青龍の姫
翌日。
昼餉を終えて、しばらくした頃。
明羽の滞在する客殿へ、一人の女官が訪れた。
「鳳院殿下。蒼宮深仙様より、お茶のお誘いがございます」
「深仙様から?」
「はい。もしご都合がよろしければ、客殿へお越しいただきたいとのことでございます」
明羽の表情が明るくなる。
「もちろんです。ぜひ伺います」
「では、そのようにお伝えいたします」
女官が一礼して去っていくと、明羽は隣にいた緋乃へ顔を向けた。
「昨日、またお話ししましょうと言ってくださったばかりなのに、もうお誘いいただけるとは思いませんでした」
「よろしゅうございましたね」
「はい。同じように他国へ預けられている者同士ですもの。いろいろとお話を聞いてみたいです」
明羽は席を立った。
「参りましょう、緋乃」
「はい、殿下」
二人は女官に案内され、玄武一行に割り当てられた客殿へ向かった。
◇
「……いらっしゃいませ、明羽姫」
「お招きいただき、ありがとうございます」
客殿の一室で、深仙が明羽を迎えた。
青龍王族特有の淡い金髪が、窓から差し込む陽の光を受けて輝いている。短く整えられた髪も、どこか眠たげな表情も昨日と変わらない。
「どうぞ……こちらへ」
「失礼いたします」
明羽は勧められた席へ腰を下ろした。緋乃と、深仙に付き従ってきた青龍の従者は、それぞれ少し離れた場所に控える。
卓上には二組の茶器が用意されていた。
一方は白地に青い草花が描かれた繊細なもの。もう一方は黒に近い深い色合いで、厚みのある素朴な茶器だ。
「まあ。二種類あるのですね」
「ええ……今日は、これを一緒に……飲んでみようかと」
深仙が白い茶器へ手を伸ばした。
「こちらは……青龍のお茶です」
「青龍の?」
「はい……私が玄武へ行くときに、持ってきたものです」
続いて、黒い茶器へ目を向ける。
「こちらは……玄武のお茶です。理斗様が……せっかく白虎へ行くんだから、持っていけばいいと」
「まあ」
「ですので……飲み比べです」
深仙が微笑む。
「面白そうですね」
「でしょう?」
まず、青龍の茶が注がれた。
淡い黄金色の茶から、ほのかに甘い香りが立ち上る。明羽は茶器を両手で持ち、口をつけた。
「……美味しいです」
「よかった……」
「とても柔らかいお味ですね。香りもよくて、飲んだあとに少し甘みが残ります」
「青龍では……よく飲まれています。私も……昔から好きで」
「そうなのですね」
続いて玄武の茶を飲んでみる。
こちらは青龍のものより色が濃く、口へ含むと香ばしさのあとに僅かな渋みが残った。
「こちらは、随分と違いますね」
「ええ……最初に飲んだとき、私も驚きました」
「ですが、こちらも美味しいです。香りが強くて、後味もしっかりしています」
「玄武の方々は……濃く淹れるのがお好きみたいです」
明羽は二種類の茶を見比べた。
「同じお茶でも、国が違えばこれほど変わるものなのですね」
「はい……食べ物も、かなり違います」
「やはりそうなのですか?」
「ええ……玄武へ着いたばかりの頃は、知らない味ばかりでした」
「分かります。白虎のお料理も、朱雀とはまるで違います。お肉は大きく切られておりますし、香草や香辛料もたくさん使われていて」
「辛いものも……多いのですか? 昨日の夕餉と……今日のお食事は、あまり辛くなかったようですが……」
「毎回ではございませんよ。ですが、朱雀と比べれば多いと思います」
「そうなのですね……」
「私も最初は驚きましたが、今では随分と慣れました」
「それなら……私も、大丈夫そうです」
明羽は青龍の茶へ目を落とした。
深仙は故郷のお茶を玄武まで持ってきたらしい。
そう聞いて、ふと自分の荷物を思い返す。
衣や身の回りの品を除けば、朱雀から持ってきたものはほとんどない。
ただ、持ってくるか最後まで迷ったものが一つだけあった。
絵巻物だ。
お気に入りを何巻か荷へ入れようか本気で悩んだものの、せっかく他国へ行くのなら、その国でしか読めないものを存分に楽しみたい。
そう考えて、泣く泣く一巻も持ってこなかった。
「……明羽姫?」
深仙の声に我に返る。
「はい?」
「何か……考え事ですか?」
「少しだけ」
明羽は笑い、茶器を置いた。
「深仙様は、青龍ではどのように過ごしておられたのですか?」
「青龍では……そうですね……今と、それほど変わらないかもしれません」
「そうなのですか?」
「琴を弾いたり……庭を歩いたり……お茶を飲んだり」
「随分と穏やかなのですね」
「私は……あまり騒がしいことが、得意ではありませんので」
