相談
その夜。
明羽は寝台の上で、何度目か分からない寝返りを打った。
眠れない。
目を閉じれば、昼間に顔を合わせた景虎の姿が浮かんでくる。
『俺だからじゃないのか』
その一言まで、何度も頭の中で繰り返された。
「……もう」
明羽は布団を鼻先まで引き上げた。
考えたくないのに、考えてしまう。
あの夜、実際に口づけされたわけではない。
それなのに、顔を合わせれば落ち着かなくなる。
声を聞けば、あの夜を思い出す。
挙げ句の果てには、大好きな絵巻物さえまともに読めなくなった。
明羽にとって、これはかなり深刻な問題だった。
「…………」
このままではいけない。
けれど、どうすればいいのかも分からない。
明羽は薄暗い天井を見つめながら、しばらく考えた。
こういうことに詳しそうな人。
景虎のことをよく知っていて、それでいて話しやすい人。
一人だけ、思い当たる人物がいた。
◇
翌朝。
朝餉を終えた明羽は、緋乃へ声を掛けた。
「緋乃」
「はい」
「蘭様にお会いしたいのですが」
「蘭第一妃に、でございますか?」
「はい」
緋乃がわずかに首を傾げる。
「何かご用がおありなのでしょうか?」
「少し、お話を伺いたくて」
「どのようなお話でしょう?」
「それは……」
明羽は一瞬だけ口ごもった。
「蘭様にお会いしてから考えます」
「左様でございますか」
明らかに何かを隠している返答だったが、緋乃はそれ以上尋ねなかった。
部屋の外に控えていた白虎の女官へ取り次ぎを頼むと、ほどなくして蘭から了承の返事が届いた。
明羽は緋乃を伴い、皇城の奥にある蘭の部屋へ向かう。
扉の前まで来たところで、明羽は足を止めた。
「緋乃」
「はい」
「申し訳ないのですが、ここで待っていていただけますか?」
「……私が、でございますか?」
「はい」
緋乃は明羽の顔をじっと見た。
「護衛としては、できれば中までお供したいのですが」
「蘭様のお部屋ですし、扉のすぐ外にいてくださるのでしょう?」
「それはもちろんでございます」
「でしたら、お願いいたします」
「…………」
緋乃は少し考えたあと、一礼した。
「承知いたしました」
「ありがとうございます」
明羽がほっと息を吐く。
「殿下」
「何でしょう?」
「私には聞かれたくないお話なのですね」
「…………」
明羽の動きが止まった。
緋乃はそれ以上追及せず、何事もなかったように扉の脇へ下がる。
「お戻りをお待ちしております」
「……はい」
明羽は少し気まずそうに答え、蘭付きの女官に案内されて部屋へ入った。
◇
「ごきげんよう、明羽さん」
「ごきげんよう、蘭様。突然お時間をいただき、申し訳ございません」
「気にしないで。ちょうど暇をしていたところなの」
蘭は明羽を向かいの椅子へ勧めた。
部屋には蘭付きの女官が二人いたが、蘭が目配せすると、二人とも静かに退出していく。
ほどなくして、部屋に残ったのは蘭と明羽だけになった。
「それで、今日はどうしたの?」
「少し……ご相談したいことがありまして」
蘭が明羽の顔を見る。
「景虎のこと?」
「…………」
明羽の動きが止まった。
どうやら、その反応だけで十分だったらしい。
「やっぱり」
「な、なぜお分かりになるのですか?」
「緋乃さんまで外に残して、景虎の母親である私に相談に来たのよ。少しくらい察するわ」
「それだけで決めつけるのは早いと思います」
「なら、違う?」
「…………」
答えられない。
蘭はくすりと笑った。
「聞かせてちょうだい」
「その前に一つよろしいでしょうか」
「何かしら?」
「どうしてそんなに嬉しそうなのですか?」
「気のせいよ」
明羽はじっと蘭を見た。
「……そういうことにしておきます」
「あら、助かるわ」
「認めているようなものではありませんか」
蘭は答えず、続きを促すように微笑んだ。
明羽は小さく息を吐く。
