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絵巻物と、知らぬふり

 翌日。


 翔義(しょうぎ)は、朱雀から持ってきた絵巻物を届けるため、明羽(めいう)の滞在する客殿を訪れていた。


「こちらで全部だ」


 卓の上には、六巻の絵巻物が並べられている。


「六巻あったのですね」


「ああ」


「思っていたより多くて嬉しいです」


「そうか」


 明羽は目を輝かせながら、そのうちの一巻を手に取った。


「兄上は、どのようなお話かご存じですか?」


「知らん」


「では、絵師は?」


「知らん」


「題くらいは?」


「見れば分かるだろう」


「兄上は本当に、絵巻物にご興味がないのですね」


「お前ほど興味がある者の方が珍しい」


「そんなことはございません」


 明羽は不服そうに答えながら、手にした一巻へ視線を落とした。


 表紙へ指をかける。


 今すぐ開いてしまいたい。


 けれど、ふと顔を上げる。


 向かいには翔義が座っている。


「……あとで拝見いたします」


「今すぐ読まないのか?」


「兄上がいらっしゃるのに、絵巻物ばかり読んでいるわけにはまいりません」


「そうか」


 翔義はわずかに目を細めた。


「何です?」


「いや。少し安心しただけだ」


「どういう意味でしょう?」


「そのままの意味だ」


「よく分かりません」


 明羽には納得がいかなかったが、翔義はそれ以上説明する気がないらしい。


 緋乃(ひの)が淹れた茶を二人の前へ置く。


「それで兄上。本国ではお変わりありませんか?」


「ああ。特に大きな問題はない」


「父上と母上も?」


「元気だ。二人とも、お前のことを気にしていたぞ」


「またですか?」


「またとは何だ」


「昨日も兄上に、食事や睡眠や体調のことまで聞かれたばかりではありませんか」


「俺が聞くのと、父上たちが心配するのは別だろう」


「皆様、心配しすぎです」


「お前だからだ」


「どういう意味ですか?」


「そのままの意味だ」


「先ほども同じことを仰いましたね」


 明羽が頬を膨らませると、翔義は小さく笑った。


 昨日、久しぶりに兄と顔を合わせたものの、到着したばかりで何かと慌ただしく、落ち着いて話す時間はほとんどなかった。


 こうして向かい合って話していると、白虎へ来る前の日々に戻ったような気がする。


 生まれ育った宮中の話を聞くのも、思っていた以上に楽しかった。


「そういえば、父上が先日――」


 翔義の話を聞きながら、明羽は何気なく頷く。


「それは父上らしいですね」


「ああ。母上には呆れられていたがな」


「ふふっ」


 明羽が笑う。


 もっとも、視界の端には先ほどから六巻の絵巻物が入り続けている。


 気にならないわけがなかった。


「……明羽」


「はい?」


「気になるなら読めばいいだろう」


「何のことでしょう?」


「さっきから何度そっちを見たと思っている」


 明羽は絵巻物へ向けていた視線を、そっと翔義へ戻した。


「……少しだけです」


「嘘をつけ」


「兄上のお話も、きちんと聞いておりますよ」


「それは分かっている」


「でしたら問題ございません」


「そういう問題か?」


 翔義は呆れたように息を吐いた。


 それからも二人は、朱雀での出来事や宮中の者たちについて話した。


 明羽も白虎へ来てからあった他愛のない出来事をいくつか話し、翔義は時折呆れたり、笑ったりしながら耳を傾ける。


 そうしてしばらく過ごし、二杯目の茶も飲み終えた頃。


 翔義が席を立った。


「では、俺は戻る」


「もうそのような時間ですか」


「ああ。このあと白虎側との打ち合わせもある」


「武闘会の?」


「それも含めてだ」


 明羽も立ち上がった。


「絵巻物、本当にありがとうございます」


「気に入るかは知らんぞ」


「それは読んでからのお楽しみです」


 明羽は嬉しそうに六巻を見たあと、翔義へ向き直った。


「途中までお送りいたします」


「別にいいぞ」


「私がそうしたいのです」


「……好きにしろ」


 翔義を見送るため、明羽と緋乃も客殿を出た。


 三人で、朱雀一行に割り当てられた客殿へ続く回廊を歩いていく。


 その途中、前方から一人の男が歩いてきた。


「…………」


 その姿を認めた瞬間、明羽の足がわずかに鈍る。


