要人集結:玄武合区
翌朝。
明羽は緋乃とともに、皇城の書物庫を訪れていた。
高い棚には、白虎の歴史や軍記、各地の伝承を記した書物とともに、数多くの絵巻物が収められている。
明羽は棚の前をゆっくりと歩きながら、並んだ題を眺めていた。
「今日は、どちらをお読みになりますか?」
「まだ決めておりません。何か面白そうなものがあればよいのですが」
そう答えながら、一巻の絵巻物を手に取る。
「交雑記……」
明羽は表に記された題を見つめ、僅かに首を傾げた。
「この題だけでは、どのようなお話か分かりませんね」
「そうでございますね」
「少し見てみましょう」
特に深く考えず、その場で絵巻物を広げる。
「…………」
描かれていたのは、一組の男女だった。
薄暗い室内で、男が女を壁際へ追いやるように立ち、その腰へ腕を回している。
女の衣は肩口が僅かに乱れ、男の顔は今にも唇が触れそうなほど近い。
「…………」
明羽は無言のまま、もう少し先へ巻いた。
次の場面では、男が女を抱き上げていた。女は男の首へ腕を回し、互いの身体を密着させている。
さらに、その先には――。
「…………っ!」
明羽は勢いよく絵巻物を閉じた。
「殿下?」
「…………」
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ」
頬がみるみる熱くなる。
昨夜のことが、一瞬で蘇った。
――俺だからじゃないのか。
それから、すぐ目の前まで近づいてきた景虎の顔。
「…………」
明羽は閉じた絵巻物をじっと見つめた。
普段であれば、こうした男女の恋模様にも興味を惹かれていたかもしれない。
だが、今日は続きを開く気になれなかった。
「もうお戻しになるのですか?」
「……はい」
「まだ少ししかご覧になっていないようでしたが」
「今日は、その……あまり気が乗らなくて」
「左様でございますか」
「はい」
明羽は少し早口で答え、絵巻物を元の棚へ戻した。
緋乃は不思議そうにしていたが、それ以上は尋ねない。
昨夜、景虎に口づけされそうになったことも、それを平手で止めたことも、明羽は緋乃に話していなかった。
何と説明すればよいのか、自分でも分からない。
「今日は……別のものにします」
「では、軍記物などはいかがでしょう?」
「それも少し重たいですね」
「冒険譚は?」
「それにしましょう」
明羽は先ほどの棚から離れた。
その後、山奥に眠る宝を探す一行を描いた冒険譚を一巻選び、書物庫の一角で読み始めた。
幸い、今度の絵巻物には恋模様らしいものは出てこない。
読み進めるうちに物語へ夢中になり、いつしか先ほどの『交雑記』のことも頭から消えていた。
◇
「殿下。そろそろ昼餉のお時間でございます」
「もうそのような時間ですか?」
「はい」
「分かりました。続きはまた後ほどにしましょう」
明羽は名残惜しそうに絵巻物を閉じ、元の場所へ戻した。
緋乃とともに書物庫を出て、客殿へ戻るため回廊を歩いていると、向こうから景虎がやって来た。
明羽の足が一瞬だけ止まったが、すぐに何事もなかったように歩き出す。
景虎も明羽に気づいた。
「おい、朱雀姫」
明羽はそちらを見ない。
「聞こえてんだろ」
「緋乃。参りましょう」
「え?」
「昼餉のお時間なのでしょう?」
「は、はい」
明羽はそのまま景虎の横を通り過ぎる。
「おい、朱雀姫」
再び呼ばれたが、振り返らなかった。
「……何なんだ、あいつ」
背後から低い声が聞こえてくる。
しばらく歩いたところで、緋乃が明羽を見る。
「殿下」
「何です?」
「景虎殿下と、何かございましたか?」
「何もありません」
「左様でございますか」
「はい」
「…………」
「何です?」
「何でもございません」
追及されなかったことに、明羽は内心で安堵した。
◇
昼餉を終えてしばらくした頃。
客殿で茶を飲んでいた明羽のもとへ、白虎の女官が訪れた。
「鳳院殿下」
「はい」
「玄武の御一行が、間もなく皇城へ到着されます。陛下より、お出迎えにお越しいただきたいとのことでございます」
「玄武の皆様が?」
「はい」
明羽は手にしていた茶器を置いた。
冥利から開催を告げられていた武闘会も、あと二週間ほどに迫っている。
この武闘会は、和平条約に定められた異文化交流の一環として、白虎が主宰する武の祭典だ。
各国に人質として滞在している姫たちも一時的に白虎へ集まり、さらに各国の次代を担う者たちも招かれている。
「玄武からは、どなたがお越しになるのでしょう?」
「玄武合区を治める玄海家の御子息、玄海理斗様でございます。また、御一行には青龍王国の蒼宮深仙様も同行されております」
「理斗様と深仙様……」
