呼びください、麗華様。深仙様も、よろしければ」
「分かった。じゃあ緋乃ね」
「……私も、緋乃様とお呼びします」
「様まで付けていただかなくとも構いませんよ」
「でも……その方が呼びやすいです」
「でしたら、お好きなように」
緋乃は穏やかに答えた。
そのやり取りの最中、明羽はふと視線を感じた。
少し離れた席にいる渚が、こちらを見ている。だが、その視線は明羽ではなく、後ろに控える緋乃へ向けられていた。
一度だけではない。試合場へ目を戻したかと思えば、しばらくするとまた緋乃へ視線を向けている。
先ほどの試合が、よほど気になったらしい。
「渚様」
「……私?」
声を掛けられた渚が明羽を見る。
「はい。先ほどから緋乃をご覧になっていませんか?」
「別に。見てないけど」
「そうなのですか?」
「そうよ」
「では、私の勘違いですね」
明羽が微笑む。
「……絶対、何か思ってるでしょ!」
「何も申しておりませんよ?」
「その笑い方が怪しいのよ」
そう言いながらも、渚は結局また緋乃へ目を向けた。
「……さっきの試合」
「はい」
「面白かったわ。二本の薙刀を同時に使うなんて、初めて見た」
「ありがとうございます」
「いつもあの戦い方なの?」
「ええ。私には二本が最も扱いやすいもので」
「ふうん……」
渚はしばらく緋乃を見たあと、何かを思い出したように口を開いた。
「じゃあ、『紅般若』って何よ。あなた、さっきそう名乗ってたでしょ?」
「ああ、そちらでございますか」
緋乃は脇に抱えた般若面へ一度、目を落とす。
「紅般若は、私の異名です」
「異名?」
「はい。朱雀皇国では、小納言以上の官職にある者は、天子様より異名を賜る習わしがございます」
「へえ……皇帝……じゃない。帝からもらうんだ」
興味を持ったらしく、麗華が身を乗り出した。
「ええ」
「白虎でも、戦の前に『我こそは――』って名乗ることはあるよ。どこの家の者で、どんな役目に就いているのか、それから名前を名乗るの」
「そうなのですね」
緋乃が小さく頷く。
「でも、皇帝から異名をもらうような習わしはないかな」
「青龍も……」
深仙も会話に加わる。
「戦う前に、身分や役職と名前を名乗ることはあります。でも、異名を賜ることは……ありません」
「国によって随分違うのね」
渚はそう言って、もう一度緋乃を見る。
「それで紅般若、か」
「はい」
「……似合ってたわよ。あの面」
「ありがとうございます」
緋乃が静かに一礼する。
二人のやり取りを見ているうちに、明羽の頬が自然と緩んだ。
「何で貴女が嬉しそうなのよ」
渚が明羽を見る。
すると、明羽が答えるより先に麗華が口を挟んだ。
「明羽にそれ言っても無駄だよ。『当然です! 緋乃は私の侍女ですから!』って返されるだけだから」
「まあ、麗華さん」
明羽が麗華を見る。
「私のことをよくお分かりですね」
「やっぱり言うんだ……」
「当然です! 緋乃は私の侍女ですから!」
「ほらね」
麗華が得意げに渚を見る。
緋乃は何も言わなかった。
「緋乃?」
「何でしょう、殿下」
「今、何か言いたそうなお顔をされませんでしたか?」
「気のせいでございます」
「そうですか?」
「はい」
「ならよいのですが」
「いいんだ……」
麗華が笑い、深仙も小さく笑った。
◇
試合場の片づけも終わり、武道館を満たしていた話し声が次第に小さくなっていく。観客の視線も、四方の入口へ集まり始めた。
「あっ、来た」
麗華の声に、明羽もそちらへ顔を向ける。
準備のために離席していた四人が、四方の入口から姿を現した。
朱雀皇国・皇太子、鳳院翔義。
帝政白虎・皇太子、白牙景虎。
青龍王国・王太子、蒼宮青嵐。
玄武合区・国家主席補佐、玄海理斗。
四人は木製の武器を手に、試合場へ入ってくる。
景虎と青嵐が選んだのは槍。理斗は剣、そして翔義は太刀を選んでいた。
「あら」
兄の手元を見て、明羽は少しだけ目を見開く。
「兄上は太刀を選ばれたのですね」
「この場で弓を使うのは難しいでしょうから、妥当なところかと」
「そうですね。矢尻を木製にしたとしても、人へ向けて放つには危険ですものね」
明羽は試合場に立つ四人を見渡した。
「兄上は弓を最も得意とされますが、太刀の腕も確かです。ただ、今回のお相手は皆様お強いですから……兄上でも、容易な試合にはならないでしょうね」
「仰るとおりかと」
四人の左胸には、これまでの試合と同じ白い皿が取り付けられている。
審判が中央へ進むと、それぞれが武器を構えた。
翔義は太刀を正面に据え、理斗は剣先をやや低く向ける。青嵐が槍を両手で構える一方、景虎は槍を握ったまま青嵐を睨んでいた。
明羽は二人を見比べる。
昨夜、青嵐から告げられた言葉が頭をよぎった。
『僕は、あなたが好きだ』
明羽はその言葉を振り払うように、翔義へと視線を移す。
今は試合だ。昨夜のことを思い出している場合ではない。
審判が右腕を上げた。
「特別試合――始め!」
合図と同時に、四人が一斉に地を蹴る。
中央へ踏み込み、互いの左胸を狙って武器を振るった。
ガンッ!