「……金獅子討伐軍が凱旋した日の夜のことなのですが」
そこから、明羽はあの夜のことを話した。
宴の途中で外へ出たこと。
一人になったところへ、かなり酒に酔った景虎がやって来たこと。
自分が景虎の怪我を気にしていたと話したところ、
『俺だからじゃないのか』
そう言われたこと。
そして――。
「景虎様が、急に近づいてこられまして……」
そこまで話したところで、明羽の声が小さくなった。
蘭の表情も、先ほどまでとは少し変わる。
「口づけしようとしたのね」
「……はい」
「それで?」
「叩きました」
「景虎を?」
「はい。頬を」
「そう」
蘭は少し考えるように目を伏せた。
先ほどまでなら何か面白がるようなことを言いそうだったが、今度は違った。
「明羽さん」
「はい?」
「それは、景虎が悪いわ」
明羽が目を瞬く。
「酒に酔っていたとしても、明羽さんの気持ちも確かめずに勝手に口づけしようとしたのなら、景虎が悪い。咄嗟に止めようとして叩いたのなら、気に病む必要はないわ」
「…………」
「私は景虎の母親だけれど、そこを庇うつもりはないわ。お酒も言い訳にはならないもの」
明羽は少し驚きながら蘭を見た。
「怒っておられませんか?」
「どうして私が明羽さんに怒るの?」
「景虎様を叩いてしまいましたので……」
「叩かれるようなことをしたのは景虎でしょう」
「それは……」
明羽は膝の上で指を組んだ。
「私自身も、あのとき何が何だか分からなくなってしまって。怒っていたのか、驚いていたのか、恥ずかしかったのか……」
「全部だったのかもしれないわね」
「全部……」
「人の気持ちは、一つとは限らないもの」
明羽は黙ってその言葉を聞いた。
これまで明羽は、自分の気持ちはもっと簡単に分かるものだと思っていた。怒っているなら怒っている。嫌なら嫌。けれど、今回ばかりはそう簡単には分けられないらしい。
「では、今も景虎に腹を立てている?」
「……分かりません」
「嫌いになった?」
明羽は少し考えた。
「少なくとも、そうではないと思います」
「そう」
蘭は穏やかに頷いた。
「なら、今すぐ答えを出さなくてもいいんじゃない?」
「よろしいのでしょうか」
「もちろん。自分でも分からないものを、無理に決める必要なんてないわ」
蘭は穏やかに笑った。
「それで、明羽さんが本当に知りたいのは?」
「……あの言葉です」
「『俺だからじゃないのか』?」
「はい」
明羽は小さく頷く。
「どういう意味なのでしょう」
「本人ではないから断言はできないけれど」
蘭はそう前置きした。
「景虎は、自分だから明羽さんが心配したのだと思いたかったんじゃないかしら」
「景虎様だから?」
「ええ」
「ですが、怪我をされていれば、誰であっても心配くらいはいたします」
「明羽さんなら、そうでしょうね」
「でしたら――」
「景虎は、それでは嫌だったのでしょう」
明羽が言葉を止めた。
「……なぜです?」
「自分は他の人とは違うと思いたかったから」
「…………」
「前にも話したでしょう? 景虎に正面からものを言える人は、そう多くないって」
以前、蘭と書物庫で話したときのことを思い出す。
「明羽さんは、景虎が皇太子だからと必要以上に遠慮しないでしょう?」
「失礼なことは申し上げないようにしております」
「本当に?」
「……できる限りは」
蘭が笑う。
「おかしいと思えば、おかしいと言う。腹が立てば言い返す。それでいて、景虎を怖がって距離を置くわけでもない。あの子にとって、そういう相手は珍しいのよ」
「珍しい……」
「だから、明羽さんのことを気にしているのだと思うわ」
明羽の頬がじわりと熱くなる。
「気にしている、とは……」
「そこから先は、自分で考えて」
「蘭様」
「だって、本人ではないもの。母親だからといって、息子の心の中まで全部分かるわけではないわ」
「……それは、そうですが」
