紅般若
つい先ほどまで、緋乃は明羽の後ろに控えていた。
朝から様子のおかしい主を気遣い、試合へ向かう前には「怪我はなるべくしないでほしい」「それから勝ってほしい」と注文を重ねられて、小さく息を吐いていた。
その緋乃が今は、濃い紅色の般若面をつけ、二本の薙刀を手に試合場へ立っている。明羽は、どこか誇らしい気持ちでその姿を見つめていた。
向かいには、白虎、青龍、玄武の三人。
白虎の武将は木槍を構えている。
玄武の上級将校は、これまでに出場した二人と比べれば幾分細身だった。それでも一般の兵と並べれば十分に大柄で、手には木製の大太刀を携えている。
青龍の将軍は三人の中ではひときわ若く見えた。髪型も装いも武人にしてはやや派手で、第一印象だけなら少し軽そうにも見える。しかし、木刀を下げたまま、緋乃の手元や構えをじっと観察していた。
審判が四人を見渡し、右腕を上げる。
「第三試合――始め!」
白虎と玄武がほぼ同時に動いた。
左から白虎の木槍が伸び、右から玄武の大太刀が振り下ろされる。緋乃は左の薙刀で槍を払い、右の薙刀で大太刀を受け流した。
カンッ、と木同士がぶつかる音が重なる。
白虎が続けて槍を突き出せば、左の薙刀が穂先を逸らす。玄武が大太刀を返せば、今度は右の薙刀がその軌道を外した。左右から攻められているにもかかわらず、緋乃の足はほとんど動かない。
その背後へ、青龍の将軍が回り込んだ。木刀が左胸の皿へ迫る。
それでも緋乃は振り返らなかった。左手の薙刀を背後へ回す。
カンッ!
木刀が止まった。
青龍の将軍の眉が僅かに動く。
その攻防を観覧席から見ていた深仙が、不思議そうに首を傾げた。
「緋乃様は……見えているのですか……?」
「ふふ、どうなのでしょう。緋乃なら、見えていても不思議ではありませんけれど」
明羽はどこか誇らしげに微笑み、再び試合場へ目を向けた。
白虎と玄武が再び左右から仕掛け、青龍の将軍も加わる。三人の攻撃が、緋乃へ集中した。
「三人とも、あの子を狙ってるね」
麗華が言う。
「そうですね……先ほどから、緋乃ばかり狙われていますね」
三人が一気に距離を詰める。
そのとき、緋乃の両手が動いた。薙刀の柄に沿って手を滑らせ、二本とも柄尻近くを握る。
そして、緋乃は柔らかく手首をひねった。
二本の薙刀が動き出す。
一方は大きく外側を巡り、もう一方は身体の近くを走る。手首から腕、肩、腰までがしなやかにつながり、二本の薙刀が緋乃の周囲を別々の軌道で回り始めた。
木の刃が右へ流れたかと思えば、次の瞬間には反対側から迫る。
どちらが誰を狙っているのか、一目では読み切れない。
緋乃が身体を捻った。
右の薙刀が大きな弧を描く。同時に、左の薙刀が白虎の槍を外へ弾き、そのまま木の刃が左胸を打った。
乾いた音が響く。
ほとんど同時に、もう一本の薙刀が玄武の大太刀の内側を抜け、その木の刃も左胸の皿を薙いだ。
二枚の皿が砕け散る。
だが、緋乃が薙刀を引き戻すより早く、青龍の将軍が地を蹴った。二本とも振り抜いた直後の隙へ飛び込み、木刀を緋乃の左胸へ伸ばす。
緋乃は左の薙刀を短く持ち直し、下から跳ね上げた。
カンッ!
