要人集結:朱雀皇国
「もう一週間ですか」
明羽が呟くと、隣を歩いていた緋乃が頷いた。
「はい。深仙様とお茶をされた日から、それくらいになります」
「早いものですね」
「殿下は毎日のように書物庫へ通っていらっしゃいますから、余計にそう感じるのでは?」
「それは否定できません」
明羽は素直に認めた。
武闘会までも、あと一週間ほど。
銀嶺府の武道館では、すでに準備が進んでいるらしい。皇城でも、出場する武人や各国の戦い方についての話を耳にすることが増えていた。
そのとき、廊下の向こうから一人の女官が足早にやって来た。
「明羽殿下」
「はい?」
「朱雀皇国の一行が銀嶺府へ入りました。間もなく皇城へ到着するとのことです」
明羽の目が大きくなる。
「兄上が?」
「間違いございません」
緋乃を見ると、彼女もいつもより僅かに表情を明るくしていた。
「参りましょう、緋乃」
「はい」
◇
皇城の正門前には、すでに出迎えの者たちが集まっていた。
中央には皇帝・白牙冥利が立ち、蘭と霞、景虎、征吾ら白虎の皇族がその傍らに並んでいる。
玄海理斗と蒼宮深仙も、少し離れた場所から到着を待っていた。
明羽と緋乃が加わって間もなく、正門の向こうに朱雀の旗が見えてくる。
「殿下、参られました」
「ええ」
先頭を進む騎兵に続き、一台の馬車と数台の荷車が近づいてくる。その周囲を、二十人ほどの兵が固めていた。
明羽はその中に、すぐ見慣れた姿を見つける。
「兄上……!」
朱雀皇国皇太子、鳳院翔義。
離れてからまだ一月も経っていない。それでも、久しぶりに見る兄の姿に明羽の顔は自然と綻んだ。
翔義の後ろには、二人の男女が馬を進めている。朱雀皇国の大納言たちだった。
朱雀では、大納言をはじめとした官職名が、軍を率いる者の呼称としても用いられている。政務を担う高官であると同時に、戦となれば兵を指揮する立場でもあった。
その一人へ目を向けた緋乃が、静かに呟く。
「……母上」
「茜殿ですね」
「はい」
南條茜。
緋乃の母であり、朱雀の大納言の一人だ。
馬上でも背筋を真っ直ぐに伸ばし、正門に並ぶ者たちへ鋭い視線を向けている。その佇まいは緋乃とよく似ていたが、茜の方が一層近寄りがたい。
「お元気そうですね」
「はい。相変わらずでございます」
やがて一行が正門前へ到着する。
翔義が馬から降り、二人の大納言もそれに続いた。
それと同時に、馬車の扉が開く。
「んん……やっと着いた……」
一人の少女が、いかにも寝起きといった顔で降りてくる。
長い栗色の髪に、ややつり上がった目。可愛らしく整った顔立ちをしているが、その立ち姿からは気の強さが滲み出ていた。
少女は両腕を上へ伸ばし、大きく伸びをする。
「あー、もう! やっぱり馬車は嫌い!」
「子女主席!」
続いて馬車から降りた玄武の従者が、青ざめた顔で駆け寄った。
「何よ」
「白虎皇帝陛下の御前でございますよ!」
「見れば分かるわよ」
「でしたら、どうかお言葉遣いを!」
「分かってるわよ! 今からちゃんとするから!」
「最初からちゃんとなさってください!」
「うるさいわね!」
「ひぃっ……!」
怒鳴られた従者が肩を竦める。
少女はそんな従者を一瞥すると、咳払いを一つした。次の瞬間には背筋を伸ばし、先ほどまで寝ぼけていた者とは思えない顔をしている。
玄海渚。
理斗の妹であり、現在は玄武から朱雀へ人質として預けられている少女だ。
翔義が冥利の前まで進み、一礼する。
「白牙陛下。この度の武闘会、朱雀皇国より招きに応じ参上いたしました」
「うむ。待っていたぞ、朱雀の皇太子」
冥利は上機嫌に頷いた。
「条約以前なら、こうして他国の者たちを帝都へ招き、武を競う催しを開くなど考えられもしなかった」
「仰る通りでございます」
「白虎が主催する以上、存分に楽しんでもらわねばな。朱雀の武も見せてもらおう」
「承知いたしました。こちらも、そのつもりで参りました」
