05
その後のパレリオ侯爵家。
フェデリカとジュゼッペは国王の政務室を出た後、フェデリカの居室の様子を確認するとそのまま迎えの馬車に乗り込んだ。当たり前のように隣に並び座ったジュゼッペにフェデリカは目を丸くして、それから仕方がないように微笑んだ。
何食わぬ顔をしたジュゼッペが扉を閉めさせ、御者に合図して馬車は動き出す。
王宮を背にするように流れていく景色に、フェデリカの胸には深い感慨と、それ以上に達成感が広がっていた。そっと呼吸を行えば、随分と息がしやすくて驚く。
思わず胸元に手を当てて驚きを自覚していると、ふと隣からの視線に気付いて慌てて手を下ろした。その手をジュゼッペが労わるように優しく握り締める。
「よろしかったのですか? お父様にはまだお仕事が……」
「多少私が抜けたところで問題はないさ。それに今日は政務どころではないだろうからね」
冗談めかしたその言葉にフェデリカは瞠目し、「それもそうですね」と苦笑を滲ませた。
「お父様がそうおっしゃるのでしたら」
「それにビルを残してきている。何かあればあれがうまく対応するよ」
「お父様はビル様を信頼されていますものね」
王宮にいる間、ビルはジュゼッペがフェデリカと共に過ごす時間を確保するためにうまく予定を調整してくれていた。予定が潰れれば忙しいジュゼッペの代理として詫びを届けてくれることもあり、フェデリカにとっても信頼のできる男だった。
思い出し笑いに頬を綻ばせる娘の姿にジュゼッペは何とも言い難い表情をして、諦めるように息を吐き出した。
そして、持ち上げた手のひらで彼女の頭を優しく撫でる。
「これまですまなかった、フェデリカ」
「……いいえ。お父様が謝ることなんてありません。お母様やエドアルドになかなか会えなかったのは寂しかったけれど、王宮にはお父様がいましたから」
「そのせいで私は何度も二人に責められたよ。私だけずるいとね」
ジュゼッペがおどけたように肩を竦めて話す。フェデリカはそれにくすくすと笑い返しながらも、家族への恋しさに心が先に飛んで帰ってしまいそうだった。
そんなフェデリカの浮足立った気持ちに気付いたのか、ジュゼッペが穏やかに目を細める。
「今頃料理人たちが張り切ってお前の好物を用意しているだろう」
「まあ、それは楽しみです」
「庭師も今朝は花の手入れに精を出していた」
「きっと素敵なのでしょうね」
「ああ。……ルクレツィアも、エドアルドも。皆がこの日を楽しみにしていた」
「早く二人に会いたいわ」
「ようやく取り戻すことができた。遅くなって本当にすまない」
ジュゼッペの声音に滲む深い後悔と愛おしさに、フェデリカの胸が熱くなる。もう幼い少女ではないのにはしたないだろうかと思いながら、体をそっとジュゼッペの方へ傾ける。
すると力強く頼もしい腕にぐっと体が引き寄せられていた。
「……謝らないで、お父様。私、ちゃんと頑張ったでしょう?」
小さく震えを起こした喉に力を入れて、父の顔を見上げる。フェデリカと同じアイスグレーの瞳が、あたたかな光を湛えて娘を見下ろしていた。
ふっと悪戯げに微笑んで見せるフェデリカに、ジュゼッペは参ったというように肩を動かした。
「ああ、よく頑張った。さすがは私とルクレツィアの娘だ。とても誇らしく思うよ」
手放しの賞賛にフェデリカはくすぐたそうに体を揺らし、父の広い胸に体を預ける。
長年の呪縛からようやく解放された安堵にか、一筋の雫が静かに頬を伝い落ちた。
◇
数日後にはアンドレアとフェデリカの婚約解消、マヌエーラ王妃が離宮へと移ったという話題が社交場のそこかしこで囁かれていた。
噂が流れ始めた直後はパレリオ侯爵家の策謀を疑う声も流れていたが、ジュゼッペが涼しげな顔で変わらず宰相の立場を維持し、ファビオ国王との間にも確執がないことを示されると、そうした噂はたちまち収束していった。
その最大の要因として、マヌエーラの生家であるクレーヴズ公爵家の動きもあった。公爵家はいらぬ勘繰りを受け、マヌエーラの仕出かしについて探られることを避けたのだ。
「──とまあ、概ね予想通りの流れといったところだろう。フェデリカは王家に振り回され人生を奪われた令嬢として、今のところは周囲も同情的だ。だがそれが憐れみに変わることがないよう、現状を放置するつもりはない」
「人は自分より憐れなものが大好きですからね。それに一度見下した者への認識を改めることも難しい。存分におやりなさい、ジュゼッペ」
「仰せのままに。愛しい人」
三人掛けのソファに寄り添って座り、周囲の目を気にすることもなく見つめ合う父母の姿に、対面に座るフェデリカは傍らのエドアルドと顔を見合わせ、苦笑する唇をそっとカップの裏に隠した。