 景虎(かげとら)だった。


 見なかったことにしよう。


 明羽は何事もなかったように前へ視線を戻した。


 だが、当然ながら相手はそうしてくれない。


「朱雀の皇太子」


「景虎殿下」


 翔義が足を止める。


 仕方なく、明羽と緋乃も立ち止まった。


「昨日は休めたか?」


「ええ。おかげさまで」


「ならいい」


 短く言葉を交わしたあと、景虎の視線が翔義の隣へ移った。


 明羽はその視線に気づいていないふりをする。


「……おい、朱雀姫」


「…………」


「お前だよ」


 無視するつもりだった。


 けれど、今は翔義が隣にいる。


 さすがに何度も呼ばれて何も答えなければ、かえって不自然だ。


 明羽はゆっくり景虎へ顔を向けた。


「何でしょう、景虎殿下」


 できるだけ普段通りに言ったつもりだった。


 しかし景虎は眉を寄せる。


「……何だ、その態度」


「何のことでしょう?」


「妙によそよそしいだろ」


「いつも通りでございます」


「どこがだ」


「いつも通りです」


 明羽はきっぱりと言い切った。


 その瞬間。


 景虎の顔を正面から見てしまった。


『俺だからじゃないのか』


「…………っ」


 あの夜の声が、唐突に蘇る。


 酒の匂い。


 肩へ置かれた手。


 すぐ目の前まで近づいてきた景虎の顔。


 そして、少しずつ近づいてきた唇。


 明羽は勢いよく視線を逸らした。


「……お前、何で顔赤いんだ?」


「赤くありません」


「赤いだろ」


「赤くありません!」


「いや、どう見ても――」


「兄上。参りましょう」


「……ああ」


 明羽は景虎の言葉を遮るように翔義を促し、そのまま歩き出した。


「おい、朱雀姫!」


 背後から景虎の声が飛んでくる。


 今度こそ聞こえないことにした。


 しばらく歩いたところで、翔義が口を開く。


「明羽」


「はい?」


「景虎殿下と何かあったのか?」


「…………」


 明羽の足が止まりそうになった。


「何もございません」


「そうか」


「はい」


「…………」


 それだけだった。


 翔義は追及してこない。


 明羽は少し安堵し、それと同時に妙な居心地の悪さを覚えた。


「……何です?」


「何も言っていないが」


「ですが、何か言いたそうなお顔をされています」


「そう見えるか?」


「見えます」


 翔義はしばらく妹の顔を眺めた。


「お前が何もないと言うなら、今はそういうことにしておく」


「本当に何もございません」


「分かった」


「信じておられませんね?」


「信じろという方が難しい」


「兄上」


 翔義は小さく息を吐いた。


「ただ、何かあったなら俺に言え」


 先ほどまでとは違う、低い声だった。


「お前が白虎で誰と親しくしようと、俺が口を出すつもりはない。だが、嫌なことをされたのなら話は別だ」


「…………」


 明羽はすぐには答えられなかった。


 あの夜は、何が起きたのか分からないほど混乱して、咄嗟に景虎を叩いた。


 怒っていたのか、恥ずかしかったのか。今でも明羽にはうまく説明できない。


 ただ、景虎の顔を見るだけで、あのときのことを思い出してしまう。


「……はい」


 結局、明羽はそれだけ答えた。


 翔義はそれ以上何も聞かなかった。


 朱雀の客殿へ向かう分かれ道まで来ると、翔義が足を止める。


「ここまででいい」


「はい」


「絵巻物ばかり読んで、武闘会を見逃すなよ」


「そのようなことはいたしません」


「お前ならあり得る」


「失礼です」


 いつもの調子で言い返すと、翔義はようやく少し笑った。


「では、またな」


「はい。また後ほど」


 明羽は兄を見送り、その姿が見えなくなってから踵を返した。


 隣には緋乃がいる。


 何も言わない。


 それがかえって気になり、明羽は横目で緋乃を見た。


「……何です?」


「何も申し上げておりませんが」


「そうですね」


「はい」


「…………」


 明羽は前を向いた。


 以前にも、緋乃には同じことを尋ねられた。


 そのときも「何もない」と答えたのだから、もう問い詰めるつもりはないのだろう。


 何もない。


 本当に、何もないのだから。


 そう思うことにした。


 ◇


「……おかしいですね」


 皇城の書物庫で、明羽は開いた絵巻物を前に首を傾げていた。