「ははっ、頼もしい。長旅で疲れたであろう。あとでゆっくり休むといい」
「お気遣い、ありがとうございます」
翔義が改めて一礼すると、今度は渚が前へ出た。
「玄海渚です。この度はお招きいただき、ありがとうございます」
先ほどとはまるで違う丁寧な挨拶だった。
後ろにいる従者が心底安心したような顔をしている。
「うむ」
冥利は渚を見ながら、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、そなたの正式な役職名は随分と長かったな。ここでは何と呼べばよい?」
「玄武の姫で構いません」
「ほう」
「国外でいちいち全区子女国家後方保衛主席なんて呼ばれていたら、面倒ですから」
「では、渚姫と呼ばせてもらおう」
「ええ。それで構いません」
「フッ、随分と威勢のよい姫だな」
「よく言われます」
「それは何よりだ」
「……何が何よりなのかしら」
渚が小声で呟く。
「子女主席……!」
すかさず従者が反応し、渚は面倒そうにそちらを睨んだ。
そのやり取りを横目に、翔義は景虎と征吾にも会釈をする。
二人がそれぞれ返したあと、ようやく翔義の視線が明羽へ向いた。
「明羽」
「兄上」
明羽はすぐに一歩前へ出る。
「お久しぶりでございます」
「ああ」
翔義は答えるなり、妹の頭から足元までゆっくり視線を動かした。
「変わりはないか?」
「はい。元気にしております」
「食事は?」
「毎日きちんといただいております」
「眠れているか?」
「もちろんです」
「体調は?」
「一度も崩しておりません」
「何か困っていることは?」
「困っていること……」
明羽は真剣に考え込んだ。翔義も黙って答えを待つ。
「一つございます」
「何だ?」
「一年では、白虎の絵巻物をすべて読み切れないかもしれません」
「…………」
翔義の顔から力が抜けた。
「兄上?」
「……それ以外は?」
「ございません」
「そうか」
短く答えた翔義が、深く息を吐く。
「何です?」
「いや。元気そうで安心した」
「ですから、私は大丈夫だと申し上げていたではありませんか」
「お前の『大丈夫』ほど信用ならない言葉もない」
「失礼です」
明羽が頬を膨らませる。
少し離れたところでは、深仙が二人の様子をじっと見ていた。
「本当に……仲がよいのですね」
隣にいた理斗がそちらを見る。
「そうですね」
深仙はしばらく明羽と翔義を見つめていたが、やがて目を伏せた。
「……兄様も、元気でしょうか」
「青嵐王子殿下が、恋しくなりましたか?」
「はい……」
深仙を見送るため、四国の国境まで来ていた青龍王太子・蒼宮青嵐。
深仙は少しだけ考えたあと、ぽつりと呟く。
「今……とても……とてもとてもとても……会いたくなりました」
「…………」
理斗が何とも言えない顔で深仙を見る。
「……かなり恋しいようですね」
「はい……とても」
声音はいつも通り眠たげなのに、言葉にだけは妙な熱がこもっていた。
やがて渚と理斗の視線が重なる。
「久しぶりですね、子女主席」
「そうね。国家主席補佐」
「朱雀での暮らしはいかがです?」
「悪くないわ」
「それは結構」
それだけ言葉を交わすと、二人はあっさりと視線を外した。先ほどの自分と翔義とは、随分違う兄妹らしい。
「明羽」
「はい?」
兄に呼ばれ、明羽はそちらへ顔を戻した。
「お前に渡すものがある」
「私にですか?」
「ああ」
翔義が後方の荷車を示す。
「朱雀を発つ前に、何か持っていくものはないかと聞いたとき、お前は必要ないと言っていただろう」
「はい」
「お前が白虎へ行ったあとに出た絵巻物を、何巻か持ってきた」
「…………絵巻物?」
明羽の目が大きくなる。
「ああ」
「新しいものですか?」
「そう聞いている」
「何巻ございますか?」
「五、六巻だったと思う」
「六巻?」
「五かもしれん」
「どちらです?」
「知らん」
「題は?」