これがパレリオ侯爵家の日常である光景に、家に戻って来たのだという実感が込み上げる。
フェデリカは五歳まではこの邸宅で、家族に囲まれ幸福に暮らしていた。仲の良い両親と生まれて間もないエドアルドと穏やかに過ごす日がいつまでも続くのだと、そう信じて疑っていなかった。
第二王子アンドレアの五歳の誕生日を祝う宴の日。
その日がすべての運命を狂わせた。
それからのフェデリカの日々は、冷えて凍てついたものだった。粘ついた欲を滲ませる瞳も、腫れ物を扱うような目も、憎しみの目も。すべてフェデリカが望んだことではないのに、針の筵に座らされてるような気分だった。
そんな環境の中でも耐えることができたのは、両親からの愛情を疑っていなかったからに他ならない。ジュゼッペは会うたびにフェデリカの感情に寄り添い、それが叶わぬとなっても気遣いを欠かさなかった。
王宮にあったフェデリカの居室は、家からの贈り物で満たされていた。贈り物に添えられたカードも、やりとりしていた家族との手紙も、大切に机の引き出しに入れられていた。半年と経たず手紙で溢れそうになって、侍女が慌てて専用の入れ物を用意していた。
その箱も当然、この邸に持ち帰ってきている。
かつてを懐かしむように思い出していると、遠慮がちに腕に触れるものに気付き、フェデリカは隣に座るエドアルドを見つめた。
フェデリカが強く覚えているのは、まだふにゃふにゃとしていた弟の姿だ。成長した姿は何度となく見ていたはずなのに、十二年という年月の長さを改めて思い知らされてしまう。
「……姉様? 具合でも悪いのですか」
「いいえ、大丈夫よ。エドアルド。心配してくれてありがとう。……あなたも随分大きくなったのねと、昔を思い出していたの」
フェデリカがそう言って微笑むと、エドアルドの幼さを残した頬にサッと朱が走った。すぐに顔が反らされてしまい、残念に思ったフェデリカはエドアルドが全身を固くするように緊張している姿に気付くと、仕方がないと微かに口元を緩ませて正面に視線を戻した。
いつからかこちらを見ていたらしいルクレツィアと視線が合う。月の光を透かし込んだような淡い銀の髪と、深い森の静かさを湛えた緑の瞳。彼女の色を受け継ぐことがあればと考えたことがないとは言わないが、フェデリカは父似であることを誇りに思っている。
それにもしそうなっていた場合、マヌエーラの執着はエドアルドに向いたかもしれない。エドアルドが母に似たことは幸いだった。
「エドアルド、そろそろ剣の時間でしょう。訓練場で教師が待っているわ」
「……はい、母上」
名残惜しそうに立ち上がるエドアルドに、フェデリカがそっと声をかける。
「後で練習している姿を見学してもいいかしら?」
「っ、もちろんです、姉様! 僕、頑張ります! ──では、失礼します」
ルクレツィアに促された時とは対照的に態度を変えて居間を出て行く後ろ姿を見送り、呆れた溜息が部屋に落ちる。
フェデリカが両親の座るソファに目を向ければ、ジュゼッペが控えめな笑みを浮かべ、ルクレツィアが困ったように頬に手を当てていた。両親のその様子に、フェデリカは小さく首を傾けた。
「仲が良いのは構わないけれど、あまり甘やかさないように」
「はい、お母様」
「よろしい」
鷹揚に頷き、ルクレツィアが壁際に控える家令を見る。歩み出てきた家令の手には銀盆があり、その上には封筒が載せられていた。
フェデリカは一度ジュゼッペを見て、それから家令が差し出した封筒を手に取った。封筒にはすでに開けられた形跡があり、ジュゼッペもルクレツィアも目を通した後なのだろう。
使用されている封蝋に刻まれた家紋は、クレーヴズ公爵家のものだった。
「クレーヴズ公爵家主催の園遊会への招待状よ。王妃とは確執があったけれど、家門としての含みはなかったと周囲に知らせたいみたいね」
クレーヴズ公爵家とパレリオ侯爵家の仲は良くもなければ悪くもない──不干渉を保っていた。何かの披露目や慶事でもなく、ただの園遊会に招待されるなどこれまでにはなかったことだった。
「私としては無視してかまわないわ。図々しい。何故こちらがあちらの思惑に乗って出向かなければならないの。まずは頭を下げに来るのが先でしょう」
「ルクレツィアの言い分ももっともだ。それに今まで関わりなかった家だ。何事もなかったというのなら、何事もないままでも問題ない」
フェデリカは両親の言葉に頷き、クレーヴズ公爵家からの手紙に目を通した。表面的な内容しか書かれていない言葉には何の価値もない。この誘いに乗ったところで、パレリオ侯爵家に得があるわけでもない。