四つの木製武器がほとんど同時にぶつかり、木同士とは思えないほど重い音が武道館に響く。
一瞬のせめぎ合いの末、四人は互いの武器を弾いて散った。
真っ先に仕掛けたのは景虎だった。槍を引くなり青嵐へ突きを放つが、青嵐は柄で穂先を外へ弾く。
その脇では、翔義と理斗が斬り結んでいた。理斗が太刀を受け流して翔義の左へ回ろうとすると、横薙ぎの一閃に阻まれる。
そこへ青嵐が翔義を狙って踏み込んだ。
だが、横から景虎が割って入り、青嵐へ再び槍を突き出す。
その様子を見ていた麗華が口を開いた。
「景虎兄上、随分と青嵐殿下を狙うね」
「そう……ですね」
景虎は青嵐だけを相手にしているわけではない。翔義や理斗に攻められれば応じている。それでも、自分から仕掛ける相手には青嵐を選ぶことが多かった。
青嵐が槍を押し返して距離を取ると、景虎はすぐに一歩詰める。
「おい」
声を掛けると同時に、青嵐の左胸へ槍を突き出す。青嵐は柄で受け流した。
「何だ」
景虎は槍を引き、その勢いのまま横薙ぎに振るう。今度は青嵐も槍で受け止める。
「気に食わねえ」
「何がだ」
「全部だ!」
「……そうか」
青嵐が不意に力を抜いて横へ退いた。
押し返そうとしていた景虎の身体が僅かに流れる。
その隙を狙って青嵐が槍を返すが、景虎もすぐに槍を戻して受け止めた。
「僕も、お前に好かれる必要はない」
「……上等だ」
景虎が再び踏み込み、二本の槍が続けざまにぶつかる。
観覧席で見ていた明羽は、不思議に思って首を傾げた。
「あのお二人、何か話していますね」
緋乃も二人へ目を向ける。
「そのようですね」
その間に翔義と理斗も加わり、再び四人の乱戦となった。
景虎が青嵐の槍を受けたところへ翔義の太刀が横から迫り、さらに反対側から理斗の剣まで伸びてくる。
景虎は槍を大きく振って三人を牽制し、後ろへ退いた。
「三人は多いだろ!」
「乱戦とは、そういうものだろう」
翔義が平然と返す。
「その通りですね」
理斗も続けた。
「てめえは楽しんでるだろ!」
「もちろん」
景虎が理斗へ槍を突き出す。
理斗は身を沈めてかわすが、そこへ翔義の太刀が振り下ろされた。すぐに剣を戻し、迫る太刀を受け止める。
「お見事です、兄上」
明羽の声が弾んだ。
太刀は翔義が最も得意とする武器ではない。それでも動きに迷いはなく、ほかの三人も隙を見せない。
狙う相手を次々と変えながら、左胸の皿へ攻撃が届きかけるたびに、紙一重でかわすか武器で防いでいく。
「すごい……」
深仙が小さく呟く。
渚も黙ったまま試合へ見入っていた。
激しい攻防が続いても、誰も決定打を与えられない。
やがて青嵐が理斗の剣を槍で弾いた。その隙へ景虎が踏み込み、青嵐もすぐに向き直る。
景虎の突きを、青嵐が外へ弾いた。
景虎が槍を引く。
しかし、その動きが僅かに遅れた。
「……?」
明羽の目が止まる。
青嵐はすでに、槍の穂先より内側へ入り込んでいた。
景虎が後ろへ退こうとするより早く、青嵐がさらに踏み込み、身体を捻る。
次の瞬間、力強い蹴りが景虎の脇腹へ叩き込まれた。
ドッ、と鈍い音が響く。
景虎の身体が後ろへ飛び、肩から地面へ落ちる。そのまま二度ほど転がった。
観覧席が大きくどよめき、明羽も思わず身を乗り出した。
青嵐が景虎へ向かおうとしたところへ、理斗の剣が横から伸びる。
追撃を諦めた青嵐が槍で剣を受け、そこへ翔義も加わった。戦いはそのまま三人の間で続いていく。
一方、景虎は槍を地面へ突き、片膝をつく。
「っ……」
脇腹へ手を当てたのは一瞬だけ。すぐに立ち上がると、青嵐を睨んだ。
「いい蹴りするじゃねえか」
「避けなかったお前が悪い」
「言ってろ」
左胸の皿は無傷のまま、景虎は再び槍を構える。
「……変だな」
麗華が呟いた。
