04
説明回。
パレリオ侯爵とその娘が退室した後も、アンドレアは気を緩めることができなかった。追い縋るようにジュゼッペの名を叫んだマヌエーラに言い知れぬものを感じ、すぐに扉が閉められてほっとしたほどだった。
そうしてふと周囲を見渡し、モニカの存在を思い出した。決められた婚約者よりも優先していた自分で見つけた恋人の姿に愛しさが湧き上がるのと同時に、フェデリカが立たされていた境遇を思い出して苦さが込み上げてくる。
アンドレアも最初からフェデリカのことを嫌っていたわけではない。
それにフェデリカは侯爵令嬢ではあるが、その身には同盟国の王族の血が流れている。決して蔑ろにしていい相手ではないと理解していたが、それでも父や母が実子であるアンドレア以上にフェデリカを大切にしている光景を横目に育ち、理不尽な苛立ちを抱くようになっていた。
当時のフェデリカも、アンドレアと同じ年であったのに。
実両親の下から離されて暮らすことになっていたフェデリカの心境など、一度も考えたことがなかった。
ただフェデリカとの婚約を解消し、モニカとの関係を認めて欲しかっただけなのに。
こんなことになると誰が想像できただろうか。
(……いや、父上もパレリオ侯爵もわかっていたのだろう)
フェデリカの献身という形でのみ保たれていた歪な均衡を、アンドレアが何も知らず崩したのだ。
アンドレアは軽く頭痛のし始める頭を振り、壁際で気まずそうに佇む側近に顔を向けた。
「ステファノ。モニカを送ってやってくれ。それとわかっているだろうが、ここで見聞きしたことは忘れろ」
「かしこまりました」
ステファノが差し出した手にモニカが恐る恐る手を伸ばす。気遣わしげにモニカが寄越した眼差しにアンドレアは安心させるように笑いかけ、立ち去る背中を見送った。
軽く息を吐き、アンドレアはファビオを見る。ファビオもそのつもりだったように、マヌエーラの侍女に命じて彼女を退室させると、側近や騎士たちも外に出るよう命じる。
残ったのはファビオとアンドレアの二人。
ファビオは椅子から立ち上がると、先程までジュゼッペ侯爵たちが座っていたソファに移動した。
アンドレアは正面に座るファビオをじっと見つめ、しばし躊躇った後でそっと口を開いた。
「陛下──いえ、父上。私は母上から、フェデリカ嬢との婚約は彼女が強く望んだゆえに結ばれたものだと聞きました。王宮に部屋を与えたのも、彼女がそう望んだからだ、と」
だから当時幼かったアンドレアはフェデリカのことを、なんて我儘で傲慢な少女なのだろうと思ったのだ。両親がやけにフェデリカに気を遣ったような、目をかけるような行動もその思い込みを助長した。
「しかし先ほど、パレリオ侯爵からはフェデリカ嬢が王宮に住まうのは母上の命令だったと聞きました。……俺とフェデリカ嬢の婚約も、彼女が望んだわけではない。違いますか」
アンドレアの膝に置かれた拳は、きつく握られていた。ファビオへ投げかけた言葉は質問ではない。確認だ。
ファビオはアンドレアが向ける眼差しをまっすぐに受け止め、頷いた。
「そうだ。お前と侯爵令嬢の婚約はあれが強引に進めさせた。……国内の情勢も周辺国との関係も良好で、第二王子であるお前の婚約を急ぐ理由はどこにもなかった」
同意と理解を示すようにアンドレアは浅く頷く。
アンドレアには三つ年の離れた兄がいる。第一王子であるブライアンはすでに立太子しており、現在は国の代表として諸外国を歴訪していた。
「ブライアンの婚約話が出始めたばかりの頃でもあった。それゆえにパレリオ侯爵令嬢を王家の婚約者に迎えるなら、相手はブライアンでも良いのではないかという意見も出た。しかしこれには別方向からの反対もあった。フェデリカ侯爵令嬢の中には同盟国の王族の血も流れているからな」
パレリオ侯爵家に今以上の発言力を持たせないようにするためでも、同盟国からの不必要な干渉を防ぐためでもあった。今は良好な関係を築いていても、未来は誰にもわからない。
そうして第一王子ブライアンには、マヌエーラの生家であるクレーヴズ公爵家の派閥から婚約者が選定され、第二王子アンドレアにはマヌエーラの希望通りフェデリカ侯爵令嬢が選ばれた。
アンドレアとフェデリカが当時五歳のことだった。
「ですが、父上が認めなければ……」