木刀が弾かれる。男はすぐに後ろへ跳び、緋乃から距離を取った。
「白虎、玄武――敗退!」
遅れて審判の声が響き、武道館が大きくどよめいた。
「……すごい」
それまでどこか退屈そうだった渚が、初めて感嘆の声を漏らす。
「何これ! 凄く面白いじゃない!」
渚はもう、完全に試合へ見入っていた。
「……あれ、本当に明羽の侍女の子だよね?」
隣から聞こえた麗華の声に、明羽は頷く。
「はい。緋乃ですよ」
「……普段と全然違うね」
「はい! 緋乃はとても強いですから!」
「明羽が自慢するところなの?」
「そこは、ほら。私の侍女ですので!」
「そういうものなのかな……」
麗華は納得していない様子だ。
観覧席がまだざわめく中、試合場に残ったのは、濃い紅色の般若と青龍の将軍。
青龍の男は木刀を下げたまま、緋乃を正面から見た。
「一つ聞いていいか?」
「何でしょう」
「貴殿の名前を教えてほしい。こんな相手と戦える機会、そうそうないからさ」
男は爽やかに笑う。
「俺は青龍王国軍・将軍、水城颯真」
緋乃も二本の薙刀を揃えた。
「朱雀皇国、元近衛府・左近衛中納言」
一度、言葉を切る。
「紅般若・南條緋乃です」
濃い紅色の面が、颯真を正面から見据えた。
「……元?」
「今は鳳院明羽第一皇女殿下の従者兼侍女ですので」
「なるほど。……南條緋乃殿、か」
颯真は一度頷く。
「覚えた」
「じゃあ南條殿。続きをやろうか」
「ええ」
颯真は口元を僅かに上げ、木刀を構えた。
次の瞬間、地面を蹴る。
先ほどまでとは速さが違う。
颯真は正面から斬り込み、緋乃が受けるとすぐに木刀を引いた。右、左と角度を変えながら攻撃を繰り出し、そのまま薙刀の間合いの内側へ踏み込む。
緋乃が下がれば、颯真も詰める。距離を開かせない。
「あの方……なんて速いのでしょう」
明羽が驚いたように目を見開く。
颯真の狙いは明らかだった。長い薙刀を自由に振るわせないつもりなのだ。
三人を相手にしていた時とは違い、緋乃は思うように間合いを取れない。
明羽の傍らでは、茜も黙って試合場を見ていた。
颯真がさらに踏み込み、木刀で右の薙刀を外へ弾く。緋乃が左の薙刀を動かそうとした瞬間、颯真はさらに懐へ入った。
「緋乃が、思うように薙刀を使えていませんね……」
明羽が心配そうに言った。
「ええ。薙刀を振る隙をことごとく潰されています。……ですが、それだけでは、あの子は倒せません」
茜の声に迷いはなかった。
次の瞬間、颯真の一撃が緋乃の左胸へ迫る。
緋乃は左手を滑らせて薙刀を短く持ち、石突を跳ね上げた。
「っ!」
木刀が下から弾かれ、颯真の胸元が開いた。
緋乃の右の薙刀が走る。
颯真は咄嗟に後ろへ跳び、木の刃をかわした。だが、緋乃はすでに次の動きへ移っている。
緋乃が左の薙刀を返すと、その木の刃が颯真の左胸へ迫った。
颯真が木刀で受ける。
カンッ!
その木刀を左の薙刀で外へ弾くと、空いた左胸へ右の薙刀が走る。
そして、乾いた音とともに白い皿が砕けた。
「青龍、敗退!」
颯真が動きを止める。
割れた皿を一度見下ろし、それから緋乃へ目を向けた。
「……お見事」
緋乃も二本の薙刀を下ろした。
「水城殿も、お見事でした」
二人は互いに一礼する。
「第三試合――朱雀の勝利!」
武道館が大きく沸いた。
「緋乃!」
明羽はぱっと表情を輝かせ、思わず席を立った。
その歓声の中、颯真は一礼から顔を上げた。緋乃へ目を向け、爽やかに笑う。
「南條殿。また機会があれば、相手してくれないか?」
「ええ。喜んで」
「楽しみにしてるよ」
やがて颯真が青龍側へ下がり、緋乃も朱雀側の入口へと向かって行った。
◇
しばらくして、緋乃が観覧席へ戻ってきた。
般若面はすでに外され、装いもいつものものに戻っていた。額には僅かに汗が浮かんでいる。
明羽の傍らにいた茜が、戻ってきた娘へ視線を向けた。
「母上」
「よく戦いました」
「ありがとうございます」
「緋乃!」
明羽もすぐに席を立った。
「お見事でした! 二本の薙刀が、あんなふうに動くなんて……驚きました!」
「ありがとうございます、殿下」
「特に白虎と玄武のお二人を同時に――」
「殿下」
「何でしょう?」
「まず、お座りください」
「……今ですか?」
「今です」
緋乃は般若面を脇に抱えたまま、いつもの顔で明羽を見る。
「先ほども立ち上がっておられましたね。後ろの方のご迷惑になりますよ」
「ですが、緋乃があんなに見事な戦いを見せるものですから」
「私のせいにしないでください」
「少しくらい、よいではありませんか」
「殿下の場合、その『少しくらい』が信用できません」
「またそれを仰るのですか?」
「日頃の行いです」
「緋乃」
明羽は不満そうに頬を膨らませた。
緋乃はそれを気にした様子もなく、明羽の後ろへ回る。
「次の試合も始まります。前をお向きください」
「……はい」
返事を確認すると、緋乃は何事もなかったように、いつもの位置へ控えた。