「何がです?」
「あれくらいなら、景虎兄上は避けられたと思う」
明羽は麗華を見る。
「青嵐殿下の蹴りが遅かったって意味じゃないよ。十分速かった。でも、景虎兄上なら、あんなまともには受けないと思う」
幼い頃から景虎を知る麗華がそう言うのなら、気のせいではないのかもしれない。
明羽はもう一度、景虎へ目を向けた。
すでに戦いへ戻っている。理斗の剣を槍で払い、翔義の太刀を柄で受け、青嵐へ槍を返す。
動けてはいる。それでも注意して見れば、動きの端々に僅かな遅れがあった。
翔義の太刀を押し返したあと、踏み込むまでに一瞬だけ間が空く。青嵐の槍をかわしたときも、身体の動きに比べて右腕が遅れていた。
「緋乃」
「はい」
「景虎様の動き、少しおかしくありませんか?」
緋乃も景虎へ目を向け、しばらくその動きを追う。
「……私の目では、そこまで細かな違いまでは追えません」
「そうですか……」
明羽はさらに目を凝らした。
遠くの細部まで見通せる明羽だから、見えているだけなのかもしれない。
景虎の額から汗が流れている。
激しく戦っているのだから、汗をかくこと自体はおかしくない。だが、その顔色は他の三人より明らかに悪かった。
景虎が青嵐の槍を受け、押し返す。槍を引いたとき、右手の指が柄から僅かに浮いた。
すぐに握り直す。
「……右腕?」
次の突きでも、やはり右腕の戻りが遅れている。
その腕を見つめているうちに、金獅子討伐から戻ってきた日の景虎の姿が蘇った。右腕には白い布が巻かれており、宴の席で怪我について尋ねると、景虎はこう答えていた。
『ネメアイだ』
最後に放たれた矢を避けきれなかったのだと説明し、それでも「かすり傷だ」と気にも留めていなかった。
「殿下?」
「……景虎様が金獅子の総大将に射られたのは、あの右腕です」
緋乃も景虎の右腕へ目を凝らす。
その間にも試合は続いている。
景虎は翔義の太刀を受け、理斗の剣を避け、青嵐へ槍を返す。
息は荒くなり、足を止める時間も少しずつ長くなっていた。それなのに青嵐が前へ出れば、景虎も無理に踏み込んでいく。
「どうして……」
明羽が小さく呟いた。
試合開始から、すでに七分以上が経っている。
それでも四人の皿は、一枚も割れていない。
攻防が長引く中、審判が片手を上げた。
「そこまで!」
四人が攻撃を止める。
「長時間の打ち合いとなっている。木製武器と皿を点検するため、一度小休止とする!」
係の者たちが試合場へ入り、四人の武器を順に確かめていった。柄や刃を模した部分に亀裂や欠けがないかを見たあと、左胸の皿と留め具も確認していく。
景虎は何事もなかったように立っている。
試合が止まると、先ほどまでの動きの遅れも分かりにくい。それでも明羽の目には、額に浮かぶ細かな汗も、悪い顔色もはっきり見えていた。
点検を終えた景虎が、正面上段の冥利へ顔を向ける。
「親父」
「何だ」
「厠」
「休憩中に戻れ」
「分かってる」
景虎はそれだけ言うと、試合場脇の入口へ向かった。
足取りに目立った乱れはない。それでも、明羽には無理をしているように見える。
「陛下、私も少し失礼いたします」
今度は理斗が声を上げた。
「汗をかきましたので、水でも浴びて参ります」
「承知した。貴殿も時間までには戻れ」
「はい」
理斗も試合場を離れていく。
明羽は、景虎が消えた方を見つめた。
どうしても、確かめておきたい。
「皆さん、私も少し席を外します」
「どうしたの?」
「少し、外の空気に当たって参ります」
「そう? 試合が再開するまでには戻ってきなよ」
「はい」
明羽は立ち上がり、後ろを振り返る。
「緋乃」
「はい、殿下」
それだけで十分だった。
明羽は目立たないよう観覧席を離れ、緋乃も何も尋ねず、その後ろに続いた。