理斗とは、これまで一度も顔を合わせたことがない。
一方、深仙の姿を見たのは、四国の国境で人質と神器の受け渡しが行われた日の一度だけだ。
互いに別の国へ向かう直前、少し離れた場所から姿を見ただけで、言葉を交わす機会はなかった。
「今回はしばらく白虎へ滞在されるでしょうし、お話しする機会もあるかと存じます」
緋乃が言った。
「そうですね。同じように他国へ預けられている者同士、少しお話ししてみたいです」
「では、参りましょう」
「はい」
◇
皇城の正門前には、すでに多くの出迎えの者たちが集まっていた。
中央に立つのは、帝政白虎皇帝・白牙冥利。
その傍らには第一妃の蘭と第二妃の霞が並び、周囲には高官や将たちの姿もある。
明羽も緋乃を伴い、客人としてその列へ加わった。
少し離れた場所には、皇太子の景虎と征吾が立っている。
明羽はそちらを見ないようにした。今は玄武からの客人を迎える場なのだ。
やがて正門の向こうに、黒を基調とした玄武の旗が現れた。
「殿下、参られました」
「はい」
玄武の一行が、ゆっくりと皇城へ近づいてくる。
先頭を数騎の兵が進み、その後ろには二台の馬車。さらに旅の荷を積んだ荷車と、三十人ほどの兵が整然と列を成している。
馬車の近くを進む三人の騎馬も目を引いた。
「……大きな方々ですね」
明羽が思わず呟く。
三人とも見るからに屈強だった。
一人は肩幅が広く、甲冑の上からでも腕の太さが分かる。もう一人は長身で、騎乗していても周囲の兵より頭一つ高い。
最後の一人は他の二人に比べれば細身だったが、それでも一般の兵と並べれば十分に大柄だった。
「あちらの三名が、玄武の上級将校でございます」
緋乃が教える。
「上級将校……」
「玄武では、軍の指揮を預かる方々をそのように呼びます」
「白虎とは違うのですね」
「はい」
国によって、軍を指揮する者の呼び方も異なるらしい。
明羽は興味深そうに一行を眺めた。
やがて玄武の隊列が正門前へ到着し、二台の馬車が相次いで止まった。
先の馬車の扉が開き、中から黒を基調とした衣をまとった青年が降りてくる。
衣の上からは、玄武の紋が入った外套を羽織っていた。
年頃は景虎とそう離れていないように見える。
玄武を治める家の子息と聞いていたため、明羽はもっと堅苦しい人物を想像していた。
だが、実際の青年は随分と印象が違った。
柔らかな顔立ちに、どこか飄々とした雰囲気。周囲を見渡す目にも余裕があり、他国の皇帝を前にしても必要以上に緊張している様子はない。
それでいて、礼を欠いているわけでもなかった。
続いて、もう一台の馬車から青を基調とした衣をまとった少女が降りてくる。
陽の光を受けて輝く、淡い金色の髪。
青龍王国の王族だけが持つ髪色だった。
蒼宮深仙。
青龍王国の姫であり、現在は玄武へ人質として預けられている少女だ。
どこか眠たげな目をしており、歩き方もゆったりとしている。
――あの方が、玄海理斗様。
そして、その隣にいるのは、見覚えのある深仙だった。
二人はそれぞれの従者を伴い、冥利の前へ進んだ。
まず、理斗が丁寧に一礼する。
「玄海理斗です。この度は武闘会へお招きいただき、ありがとうございます」
続いて深仙も頭を下げた。
「蒼宮深仙です……この度は、お招きいただき……ありがとうございます」
「よく来た、玄武の子息よ。深仙姫も長旅であっただろう」
「ええ。ですが、道中は思いのほか順調でした」
理斗が答える。
深仙もゆっくりと頷いた。
「私も……何事もなく、参ることができました」
「そうか。それは何よりだ」
冥利は理斗へ目を向ける。
「父君は息災か?」
「はい。変わりなく政務に励んでおります。父からも、白虎皇帝陛下へよろしくお伝えするよう申しつかっております」
「うむ」
和平以前、白虎と玄武も幾度となく争ってきた。
その玄武を治める家の子息が、今はこうして白虎皇城へ客として迎えられている。
冥利への挨拶を終えると、理斗が景虎へ顔を向けた。
「景虎殿下。二年ぶりですね」
「ああ」
「まさか戦場ではなく、白虎の皇城で会うことになるとは思いませんでした」
「俺も妙な気分だ」
「それにしても、金獅子を討ったそうですね。こちらへ来る途中でも噂になっていましたよ」
「耳が早いな」
「それだけ大きな戦だったということでしょう」
「別に大したことじゃねえ」
「総大将がそう言うのでしたら、そういうことにしておきましょう」
「あ?」
「いえ、何でも」
理斗は涼しい顔で笑う。
その目が、景虎の右腕へ向いた。
「怪我を?」
「かすり傷だ」
明羽も景虎の右腕へ目を向けた。