蘭は少し楽しそうに笑っている。
「では、私はどうすればよいのでしょう?」
「何が?」
「景虎様と、これからどのように接すれば……」
「明羽さんは、どうしたいの?」
「それが分からないから、ご相談しているのです」
「あら、そうだったわね」
「蘭様……」
「ごめんなさい」
蘭は笑いを収める。
「無理に以前と同じようにする必要はないと思う。でも、話したくないわけでもないのでしょう?」
「…………」
考えてみる。
景虎の顔を見ると落ち着かない。
あの夜のことも思い出す。
けれど、このままずっと無視し続けたいのかと聞かれれば――。
「……それは、違うと思います」
「なら、次に声を掛けられたら返事をしてみたら?」
「それだけでよろしいのでしょうか」
「まずはそれだけでいいでしょう」
蘭はそう言ってから、ふと思い出したように尋ねた。
「他にも困っていることはある?」
「ございます」
「何かしら?」
「絵巻物に集中できません」
「…………」
「昨日、書物庫で四巻も試したのですが、どれもほとんど頭に入らなくて」
明羽は真剣だった。
「気を抜くと、景虎様の顔や声を思い出してしまうのです。これは非常に困ります」
「…………そう」
「蘭様?」
蘭が口元を押さえていた。
「笑っておられませんか?」
「笑っていないわ」
「目が笑っております」
「ごめんなさい」
「やはり笑っていたのですね」
「だって、あまりにも明羽さんらしいから」
「私にとっては深刻なのです」
「分かっているわ。本当に」
そう言いながら、蘭はまだ少し楽しそうだった。
「でも、話して少しは楽になったでしょう?」
「……そうですね」
明羽は少し考えた。
景虎の言葉の意味が、すべて分かったわけではない。
自分が景虎をどう思っているのかも、まだ分からない。
それでも、昨夜まで頭の中でもつれていたものが、少しだけほどけた気がした。
「ありがとうございます、蘭様」
「どういたしまして」
明羽が立ち上がる。
「では、そろそろ失礼いたします」
「あら、もう?」
「十分お話を伺えましたので」
「景虎の幼い頃の話も聞いていかない?」
「結構です」
「初恋の話とか」
「あるのですか?」
反射的に聞いてしまった。
「…………」
蘭の目がゆっくりと細くなる。
明羽は自分が何を尋ねたのか理解し、頬を赤くした。
「今のは忘れてください」
「まだ何も言っていないけれど?」
「そのお顔で分かります!」
「残念ね」
「何がです?」
「秘密」
「もう……」
明羽は小さく息を吐いた。
「本日はありがとうございました」
「ええ。またいつでもいらっしゃい」
「はい」
明羽は一礼し、部屋を出た。
◇
「殿下」
扉の外で待っていた緋乃が、明羽の姿を見る。
「お話は済まれましたか?」
「はい」
「左様でございますか」
それだけ言うと、緋乃は明羽の隣へ並んだ。
二人で客殿へ戻るため、回廊を歩き出す。
緋乃は何も尋ねない。
明羽も、自分から話すつもりはなかった。
ただ、蘭の部屋へ来る前よりは、足取りが少し軽くなった気がする。
「殿下」
「何でしょう?」
「先ほどより、お顔が穏やかになられましたね」
「そうでしょうか?」
「はい」
明羽は自分の頬へ手を触れた。
「相談してよかったのかもしれません」
「それは何よりでございます」
「内容は聞かれないのですか?」
「殿下がお話しになりたいのであれば、お聞きいたします」
「……今は結構です」
「承知いたしました」
それで会話は終わった。
少しだけ拍子抜けしながらも、明羽は前を向く。
そのときだった。
回廊の向こうから、一人の男が歩いてくる。
「…………」
明羽の足が止まった。
景虎だった。
昨日までなら、また知らないふりをしていたかもしれない。
だが今は、蘭に言われたばかりだ。
次に声を掛けられたら、返事をしてみる。
「……朱雀姫」
景虎も明羽に気づき、足を止めた。