「国内にフェデリカ侯爵令嬢に釣り合う相手がいなかった。長年国の忠臣であり続けるパレリオ侯爵家と他国王族の血を引く娘だ。下手な相手には嫁がせられない。最終的にパレリオ侯爵にもそう伝えて無理矢理頷かせた。いずれ婚約するのなら時期を早めても構うまいとな。……愚かな判断をしてしまったものだ」
そう呟く声には深い後悔が刻まれていた。
アンドレアとフェデリカの婚約は、避けられないものだったといえよう。パレリオ侯爵家にはフェデリカの弟も生まれており、この国は男系継承だ。フェデリカが侯爵家を継ぐことはなく、他家への嫁入りは決まっていた。
だがその血筋を考えれば、王家に嫁ぐこと以上の良縁はない。二人の婚約に何の問題も起きなければ、いずれアンドレアが大公家を興し、フェデリカはそこに嫁ぐはずだった。
遅かれ早かれ婚約は避けられなかったと知り、アンドレアは納得すると同時にやはり釈然としなかった。
「それならばなぜ、母上は婚約を急いだのですか」
「……お前は私とパレリオ侯爵が乳兄弟として育ったことは知っているか」
「はい」
「私たちは友人兼遊び相手として育ってきた。それは年頃になり、私が婚約者を得てからも変わらなかった。互いに妻を迎えたあとも、パレリオ侯爵は宰相として私を支えてくれていた。得難い友だった」
過去形で語るそれは、その友情に亀裂が入ったことを悟っているからだろう。
しかしなぜ急にそんな話をと首を傾げ、ある予感がアンドレアの胸をよぎった。だがそれを責めることはできなかった。
なぜならアンドレアもまた、同じことを仕出かしたのだから。
愕然とした感情を抑えてファビオを見遣れば、憐れむような目で見返され、戸惑う。
「本当によく似た母子だ。お前には半分は私の血が流れているはずだが……、侯爵令嬢と同じだな。令嬢も侯爵によく似ている」
よく似た母子──。
それはマヌエーラとアンドレアの二人を揃って指すときに、よく耳にしていた言葉だった。性差による違いはあるものの、アンドレアの髪や瞳、その顔立ちはファビオではなくマヌエーラに似ていた。
そしてフェデリカもまた、侯爵夫人ではなくジュゼッペ似だった。
「そうだ。あれは私と婚約している間からパレリオ侯爵に懸想していた。王族との婚約を解消できるはずがないと理解していたからこそ、長年秘められたそれに私は少しも気付かなかった。愛によって結ばれた婚約でもない。あれの目がどこを向いていようと、気にもしなかった」
そうして時が来ればファビオとマヌエーラは婚約者から夫婦となり、義務によってブライアンが誕生した。ファビオに似た男児だった。
それからの平穏は一年と続かなかった。
ある時同盟国の使節団がこの国を訪れ、その中にいた末姫がジュゼッペを見初めた。ジュゼッペは当時宰相補佐として、使節団の歓待を任されていた。接する機会は多かっただろう。
後にジュゼッペもまた同盟国の末姫ルクレツィアを気にかけていたことが判明するのだが、使節団の帰国後すぐに寄越された婚姻の打診は悩むことなく受け入れられた。
次にルクレツィアがこの国を訪れた時には、身の回りの世話をする者たち以外に婚礼道具も運ばれていた。
「今思えばそこから少しずつ、あれはおかしくなってしまったのだろう。パレリオ侯爵を奪った相手が憎い。しかし嫁いできたとはいえ同盟国の人間を害することはできない。憎悪の矛先をどこにも向けられぬまま、あれの心の内は澱んでしまった」
そう言って疲れたように息を吐く父の姿を眺め、アンドレアはファビオがマヌエーラを名前で呼ばなくなっていることに気付いた。
「そしてパレリオ侯爵夫人が身ごもったことが判明すると、あれは子を求めてきた」
「っ」
「私も周囲も第二子を望んでいたから気にしなかった。そうして生まれてきたのがお前だ、アンドレア」
ファビオがアンドレアに向ける眼差しは憐れみか、同情か。
胃の腑からせり上がってくる酸っぱさを喉奥で耐え、アンドレアは爪が食い込むほど強く手のひらを握り締めていなければならなかった。
そうしなければ、ぶつける先もわからない感情に気が狂ってしまいそうだった。
「第二子が男児とわかった時のあれは喜びに満ちていた。私は娘でも構わなかったが、あれにとっては男児であることが何より重要だったのだろう。先に生まれたパレリオ侯爵家の第一子が娘だったからな」
パレリオ侯爵家に生まれたジュゼッペに似た娘。
そして王家に生まれたマヌエーラに似た息子。
それが判明した時にはすでにマヌエーラの中では、二人が婚約し結ばれることは確定した未来だった。