王家主催のパーティで幾度か顔を合わせてはいたが、クレーヴズ公爵家は保守的な家だった。外から妻を娶ったジュゼッペに対して、あまり好意的にも見えなかった。
フェデリカとアンドレアの婚約の話が持ち上がった時、真っ先に反対の声を上げたのが公爵家だった。
(家としての利益はないとお父様もお母様もおっしゃっている。……だけど、これを私に見せるということは無視できない理由もある、ということ)
フェデリカが思案する間、ジュゼッペとルクレツィアは見守るように娘を眺めていた。試されている──わけではなく、フェデリカの意思を尊重しようとしてくれているのだろう。
だから二人は先に本音を語ってくれたのだ。フェデリカの選択肢を狭めないために。
これでどうして愛されていないなど思えるか。
たとえ離れて暮らすことになっていても、家族の繋がりまで断たれたわけではない。
「──いえ、せっかく頂いた招待ですから、お受けしたいと思います。思うところがないわけではありませんが、私も社交界に復帰しなければなりませんし、時期的にもちょうどよいかと」
フェデリカは侯爵邸へと帰ってから、一切の社交を断っていた。対外的には傷心のためということになっているが、実際のところはようやく取り戻せた家族との時間を優先しているだけだ。けれど、いつまでも社交を無視することはできないとも理解している。
その答えにルクレツィアは不満そうな顔を見せたが、否定はしなかった。
「明日仕立屋を呼んでいるから、ついでに仕立てましょう」
「ありがとうございます」
「明日か……。その場に立ち会えないのは残念だが、当日の楽しみにしておこう」
「あら。あなたも参加するの?」
穏やかに微笑みながら告げるその声には、冷ややかな棘のような含みがあった。ジュゼッペはフェデリカに「今の聞いたかい?」と確認するような顔を向けて、ルクレツィアの艶やかな銀髪をそっと掬い上げた。
「当然だろう。大切な妻と娘だけを見世物にするつもりはないよ。どうせ見られるなら堂々と自慢してやりたいじゃないか」
「私はあなたの装飾品じゃなくてよ」
「訂正する。着飾った君を私のいない場所に立たせるのは、気が気でなくなりそうなんだ。どうか他の男など見ずにずっと私だけを見ていて欲しい」
茶菓子もいらないほどの甘い雰囲気を感じながら、フェデリカはカップを傾ける。空になってしまうと、音もなく近付いてきた侍女が二杯目を淹れる。
カップを差し出す際に身を屈めた侍女に、そっと耳打ちする。
「お二人はいつもああかしら?」
「はい、お嬢様。お嬢様が帰られてからは、一段と」
「……そう。仲がいいのはいいことね」
侍女は頷くように浅く顔を下げ、離れていく。二杯目の紅茶はやや濃い目だったが、だがそれがちょうどよかった。
もしかしてフェデリカも席を立った方がよかったのではないかと思い至ったのは、二杯目を飲み始めて少し経った頃だった。だが仲の良い両親の姿を眺めているのは楽しかったし、話はそれだけとも言われていない。
どうすべきか判断に悩み始めた時、不意にルクレツィアの目がフェデリカを捉えた。その眼差しはジュゼッペに向けていたように柔らかい。
「あなたの次の婚約だけれど」
「……はい」
いきなり切り出された話題にフェデリカは僅かに目を開かせ、すぐに落ち着いて頷いて見せた。
「あなたの好きになさい。心惹かれる相手がいるならその方を。私たちに任せるのなら、あなたにふさわしい相手を選んであげる」
フェデリカは記憶をたぐり寄せるように考えてから、緩く首を横に振った。当時はフェデリカにも婚約者がいたし、そんなことを考える余裕はなかった。
次の相手と言われても、想像することさえ今は難しい。
「お気遣いありがとうございます。ですがもし許されるのであれば──もうしばらくは、お父様とお母様の娘でありたいと思います」
「……そう」
ルクレツィアは噛み締めるように呟き、愛おしそうに目を細めた。
やがて、フェデリカが席を立ち扉へと歩きかけた時。ふと思い出したようにジュゼッペが声をかけてきた。
「そういえば、あの二人のその後は気になるかい」
第二王子アンドレアとその恋人モニカのことだろう。
ジュゼッペを見返せばどこか含みのある表情を浮かべていて、フェデリカは軽く肩を竦めて見せた。
「私にはもう関係のない方々と思いますので」
「それはそうだ。だが口さがない者がいたずらに囁くかもしれない。書面にまとめてあるから、読み終わったら燃やすように」
「はい。そのようにいたします」
改めて二人に頭を下げ、フェデリカは部屋を出る。
懐かしい──だがどこか見知らぬ場所であるような邸宅内を眺めながら、フェデリカはエドアルドの待つ訓練場にゆっくりと足を進めた。
本編完結。