傷に巻かれた包帯は衣の下に隠れており、外からは見えない。それでも理斗は、右腕のわずかな動きだけで怪我に気づいたらしい。
「それならよかった」
理斗はそれ以上尋ねなかった。
――随分と目の利く方なのですね。
明羽は少し感心した。
そう考えていると、理斗の視線が明羽へ向いた。
「そちらが、朱雀皇国の明羽姫ですね」
「はい」
明羽は一歩前へ出た。
「鳳院明羽と申します。玄海理斗様。お初にお目にかかります」
「玄海理斗です。よろしくお願いします。噂には聞いていましたが、本当にお美しい方ですね」
「まあ。ありがとうございます」
明羽は素直に礼を返した。
「理斗で構いませんよ」
「では、私のことも明羽とお呼びください」
「分かりました。明羽姫」
「……姫は付けられるのですね」
「もちろん。初対面の姫君をいきなり呼び捨てにしたら、私の評判が悪くなってしまいますから」
「ご自身の評判なのですか?」
「大切でしょう?」
「ふふ。それもそうですね」
明羽が笑うと、理斗も楽しそうに笑みを返した。
少し離れた場所から視線を感じた。
誰なのかは、そちらを見なくても何となく分かる。
だが、明羽は顔を向けなかった。
「……明羽姫」
今度は深仙が声をかける。
「深仙様。お久しぶりでございます」
「ええ……人質交換の日以来ですね」
「あのときはお話しする機会がございませんでしたので、こうしてお会いできて嬉しいです」
「私も……です」
深仙はゆっくりと頷いた。
「白虎では……お元気そうですね」
「はい。皆様にはよくしていただいております。深仙様も、玄武でお変わりありませんか?」
「ええ……何事もなく……のんびり過ごしております」
「それを聞いて安心いたしました」
「玄武での暮らしはいかがですか?」
深仙が少し考えるように目を伏せる。
「そうですね……」
「かなり快適だと思いますよ」
横から理斗が答えた。
深仙がゆっくりとそちらを見る。
「……理斗様。私に……聞かれたのですが」
「これは失礼」
「もう……」
深仙は眠たげな目のまま理斗を見る。
怒っているというより、こうしたやり取りには慣れているようだった。
その様子を見て、明羽の口元も自然と緩む。
「明羽姫は……白虎では、何をして過ごしておられるのですか?」
「絵巻物を読んでおります」
明羽は即答した。
「……絵巻物?」
「はい。白虎には朱雀では見たことのないものがたくさんございますので、よく書物庫へ通っております」
「そんなに……お好きなのですか?」
「はい!」
深仙が眠たげな目を僅かに大きくした。
「玄武にも絵巻物はありますよ。一応」
理斗が言う。
「一応、ですか?」
「ええ。明羽姫が期待しているようなものが、どれほどあるかは分かりませんけどね」
「どのようなものがあるのですか?」
「戦の記録や軍略を描いたもの、それから玄武の歴史を題材にしたものなどでしょうか」
「なるほど……」
「明羽姫が玄武へ来た際には、ご案内しますよ」
「よろしいのですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます!」
明羽の表情が一気に明るくなる。
理斗が目を丸くしたあと、笑った。
「本当にお好きなのですね」
「はい。とても」
「これは分かりやすい」
「何がですか?」
「絵巻物の話になった途端、随分と嬉しそうな顔をされたので」
「まだ見たことのない絵巻物があると聞けば、楽しみになるのは当然です」
「なるほど」
理斗が楽しそうに笑う。
その横では、深仙も眠たげな目を細めていた。
「玄武の子息よ」
冥利が声をかける。
「いつまでも門前で立ち話をしていても仕方あるまい。中へ入れ」
「ありがとうございます」
「深仙姫も長旅で疲れただろう。客殿を用意してある。まずはゆっくり休むといい」
「お気遣い……ありがとうございます」
深仙が丁寧に頭を下げる。
冥利は再び理斗へ目を向けた。
「将校たちと兵にも、十分に休息を取らせるといい」
「ありがたく、そうさせていただきます」
理斗が礼を返した。
玄武の兵たちは白虎の者たちに案内され、荷車も担当の者へ引き継がれていく。
理斗と深仙も、玄武の一行とともに皇城内へ向かおうとした。
「明羽姫」
深仙が振り返る。
「滞在している間に……また、お話しいたしましょう」
「はい。ぜひ」
明羽は笑顔で頷いた。
深仙も柔らかく微笑み、理斗たちとともに皇城の奥へ歩いていく。
玄武合区を治める家の子息・玄海理斗。
そこへ人質として預けられている、青龍王国の姫・蒼宮深仙。
まずは玄武からの一行が、銀嶺府へ到着した。
武闘会までは、あと二週間ほど。
これから白虎皇城には、さらに各国の要人たちが集まってくる。