 翔義からもらった六巻は、客殿へ大切に置いてきた。


 あれは夜、部屋へ戻ってからゆっくり読むつもりだ。


 せっかく白虎にいるのだから、昼のうちは白虎でしか読めない絵巻物を読んでおきたい。


 そう考えて、明羽はいつものように書物庫へやって来た。


 今読んでいるのは、山中に隠された宝を探して旅をする一行の物語だった。


 恋愛物ではない。


 男女が抱き合う場面もなければ、口づけをする場面もない。


 にもかかわらず。


「…………」


 明羽は少し前まで絵巻を巻き戻した。


 もう一度読む。


 山道を進んでいた一行が、崖の上で何かを見つける。


 そこで主人公が仲間へ声をかけ――。


「…………」


 また巻き戻す。


「殿下?」


 向かいに座る緋乃が声を掛けてきた。


「何でしょう?」


「先ほどから、同じところを何度もご覧になっておりますが」


「…………」


 言われて初めて気づいた。


 確かに、同じ場面を三度は読んでいる。


 それなのに、何が描かれていたのかほとんど頭に残っていない。


「少し考え事をしていただけです」


「左様でございますか」


「はい」


 明羽は再び絵巻物へ視線を落とした。


 今度こそ集中する。


 主人公たちは崖を登り、その先に――。


『俺だからじゃないのか』


「…………」


 明羽の手が止まった。


 なぜ。


 なぜ今、思い出すのだろう。


 景虎など、この絵巻物には一切関係がない。似た人物が描かれているわけでもない。


 それなのに、気を抜くとあの声が頭の中へ入り込んでくる。


 明羽は小さく息を吐いた。


「別のものにいたします」


「こちらはもうよろしいのですか?」


「今日はあまり合わないようです」


 絵巻物を巻き、元の棚へ戻す。


 次は動物を題材にしたものを選んだ。


 これなら大丈夫だろう。


 鳥や獣たちが登場する昔話である。


 明羽は最初から読み始めた。


「…………」


 しばらくして、また景虎の顔が浮かんだ。


 明羽は絵巻物を閉じる。


「殿下?」


「次にいたします」


「まだほとんどお読みになっておりませんが」


「今日は、このお話ではない気分なのです」


「左様でございますか」


 三巻目には軍記物を選んだ。だが、読み始めて間もなく景虎の顔が浮かび、明羽はそれも閉じてしまった。


 四巻目は旅物。それでも結果は同じだった。


「…………」


 明羽は卓の上に両手を置いた。


 これは、おかしい。


 非常におかしい。


 絵巻物を読んでいるのに、絵巻物以外のことを考えている。


 しかも考えている相手が、景虎である。


 そんなことは、これまで一度もなかった。


「殿下。今日はお戻りになりますか?」


 緋乃に尋ねられ、明羽はすぐには答えられなかった。


 目の前には、まだ読んだことのない絵巻物がいくつもある。


 普段なら、帰ろうと言われても、あと一巻だけと粘るところだ。


 それなのに今日は、続きを読みたいという気持ちよりも、どうにか気持ちを落ち着かせたいという思いの方が強かった。


「……そうですね」


 明羽はゆっくり立ち上がった。


「今日は戻りましょう」


「承知いたしました」


 緋乃は何も尋ねず、明羽が閉じた絵巻物を棚へ戻した。


 書物庫を出て、二人で客殿へ向かう。


 明羽は歩きながら、何度も自分へ言い聞かせた。


 景虎に口づけされたわけではない。


 何も起きていない。


 あの夜のことは、忘れてしまえばいい。


 景虎の言葉の意味など、考える必要もない。


 知らないふりをしていれば、そのうち気にならなくなる。


 そう思っていた。


 けれど今日、顔を合わせただけで全部思い出した。


 そして今度は、大好きな絵巻物まで頭に入らない。


「…………」


 明羽は足を止めた。


「殿下?」


 緋乃が振り返る。


「……これは、少々困りました」


「何がでございますか?」


 明羽はしばらく黙っていたが、やがて首を横に振った。


「いいえ。何でもございません」


 そう答えて、再び歩き出す。


 何でもない。


 何でもないはずなのだ。


 けれど――。


 絵巻物に集中できないという事実だけは、どうしても知らないふりができなかった。

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