昨日から話していても、深仙が声を荒らげる姿はまるで想像できない。
「青龍は……山や川に囲まれた土地が多くて、自然が豊かです」
「幼い頃、私もそのように教わりました。山や川が多く、緑に恵まれた国だと」
ただし、明羽に四国について教えた者は最後に、
――平たく申せば、国土のほとんどが田舎でございます。
と付け加えていた。
当時の明羽は、「自然豊かというのは、田舎という意味なのだろうか」と首を傾げたものだった。
「土地も……よく肥えています。ですから、農作物には恵まれております」
「羨ましいです」
「ただ……自然が豊かな分、災害も多いです」
「災害ですか?」
「大雨だったり……川が溢れたり……山が崩れたり。毎年、どこかで……何か起きています」
「それは大変ですね」
「ええ……ですが、青龍の人々は慣れています」
「慣れている、のですか?」
「災害が起これば……皆で直します。畑が駄目になれば……また植えます。道が崩れれば……また造ります」
深仙が穏やかに微笑む。
「そういう人たちです」
その声には、故郷への親しみが滲んでいた。
「素敵な国なのですね」
「はい……私は、好きです」
深仙は茶器へ視線を落とした。
「兄様も……青龍をとても大切にしております」
「確か、青嵐様ですね」
「……ええ」
「人質交換のときにお姿を拝見いたしました。深仙様をお見送りするために、国境までいらしていましたね」
「兄様は無口ですが……優しいですから」
「とても大切にされているのですね」
「はい」
その一言だけは、いつもよりはっきりしていた。
「兄様は……私の、とても大切な方です」
「まあ。仲のよいご兄妹なのですね」
「……ええ」
深仙が微笑む。
「私にも兄がおりますが、随分と心配をかけてしまっています」
「翔義殿下……ですね」
「ご存じなのですか?」
「もちろん……朱雀の皇太子ですから」
「そうでした」
明羽は笑った。
「兄上は、少し心配性なのです。私が白虎へ行くと決まってからも、何度も大丈夫なのかと聞かれました」
「優しい……お兄様なのですね」
「はい」
「……兄というものは、そういうものなのかもしれませんね」
「そうなのかもしれません」
二人はそれぞれ兄のことを思いながら、茶を口にした。
「では、玄武はいかがですか?」
明羽が尋ねる。
「昨日、何事もなくのんびり過ごしているとおっしゃっていましたが」
「玄武は……不思議な国です」
「不思議?」
「はい……一つの国なのに、場所によって雰囲気がかなり違います」
「そうなのですか?」
「玄武は……いくつもの区が集まってできていますから。区が違えば……食べ物も、町の様子も、人の気質もかなり違います」
「面白そうですね」
「最初は……戸惑いました」
「青龍とは随分違いますか?」
「ええ……」
深仙は少し考えてから続ける。
「青龍の人々は……真面目な方が多いです。玄武の方々は……それぞれ自分の区への意識が強いように思います」
「自分の区への?」
「はい……それでも玄武は、国家団結主義を掲げています」
「国家団結主義……」
「区ごとの違いは……とても大きいのですが、何かあれば……皆さん玄武の民としてまとまります」
「そうなのですね」
「自分の住む区を大切にしながら……同じくらい、玄武という国も大切にしているようです」
「それだけ区ごとの違いが大きいからこそ、玄武という国を大切にするのでしょうか」
「たぶん……そうなのだと思います。普段は……区同士で張り合っていることも、多いですけれど」
「あら」
「ですが……外から何かあれば、すぐにまとまります」
「不思議ですね」
「ええ……私も、最初はそう思いました」
帝を頂く朱雀とも、皇帝を頂く白虎とも、一つの王家が治める青龍とも違う。
複数の区が集まって成り立つ玄武ならではの気質なのだろう。
「理斗様も、そのようなお考えなのですか?」
「理斗様は……玄武らしい方だと思います。国のことは、とても大切にしています」
「そうなのですね」
「ただ……何を考えているのか、よく分からない人です」
「あら」
「普段は……かなり気楽そうですし」
昨日の門前でのやり取りを思い出し、明羽は納得した。
「確かに、少し掴みどころのない方に見えました」
「でしょう?」
二人で笑う。
「困ったことなどはございませんでしたか?」
「ほとんど……ありません。ただ、最初の頃は……周りの方々が、私をどう扱えばよいのか困っていました」
「人質ですものね」
「ええ……」
丁重に扱わなければならない一方、完全に自由な客人というわけでもない。