「お前たちに自分を重ねて見ることで、あれは叶わなかった願いを成就させた。だがそこまで執着深い人間が、果たしてそれだけで満足すると思うか?」
ファビオに問われ、アンドレアはゾッとする思いを堪えて首を振った。
「いえ……。先ほど見た母上は、フェデリカ嬢に母と呼ばせることに固執しているようでした。……もしや、成り代わるつもりでいたのですか」
「そこはあれに聞かねばわからん。聞きたくもないがな。だがその可能性は大いにあり得る。だからこそ、侯爵令嬢が育ちきる前に自分の手元に置きたかったのだろう」
「……それも、父上やパレリオ侯爵は反対なさったのですよね」
「当然だ。幼子を親元から引き離すなどという非道な行いをどうして見過ごせる? ……だがだめだった」
そこで言葉を区切り、じっと見つめられてアンドレアはたじろいだ。
この先を聞くのは恐ろしい──だが、アンドレアは知らなければならない。
それまで誰も教えてはくれなかったこと。
自身で調べようともしなかったこと。
その果ての結果を背負うためにも、これ以上知らぬ振りはできなかった。
「何があったのですか」
「覚えてはいないか。お前の誕生祭の日。あれが勝手に先走ってお前と侯爵令嬢の婚約を発表し、王家預かりになることを宣言した」
「っ」
「王家の言葉は重い。多くの貴族たちの前で発表されたそれを、なかったことにすることはできなかった」
ファビオに言われ、アンドレアは記憶を手繰った。
唐突にマヌエーラが告げた婚約話は、アンドレアにとっても初めて聞かされたものだった。祝福する貴族たちとは正反対に、ファビオやジュゼッペたちの様子がおかしいと、幼心に感じ取っていたことを思い出す。
あの時周囲に漂っていた空気の意味を、ようやく理解する。
「ですが、そんなことをすればパレリオ侯爵は遠ざかるだけでは……」
「だがあれの手元には娘がいる。見捨てることなどできるはずがあるまい。侯爵にできたのは、侯爵令嬢の養育にかかる費用の一切を王家から受け付けないこと。娘を売ったわけではないと、パレリオ侯爵はそれだけは譲らなかった」
「……だから王室費には手をつけていないと……」
「お前が何を聞いたか知らんが、噂を鵜呑みにするな。まずは疑い、確かめろ」
静かな叱責にアンドレアは恥じ入るように体を小さくし、膝の上の拳を強く握った。
そのような境遇を受けていた令嬢に対して、ひどい扱いと罵声を向けてしまった事実が重く胸に圧し掛かってくる。だが今さら悔いたとて遅い。
ここまでを聞けば、ファビオとマヌエーラそれぞれが見せていたフェデリカへの接し方についてようやく理解することができた。
マヌエーラは歪んだ執着ゆえに。
ファビオは止められなかった贖罪ゆえに。
「兄上も知っていたのですか」
「ああ。だが侯爵令嬢への接触をあれが禁じた。ブライアンは私に似ただろう?」
自嘲の滲む顔に、アンドレアは何も返すことができなかった。
もう説明されずとも、マヌエーラの考えが読めてしまう。
「なぜ──なぜ、俺には教えてくれなかったのですか」
他でもないアンドレア自身の婚約だった。それなのになぜ、蚊帳の外でいなければならなかったのか。
真相を知っていれば、フェデリカとの仲だって──。
「まさか──。父上たちは破談を期待していたのですか! 俺は、俺を何だと……っ!」
口走りかけた言葉を慌てて飲み込む。アンドレアはばつの悪い感情を抑えてファビオを見て、その憐れむような眼差しにカッと頭に熱が昇る。
「真実など知らずとも、相手を思いやることはできたはずだ。それをしなかったお前に真実を伝えたとて、侯爵令嬢を憐れまなかったと言えるか?」
「っそ、れは」
「……私はお前たちがどんな形であれ、想い合い、支え合う関係になるならばそれでも良いと思っていた。人の心など周囲にはどうすることもできないと、あれを見て痛いほど理解させられたからな」
ファビオの深い疲労の滲んだ溜息は、肩に乗り続けていた積年の重荷をひとつ下ろせたからか。
アンドレアは何を言い、何を責めればいいのかもわからず、ただ途方もない虚脱感にかたく目を閉じた。
短くも長い沈黙の後に口を開いたのはファビオだった。
「あとはもういいだろう。──他にあるか」
「いえ──、……はい、ひとつだけ」
「なんだ」
アンドレアはこの長くはない時間の中で、考えたことがあった。
それを口にするとファビオはまるで予想していたとでもいうような表情を浮かべ、静かに息を吐き出した。