明羽は一瞬だけ迷った。
だが、蘭に話したことで、胸の内は先ほどよりずっと落ち着いていた。
「ごきげんよう、景虎様」
「…………」
今度は景虎が黙った。
「何です?」
「いや」
景虎は少し気まずそうに視線を逸らした。
「今日は聞こえてんだな」
「聞こえております」
「昨日は無視しただろ」
「昨日は昨日です」
「何だそりゃ」
「そのままの意味でございます」
「…………」
しばらく、妙な沈黙が落ちる。
やがて景虎が緋乃を見る。
「少し、こいつと話していいか」
緋乃はすぐには答えず、明羽へ視線を向けた。
明羽は少し迷ったあと、頷く。
「大丈夫です」
「……承知いたしました」
緋乃は会話が聞こえないところまで下がったが、二人の姿はしっかりと視界に入れていた。
景虎が明羽へ向き直った。
「…………」
「お話とは?」
「あの夜のことだ」
明羽の身体が僅かに強張る。
景虎が明羽の顔をじっと見る。
「……悪かった」
「え?」
「だから、悪かったっつってんだ」
明羽は目を瞬く。
景虎が謝るとは思っていなかった。
「酒は言い訳にしねえ。勝手に近づいたのは俺が悪かった」
「…………」
「嫌だっただろ」
明羽はすぐには答えられなかった。
嫌だったのか。
驚いたのか。
恥ずかしかったのか。
それすら、まだ自分ではうまく分けられない。
「……驚きました」
「ああ」
「とても」
「分かってる」
「景虎様が急にあのようなことをなさるとは思っておりませんでしたので」
「悪かった」
もう一度、景虎が言った。
明羽はしばらく彼の顔を見つめる。
「私も、咄嗟に叩いてしまって――」
「それはいい」
景虎が遮った。
「俺が悪い」
「…………」
「だから、お前が謝るな」
その言葉に、明羽の肩から僅かに力が抜けた。
「では、一つだけ」
「何だ」
「もう、あのように突然なさらないでください」
「ああ」
景虎は短く答えた。
明羽はその返事を聞いて、静かに息を吐く。
これで全部が分かったわけではない。
『俺だからじゃないのか』
あの言葉の意味は、まだ本人から聞いていない。
けれど、今はそれでもいいような気がした。
「……じゃあな」
「はい」
景虎が踵を返しかける。
だが、すぐに足を止めた。
「それと」
「何でしょう?」
「……もう無視すんな」
明羽は一瞬きょとんとしたあと、わずかに目を細めた。
「それは、今後の景虎様のお振る舞い次第でございます」
「お前な……」
「何か?」
「何でもねえ」
景虎は呆れたように息を吐き、そのまま歩き去っていった。
その背を見送りながら、明羽は自分でも気づかないほど小さく笑う。
「殿下」
緋乃が戻ってきた。
「お話は終わられましたか?」
「はい」
「では、参りましょうか」
「ええ」
二人で再び歩き出す。
不思議だった。
景虎の顔を見ても、昨日までのように顔を合わせることを避けたいとは思わない。
胸の奥には、まだ落ち着かない何かが残っている。
それでも、少なくとも無視をし続ける必要はなくなった。
◇
その夜。
明羽は寝台の上で、翔義からもらった絵巻物の一巻を広げていた。
読み進めていると、ふと景虎の顔が浮かんだ。けれど昨日とは違い、絵巻物の内容が頭から抜け落ちることはなかった。
「……読めますね」
思わず、小さな声が漏れた。
昨日、書物庫では何度読んでも頭に入らなかったというのに、今はきちんと物語を追えている。
明羽は満足そうに頷くと、再び絵巻物へ目を落とした。
どうでもいい話ですが、初期構想段階での主人公は男性でした。
皇太子自ら各国で人質として過ごし、滞在国の姫と……などと考えていました。
ですが、ありきたり設定過ぎるかなと思い辞めました。
とはいえ、明羽のキャラは好きです。やや大人しめの主人公ですが、狂ってるので動かしやすいキャラクターだと思っています(狂わせたのは私ですが)。