明羽も白虎へ来たばかりの頃、似たような空気を感じていた。
「ですが……理斗様が、普通でいいと言ってくださったので」
「理斗様が?」
「はい……『一年もいる人に毎日気を遣っていたら、お互い疲れるでしょう』と」
「ふふ。理斗様らしいですね」
「私も……そう思います。ですから今では、随分と気楽です」
「それなら安心いたしました」
今度は深仙が明羽を見る。
「明羽姫は……白虎では、どうですか?」
「白虎での暮らしにも、随分と慣れてまいりました」
「最初は……どうでした?」
「驚くことばかりでした」
「たとえば……?」
「まず皇城です。朱雀とは造りがまるで違います」
明羽は故郷の皇宮を思い浮かべた。
「朱雀は、朱塗りの建物が多いのです。柱も門も鮮やかで、宮中には絵や装飾もたくさんございます」
「朱雀は……絵巻物も盛んなのでしたね」
「はい。昔から絵を描く者も多くおります。歴史や伝承だけでなく、恋物語や怪異譚、旅の物語まで、本当に様々で――」
「明羽姫」
「はい?」
「また……絵巻物のお話になっています」
「…………あ」
深仙がくすりと笑った。
「申し訳ございません」
「いいえ……楽しそうなので、構いません」
「とにかく、朱雀と白虎ではかなり違います」
「白虎は……やはり、武を重んじる国ですか?」
「はい。それはもう。城の中を歩いていても、武将や兵の方をよく見かけます。書物庫の絵巻物も、戦いや英雄を題材にしたものが多いです」
「それは……明羽姫には、よいのでは?」
「とても」
即答すると、深仙がまた笑った。
「朱雀では見たことのない絵巻物が、本当にたくさんあるのです」
「やはり……そこなのですね」
「はい」
「人は……?」
「人……」
真っ先に思い浮かんだのは、景虎だった。
「白虎の皆様は、最初は少し怖そうに見えました。ですが、実際にお話ししてみると、よい方もたくさんいらっしゃいます。冥利陛下も、蘭様も霞様も、とても親切にしてくださいますし」
「征吾殿下は……?」
「征吾様は、いつも冷静な方です。ただ……少し、考え方の厳しいところはございますが」
宴の席で聞いた言葉が頭をよぎる。
老人であろうと、女子供であろうと、金獅子の血を残さない方が確実だと語った征吾。
あの考えに、明羽は今でも賛同できない。
「景虎殿下は……?」
「…………」
今度は、その名だった。
「景虎様は……少々、乱暴です」
「……噂通りですね」
「はい。言葉遣いも態度も乱暴ですし、戦についてのお考えも、私とはまるで違います」
「では……苦手なのですか?」
「好きではない考え方はございます」
明羽は少し考えてから続けた。
「ですが、噂で聞いていたことだけで決められる方でもないと思います」
「そうなのですね……」
「はい」
それ以上言おうとして、明羽は口を閉じた。
昨夜のことまで説明する必要はない。
「ただ、白虎へ来てよかったとは思っております」
「白虎へ来て……よかったと?」
「はい」
人質として始まった旅だ。
自ら望んだわけではないし、不安がなかったわけでもない。
それでも、知らない国へ来たからこそ見られたものがある。
「知らない国へ来て、知らなかったものを見て、知らなかった方々とお話しできるのは、とても面白いです」
明羽は卓上に並ぶ二種類の茶を見た。
「今日も、青龍と玄武のお茶を初めていただきました。朱雀にいただけでは、きっと知らないままだったと思います」
「……はい」
「ですから私は、この三年間で、できるだけたくさんのものを見てみたいと思っております」
「…………」
「もちろん、絵巻物も」
「やはり……最後は、そこなのですね」
「大切なことですから」
深仙が小さく笑った。
「明羽姫は……変わった方ですね」
「よく言われます」
「嫌では……ないのですか?」
「何がです?」
「変わっていると……言われることが」
明羽は少し考えた。
「特には。私自身、少し変わっているとは思っておりますので」
「自覚が……あるのですね」
「ございます」
「そうなのですか……」
深仙は明羽をしばらく見つめていた。
「明羽姫」
「はい」
「私……少し、あなたに興味が出てきました」
「私に?」
「ええ……もっと、お話ししてみたいです」
明羽も笑顔になる。
「ぜひ。私も深仙様のお話をもっと伺いたいです」
「では……白虎にいる間に、また」
「はい」
窓から差し込む陽は、いつの間にか随分と傾いていた。
二人はその後もしばらく、それぞれの国について話しながら、二種類の茶を楽しんだ。