「覚えていない」
「どのようなお話でしょう?」
「知らん」
「絵師は?」
「それも知らん」
「兄上……」
「俺に聞くな。お前が好きそうなものを選ぶよう、宮中の者に頼んだだけだ」
次の瞬間、明羽の顔が輝いた。
「ありがとうございます、兄上!」
「……そこまで喜ぶのか」
「もちろんです!」
すでに視線は荷車へ向いている。
「今、見てもよろしいですか?」
「駄目だ」
「なぜです?」
「まだ荷解きもしていない」
「でしたら、私が手伝います」
「余計なことをするな」
「一巻だけでも」
「駄目だ」
「少しだけ確認を――」
「駄目だ」
「兄上」
「明羽」
「…………」
翔義の声が低くなる。
明羽はしばらく兄を見つめていたが、やがて諦めた。
「……後ほどで我慢いたします」
「そうしろ」
そう言われても、荷車から目を離すのは難しかった。
どんな絵巻物なのだろう。
どのような絵師が描き、どのような話が綴られているのだろう。
兄との再会を喜んでいたはずなのに、いつの間にか明羽の頭の半分は、新しい絵巻物で占められていた。
◇
朱雀の一行が客殿へ案内されたあと、緋乃は廊下の一角で母の茜と向き合っていた。
「お久しぶりでございます。母上」
「ええ。変わりはないようですね」
久しぶりに会った母から返ってきたのは、それだけだった。だが、緋乃にとってはこれがいつもの茜である。
「ところで母上。いらっしゃった大納言はお二人だけなのですね」
「ええ」
「もうお一人は?」
「本国です。ご高齢ですし、何より大納言三名が揃って朱雀を離れるわけにはいきません」
「政務がございますものね」
「そういうことです」
茜は一度言葉を切る。
「今回の武闘会では、各国に武人三名の選出が求められています」
「はい」
「朱雀からは、私ともう一人の大納言が出ます」
緋乃は首を傾げた。
「では、あとお一人は?」
「あなたです」
「…………はい?」
思わず聞き返す。
「私が、でございますか?」
「ええ」
「私は明羽殿下の護衛として白虎へ参っておりますが」
「承知しています」
茜は平然と答えた。
「本国の中納言や、今回同行した護衛兵から選ぶという案は?」
「あなたより適任の者がいるなら考えます」
「…………」
茜がこう言う以上、すでに答えは決まっているようなものだった。
「……分かりました。出場いたします」
「よろしい」
「ただし、明羽殿下の護衛に支障が出ないことが条件です」
「当然です」
茜は迷いなく答えた。
「それと母上。こういったことは、できれば事前にご相談ください。手紙の検閲は入りますが、武闘会への出場程度でしたら――」
「問題大ありです。何事も他国に知られるべきではありません」
「出場者の名前までですか?」
「後から知られることと、事前にこちらから知らせることは別です」
「……母上は慎重すぎます」
「あなたが不用心なのです」
「…………」
どちらも譲るつもりはないらしい。
「緋乃?」
聞き慣れた声がして、二人はそちらを見る。
明羽が歩いてきていた。
「殿下」
「茜殿と何のお話を?」
「……私も、武闘会へ出ることになりました」
「緋乃もですか?」
明羽の顔が明るくなる。
「はい。朱雀から出場する武人の一人として」
「まあ。では、緋乃が戦うところを見られるのですね。楽しみです!」
「殿下。見世物ではございません」
「あら、武闘会なのですから、皆様に見ていただくために戦うのでは?」
「…………」
緋乃は答えに詰まった。
「とにかく、遊びで出るわけではございません」
「もちろん分かっておりますよ」
そう答える明羽は、どう見ても楽しそうだ。
緋乃が武術を得意としていることは昔から知っている。しかし、本気で誰かと武を競う姿を見る機会はほとんどなかった。
「応援いたしますね」
「……ありがとうございます」
緋乃はほんの少し表情を和らげた。
◇
夜も深くなった頃。
玄武に割り当てられた客殿の裏手に、小さな露台があった。人の通りも少なく、周囲を木々に囲まれている。
理斗はそこで一人、渚を待っていた。
「こんなところに呼び出して、何の用よ」
ようやく姿を見せた渚に、理斗は笑いかける。
「遅かったですね」
「こっちは朱雀の一行と一緒なのよ。それに皇城内は白虎兵だらけ。簡単に抜けられるわけないでしょう」
「それは失礼」
「絶対思ってないわね」
「さて、どうでしょう」
「それで?」
「少し確認したいことがありまして」
理斗は廊下、庭、屋根の上へ順に目を走らせ、人の気配がないことを確かめた。
「……随分警戒するのね」
「ここは玄武ではありませんから」
「まあね」
渚も声を落とす。
「北の井戸は、三段目まで掘れました」
渚の顔から気の抜けた様子が消えた。
「水は?」
「まだです」
「じゃあ、進展なし?」
「いえ。底の石が、一度だけ鳴ったそうですよ」
「…………鳴った?」
「誰も触れていないのに」
井戸や石は、二人の間で使われている暗号だった。
「同じ条件でもう一度試したの?」
「もちろん。ただし、二度目は何も起きなかったそうです」
「再現できてないのね」
「そちらは、まだ」
「そちらは?」
渚がその言葉に引っかかる。
理斗は笑った。
「よく聞いていますね」
「もったいぶらないで」
「では、もう一つ」
理斗の声がさらに低くなる。
「石のそばに置いた水が、温かくなったそうです」
「水が?」
「ええ。火は使っていません」
「一度だけ?」
「三度です」
渚の表情が変わる。
「三回とも?」
「同じ結果だったそうですよ」
「……そっちは再現してるのね」
「ええ」
玄武では、神器の研究が極秘に進められていた。現在玄武にあるのは、自国に残された神器と、朱雀、白虎から預けられた神器の三つ。そのすべてが研究対象になっている。
条約では、他国から預かった神器の封を解き、直接触れたり使用したりすることは許されていない。だが玄武ではその禁を破り、神器がどのような性質を持つのか秘密裏に調べていた。これは明確な条約違反であり、発覚すれば四国間の和平そのものを揺るがしかねない。
「どの石?」
渚が尋ねる。
「赤です」
それだけで渚には通じた。
「朱雀……」
「名前は出さない方がいいですよ」
「分かってるわよ」
渚は周囲を見回してから、声を落とす。
「白と黒は?」
「今のところ、変化なしです」
「赤だけ……」
「現在確認できている範囲では」
「国家主席には?」
「石が鳴ったことまでは報告しています」
「水のことは?」
「まだです」
「どうして?」
「もう少し結果を確かめてからで十分でしょう」
「……そうね」
渚は腕を組んだ。
「それで、続けるの?」
「私が帰国するまでは現状維持です。職人たちにはこれ以上は進めないよう命じてあります」
「それがいいわ。勝手に何かされて、取り返しがつかなくなったら困るもの」
「ええ」
渚はさらに声を落とす。
「それに……他国から預かった神器まで調べてるなんて知られたら、それこそ――」
理斗の目が細くなる。
「その口、縫った方がいいようですね」
「っ……ごめんなさい、兄さん」
渚は反射的に謝った。
「先ほども、名前は出さない方がいいと言ったばかりでしょう」
「……分かってる。今のは私が悪かったわ」
「なら結構です」
理斗はいつもの柔らかな笑みに戻った。
遠くから夜警の鐘が聞こえてくる。
一度。
二度。
二人は音が消えるまで黙っていた。
「帰国したら、井戸は四段目まで掘り進めます」
「……やるのね」
「ここで止めるには、少し面白い結果が出すぎましたから」
渚は理斗を見つめたあと、小さく息を吐く。
「引き続き、蔵の鍵も探しておくわ」
「はい。頼みますよ、子女主席」
「はいはい、国家主席補佐」
「返事は一度で」
「……はい」
「よろしい」
理斗は満足そうに頷いた。
それ以上、二人が神器について口にすることはなかった。




